戦後10年を経過した昭和30年代に入ると,日本は,敗戦の混乱からしだいに落ち着きを取り戻し,経済活動も活発になり,生活水準の向上を目ざすようになった。産業界は,資源や労働力,設備の効果的な利用による生産コストの引き下げと市場の拡大を目標とした。その結果,国産自動車の技術向上と生産拡大や,三種の神器とまでいわれたテレビ,洗濯機,冷蔵庫を中心とする家電ブームを迎えた。いわゆる「神武景気」の到来である。
一方,西洋先進諸国は,飛躍的な技術の進歩の時代に入った。ソ連の人工衛星「スプートニク1号」の打上げ成功をはじめとした米・ソのはげしい宇宙開発,今日のコンピュータ時代の礎となった集積回路(IC)の開発などは,昭和30年代前半のできごとであった。
こうした国内外の情勢のなかで,徳島県においても産業界の躍進はめざましく,生活水準の向上にともなって教育・学術および文化の各領城において,県民の多様なニーズが高まってきた。その一つが,博物館の建設であった。
国が博物館法を制定したのは昭和26年12月1日である。社会教育における博物館の役割もしだいに国民に浸透していったが,現実には博物館の建設へと直接結びつくものとはなりえなかった。昭和32年8月時点での全国館園数は489館で,人口18万につき1館の割合であった。徳島県より人口の少ない県においても,福井県7館,山梨県6館,奈良県12館,鳥取県4館であった。四国では,香川県7館,愛媛県9館,高知県6館であった。
徳島県内の博物館施設は,徳島市動物園,美馬町郷土博物館,藍住公民館郷土室(後藍住町重要民俗資料館),三木文庫,鳴門水族館(現在廃館)の5館にすぎなかった。
このような博物館の設置状況からも,県民の声として博物館設置が強く要望されたのであった。
また,当時,文化財を公開展示し,保管するための施設として,博物館建設を望む声もあわせて高まっていた。昭和32年4月時点における県内の国指定文化財件数は,重要文化財7件,重要民俗資料2件,史跡1件,名勝2件,特別天然記念物1件,天然記念物7件,重要美術品5件であった。一方,県指定文化財数の件数は,有形文化財10O件,無形文化財3件,民俗資料2件,史跡11件,名勝1件,名勝天然記念物2件,天然記念物24件であった。これら指定文化財のほか貴重な各種の文化財は,多くは個人が所有し,県民の目にふれる機会はきわめて少なく,公開を望む声や保存を危ぶむ声も聞かれるようになっていたのである。
博物館建設の声は,こうしたさまざまな状況のなかで,有識者を先頭に県民各層に幅広く高まっていたのであった。
博物館建設の気運は,県下各地で高まっていったが,時代を反映して産業および科学を重点においた博物館であった。こうした動きに呼応して,昭和32年7月20日,県教育委員会は,博物館建設の促進を図るため県教育委員会内に博物館推進本部を設置した。
本部長には仁科義之県教育長が就任し,県教育委員会の職員からなる委員7名,幹事24名,書記9名を任命した。委員7名は,総務課長,管理課長,指導課長,社会教育課長,体育保健課長,県立図書館長,県立教育研究所長があたり,幹事24名は委員に就任した各課・館などの課長補佐,次長,副所長らが担当し,書記は社会教育課公民館係,文化財係,各郡市担当の職員で構成した。
推進本部の役割は,博物館設置の現状調査をもとに,本県がすすめようとする博物館の建設構想,資金計画,募金計画,その他目標達成のための検討を行うことであった。とりわけ,小学校,中学校,高等学校の関係者とは緊密な連絡をもちながら,学投側の意向を打診し建設の推進を翳ったのである。
博物館建設推進本部が設置されてから2か月後の昭和32年9月26日博物館建設期成同盟会を結成することとなり,その発起人会が徳島県議会議場において開催された。これは,原菊太郎徳島県知事,小浜伝治郎県教育委員長の両氏の呼びかけによるもので,350人余の各界代表者が参集し,博物館建設事業を推進するために期成同盟会の結成を決議,同会規約の承認,同会役員の選出等を行った。会長は県知事が就任し,会の事務局を県教育委員会に置くこととなつた。役員は,顧問17名,会長1名,副会長12名,理事70名,監事3名,評議員367名,参与1.700名,計2.164名からなる大世帯で構成された。まさに県下各界各層の代表者の賛同を得て結成されたのである。
この会の目的はもちろん博物館建設を推進することにあるが,同会規約には「本会は県民の教育学術及び文化の発展に寄与するため博物館を建設することを目的とする」ことを掲げ,その具体的に取り組む事業として,[1]博物館思想の啓蒙宣伝,[2]博物館建設の企画立案,[3]博物館建設資金の募金及びこれに伴う事業,[4]その他目的達成に必要な事業を実施するとした。しかし,最大の目的は建設資金の募金活動にあったのである。
博物館建設推進本部や建設期成同盟会などによって,博物館建設構想は煮詰まっていった。
建設場所は,徳島市のシンボルである眉山の北麓,天神社の下にある徳島市営ロープウエイ山麓駅のある場所が予定された。徳島駅に近く,徳島市の中心街にも隣接する場所である。敷地面積は475坪余である。
建物は近代建築様式とされ,鉄筋コンクリート造の4階建で,建物延面積は702坪余の計画となった。1階と中2階は県物産斡旋所とし,県内産業とその産物を展示・紹介する産業博物館的役割を果たす場とした。博物館は,2階,3階,4階に計画され,館の内容は総合博物館となった。
