そして,展示資料の整備は,県財政の状況から,長期計画のもとに順次取り組むこととし,当面の対策として次の方策で望むこととなった。
この5項目の内容は,オープン当時の状況をよく物語っている。無から出発した博物館がいかに展示資料を確保すべきか,この問題は開館時のみならず,徳島県博物館が最後まで悩み続けた最大のテーマでもあった。
徳島県博物館の30年の歴史を振り返ってみると,およそ3期に分けて動向をとらえることができる。第1期は開館から10年間の昭和43年までの間,第2期は昭和44年から昭和57年まで,第3期は文化の森構想にもとづく新館基本構想づくりが動き出した,昭和58年から閉館に至たる平成2年3月までである。
以下,それぞれの館の概容と動向をみることにする。
創設期のこの時期は,館活動の基礎づくりともいえる。まず機構と組織からみると,初代館長は仁科義之県教育長が兼務し,次長には開設準備にあたった垣本光男が就任した。次長の下には庶務係長1名,庶務係員3名,学芸係員4名の職員が配属された。いずれの職員も開設準備に携わったたメンバーである。
県教育長の兼務を解き,専任館長となったのは2年半経過した昭和37年5月である。その2か月後,学芸係長が誕生し,庶務係との2係制ができ上がった。この時の館長一館長補佐一庶務係・学芸係の組織図は,閉館する平成元年度まで基本的に変わることはなかった。学芸係の4名の陣容は最後まで続いた。とりわけ,館長ポストと学芸係は県教育委員会に所属したこともあって教員人事で行われた。
開館した翌年の2月24日,博物館法にもとづく公立博物館として登録した。つづいて博物館の全国組織である日本博物館協会に加盟した。
昭和35年度に入ると,館活動も本格的になった。県内在住美術作家の委嘱作品を展示する博美展(県美術家協会共催),児童生徒の採集物に名をつける同定会などを開催した。36年度には祖谷展を開催し,以後,県南の自然展,県北の自然展など毎年のように自然を紹介する展覧会を開催した。38年度からは動植物採集自習室,標本の名を調べる自習室や移動天文教室を開催した。博美展や採集物の名をしらべる会,移動天文教室などは,館が閉館する間際まで実施した恒例行事に定着した。
このほか,集会室や会議室を貸会場として行われた多彩な展覧会も盛んになった。各美術家団体が競って行うようになった。当時,県内に展覧会を開催する会場がなかったからである。
第1期の館の実施した特別展・企画展は数多かったが,その多くは共催,後援によるものであった。
常設展の観覧料は小人10円,大人20円(20人以上の団体は半額),特別展示の場合は小人20円,大人40円であった。建設時の経偉もあって観覧料は安く定められ,また学校同体が見学の際は無料とした。
第1期の入館者数をみると,まさに県民待望の感がある。35年度50.978人をはじめ,45.000人から50.000人前後を推移し,43年度には過去最高の52.459人を記録した。“開館から10年間は人が入る”と博物館界の諺どおりである。
第2期(昭和44年〜57年)
組織的には変化はなかったが,43年度に学芸員2名を採用したことから,企画展等活動内容にちがいをみるようになった。全体的に行事数を少なく,中味の充実したものへと変わっていった。共催や後援行事が減り,自前のものが多くなっている。
貸会場の借り上げも減少した。県内に会場が多くなったからである。とくに,県が明治100年記念事業として建設した徳島県郷土文化会館が,46年9月12日に開館した影響は大であった。より近代的な施設は大きな魅力であり,団体等の主催する行事は集中した。県郷土文化会館が美術展や民俗資料展を積極的に開催したことから,博物館における近・現代美術の企画展や民俗部門の資料収集や展示活動は,結果的には委ねる格好となった。
44年度,開館10年を記念して電気科学展や第10回記念博美展を開催した。第2期には,植物採集会や講演会,親と子の遺跡めぐり,遺跡調査などを実施した。また,郷土室では常設展のマンネリ化を避けるため,テーマ展を開催した。
しかし,こうした積極的な活動にもかかわらず,入館者の数は急激に減少した。44年度の35.520人から57年度の24.215人に至るまで,3万台から2万台ヘと下降の道を辿った。44年度は、徳島城公園において大規模な「四国大博覧会」が開催されたことが起因るものである。が,その後の入館者数減少傾向は,県郷土文化会館や各種のレジャー施設などの登場に影響されたとはいえ,やはり最大の原因は館自体のマンネリ化にあったといえる。
こうしたなかで,新しい博物館を望む声はあちこちで聞かれるようになり,館員も新館に期待した。昭和55年1月4日,知事は年頭の記者会見で,置県百年を記念して文化の森を建設することを明らかにした。博物館は,この構想の発表によって,新博物館に向かって動き出すことになった。
第3期(昭和58年〜平成元年)
第3期は,文化の森の新博物館が具体的に動き出した時期である。県民の目ははやくも文化の森に期待を寄せ,館員の努力にもかかわらず,入館者数はさらに激減した。
59年には18.161人と落ち込み,60年度から63年度の間は,1万人台を維持することがやっとであった。59年度には,