つまり,歴史,民俗,考古,美術,産業,科学,生物,地学部門からなる総合博物館ということになる。なかでも,近代産業に関する展示や各種機械等の模型と操作による学習,学習に関係のある実験並びに実習に重点を置くものであった。2階には事務室,郷土室,美術室,3階には科学室,産業室,実習室,4階には博物室,保管室,休憩室,大集会室を配し,16人乗りエレベータ1基を設けるというものであった。ここにいう博物室とは,生物,地学開孫の展示をする内容のことを指している。また,階の呼びかたは,完成後,物産斡旋所の中2階を2階に改めたため,博物館の2,3,4階は3,4,5階ということになった。
この博物館建設をすすめるにあたっての難問は,建設費であった。当時県財政は赤字の状況にあり,全額県費でまかなうことは無理であった。そこで県民から寄附金を募ることになったのである。
建設経費は,県物産斡旋所の1階,中2階分については県費負担とし,博物館分の敷地代1.100万円,建設に伴う総事業費5.500万円,計6.600万円が計上された。この資金は,県費1.100万円,残り5.50O万円を寄附金に頼ることとなった。
折りしも,県は赤字財政から脱卸すべき再建途上にあって,博物館建設費のほとんどを県民の浄財に頼らざるを得ない状態であったのである。建設費の募金活動は,博物館期成同盟会において行われた。募金の対象は,児童・生徒を含む県民すべてのはか,県出身で県外在住者まで広げられた。
募金活動の目標は,次のように設定された。
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児童生徒目標額 |
18,000,000円 |
(在校生の8割) |
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小 学 生 |
8,800,000円 |
(県下平均一人当た86円60銭) |
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中 学 生 |
5,020,000円 |
(県下平均一人当たり105円) |
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高校生(全日制) |
3,740,000円 |
(県下平均一人当たり225円) |
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高校生(定時制) |
360,000円 |
(県下平均一人当たり152円) |
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県内,県外目標額 |
37,000,000円 |
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県内有志特別寄附金 |
12,000,000円 |
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県外 〃 |
15,000,000円 |
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県内一般寄附金 |
10,000,000円 |
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募金目標総額 |
55,000,000円 |
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目標の児童生徒の拠出金については,とくに父兄の負担とならないよう児童生徒自らの勤労と節約によって生み出すことになり,具体的な方法は学絞側に委ねられた。募金活動は,児童生徒を通じて各家庭に浸透した。まさに全県下あげての博物館建設が,県民運動として展開されることとなった。
募金活動を遂行するにあたって博物館期成同盟会では,博物館建設の目的や構想,そして募金活動への理解を深めてもらうため広報活動を活発に行った。ポスターやパンフレット,完成予想図を掲載したしおりなどを作成し,県下各小・中・高校ほか公民館,市町村等に配布するとともに,児童生徒を通じて各家庭にも配布した。県も定期的に刊行している県庁だよりに建設状況を掲載したり,報道機関を通じて博物館建設について広報に努めた。
また,博物館活動の理解を深めるため,県下小・中学枚へ簡易プラネタリウムの巡回を行った。このプラネタリウムの巡回は,完成後の移動天文教室へと引き経がれていった。さらに推進のため,県下児童生徒から標語と作品を募集し,賞状賞品を授与した。募金活動は,目標額の達成に向けて日増しに活発になっていった。とりわけ,県下児童生徒の活動は目ざましく,数々の工夫をこらして寄附金の捻出に奔走した。児童生徒が行った活動とは,次のような内容であった。
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古切手あつめ |
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道路補修作業 |
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一円札あつめ |
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竹のささ集め |
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購買部の利用増 |
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工作品の製作 |
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募 金 箱 |
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大根割干あつめ |
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人形劇の開催 |
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わらあつめ |
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木炭や薪の運搬 |
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甘藷の供出 |
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養 兎 |
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薬草の採集 |
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桑皮むき |
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わらびぜんまいの採集 |
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土木工事砂運び |
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学校造林の手入と薪の売却 |
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映 画 会 |
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運動会で売店 |
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落穂落葉あつめ |
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廃品回収 |
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白石拾い |
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こづかいの節約 |
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一坪農園 |
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こうした方法のほかにいろいろなアルバイトによる方法もとられた。児童生徒の努力によって,児童生徒の目標額は完成前に100%達成された。オープン約1か月前の昭和34年10月30日現在までに集まった募金総額は,目標の5.500万円の89.5%,49.268.903円となったのである。そして,不足分については開館後も続けられた。
これらの寄附行為に対して,高額者には表彰,寄附者全員には氏名を記載した真鍮製の銘板(長さ1.20m,幅36cm,厚15cm)11枚を作成して,完成した館の屋上壁面に掲げ,寄附者の芳名を永久に残すことになった。
博物館の建設は,博物館建設期成同盟会の発足によって本格的に動き出したのであるが,ここに完成に至るまでの主な事項を年次的に拾ってみると次のとおりである。
○昭和32年 7月20日 |
徳島県博物館建設推進本部を県教育委員会に設置。本部長仁科義之県教育長。 |
○ 〃 9月26日 |
徳島県博物館期成同盟会の結成。会長原菊太郎県知事。 |
○ 〃 10月10日 |
寄付金の募集開始。 |
○ 〃 11月 |
建設計画のポスター等作製し,広報活動を始める。 |
○昭和33年1月〜3月 |
建設推進のため児童聖徒から標語と作品を募集。 |
○ 〃 2 月14日 |
プラネタリウム巡回(第1回)。県下小・中学校47会場で開催。 |
○ 〃 5 月 1日 |
建築設計を株式会社東畑建築事務所(大阪市)に決定。 |
○ 〃 5 月27日 |
プラネタリウム巡回(第2回)。県下小・中学校18会場で開催。 |
○ 〃 10月 4 日 |
科学作品展(第15回,県教育会・県教育委員会共催)の出品作品のうち動植物標本57件を寄贈受理。 |
○ 〃 10月19日 |
建設予定地の地質調査工事着手。28日修了。 |
○ 〃 10月31日 |
建築設計書完成し受理。 |
○ 〃 12月30日 |
建築工事指定競争入札の結果,清水建設株式会社(東京都)に落札。 |
○ 〃 12月31日 |
建築工事着手。 |
○昭和34年1月10日 |
起工式挙行。 |
○ 〃 1月24日 |
エレベータ設備工事指名競争入札の結果,株式会社日立製作所(東京都)に落札。 |
○ 〃 1月25日 |
エレベータ設備工事着手。 |
○ 〃 4月 1日 |
専任職員増員発令(4人)に伴い,県社会教育課より県教育委員会応接室に事務所移転。職員7人となる。 |
○ 〃 8月11日 |
国庫補助金40万円の交付決定(昭和34年度公民館等施設整備補助金)。 |
○ 〃 9月23日 |
建築工事,エレベータ設備工事竣工。 |
○ 〃 9月28日 |
県物産斡旋所,新館に移転。 |
○ 〃 9月30日 |
新築建物の管理と開館準備のため,事務所を新館に移転。 |
○ 〃 10月 3 日 |
科学作品展(第16回)の出品作品のうち動植物標本26件寄贈受理。 |
○ 〃 10月13日 |
徳島県博物館条例公布(徳島県条例35号) |
○ 〃 11月 5日 |
建物および附属設備等を博物館と県物産斡旋所との管理区分決定。 |
○ 〃 12月 5日 |
建設資金寄付者の銘板取付完成。 |
○ 〃 12月10日 |
開館式挙行。500人招待。 |
[1]紺綬褒章伝達 |
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[2]徳島県博物館条例施行 |
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[3]博物館の登録に関する規則公布,即日施行 |
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[4]徳島県博物館処務規則,使用料規則など公布,即日施行。 |
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[5]徳島県博物館展示資料出品規程施行。 |
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[6]館長以下職員発令 |
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[7]寄付金総額 51.810.334円 |
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○昭和34年12月11日 |
開館記念句間,4.500人を招待。 |
○昭和35年 2 月 5 日 |
物産斡旋所開所式挙行。 |
○ 〃 2 月24日 |
公立博物館として登録。 |
完成した博物館は,当初の構想とほぼ同じく,文化の殿堂にふさわしい近代的な建物であった。当時の徳島市内の建築物としては,近代建築の技術を駆使した最新のものとして登場した。その概要を記しておきたい。
○位 置
徳島市西山手町1丁目1番地
○敷地面積
1,570.90m2(475.20坪)
○建物構造
鉄筋コンクリート造陸屋根5階建塔屋3階付
エレベーター(16人乗1台)○総工事費
4,878万円(博物館631坪)
※土地は県有地。1・2階(156坪)の物産斡旋所分1,100万円は県商工観光課が負担。
○建 坪
2,601.865m2(787.064坪)
内訳 博 物 館 2,104.978m2(636.756坪)
物産斡旋所 496.887m2(150.308坪)
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博物館建設推進本部の設置から2年4か月余を経た昭和34年12月10日,県民待望の開館の日を迎えた。県下児童生徒の涙含ましい努力と県民や企業の多くの支援が,ようやく実を結んだ。まさに県民の手でつくった博物館であった。
新聞朝刊は,“県博物館きょう開館”と大きく報じた。博物館開館準備に携わった職員は,当日朝まで作業を行ったとか。前日9日には,仁科県教育長が準備状況を視察した。
開館式は,関係者500人を招待して,完成した5階集会室において盛大に行われた。式は,県民の汗の結晶によって生まれたことを配慮して,昼食はもとより記念品なども配らないきわめて質素なものとしたが,参列した人びとの顔が喜びと満足感にあふれたすばらしい式典であった。
徳島新聞夕刊は・開館式の模様を“県博物館はなやかに開館式”という大見出しで詳細に次のように報じた。
「この朝博物館の正面玄関には“視開館”の懸垂幕がたれ下がり,モーニング姿で来賓らの応対にあたる垣本事務局主査らは「よくできましたね。オメデトウ」のお祝い攻め。開館式は十時五十分,会場の五階集会室に文相代理の近藤唯一文部社会教育官,松山日米文化センターのドナルド・E・オルブライト館長,原知事,竹原教育委員長,内藤県議長,豊田徳島市長,各市町村長,柏原徳島商工会議所会頭,小学校代表・葛佐文一郎(石井小六年生),中学枚代表・村田雅則(富岡中三年),高校代表・島田三郎(城東高ニ年生)君などが出席して開かれた。
まず建設期成同盟会長の原知事が「赤字県のため県費の支出が思うにまかせず建設までにはいろんな苦労があった。しかし県民各位,とりわけニ十ニ万人の小・中・高枚生の勤労と節約などでここに近代的な博物館の開館をみたのはよろこびにたえない。内容展示物はさらにみなさんの協力を得ながら充実したい」とあいさつ。正面壇上で原知事から十万円以上を寄付した森下長一氏(海部郡海部町鞆浦)ら十九人と三十九会社・団体に紺綬褒章が伝達され,建設に従事した清水建設,東畑建設,日立製作所に感謝状が渡され,近藤文相代理から祝辞があって十一時半,万歳を三唱して式を閉じた。
このあと思い思いに郷土室,産業室,現代美術室,科学室,生物・地学室の各室をはじめて観覧したが,万野県婦連会長らは「思いのほか展示品がそろってますね。産業室や科学室は少々宣伝くさいところがないでもありませんが,観覧者にしてみれば十分参考になりますから結構です」と目を見はり,知事も「この分なら店開きには申し分ない。各室にテープレコーダーをそなえて観覧者に展示品を説明するように研究したらどうか」とご満えつだった。」
一般公開は,翌日12月11日からであった。11日から20日の間は開館記念旬間とし,募金活動の協力者ら5.000人を招待した。徳島県博物館の30年の歴史がスタートしたのである。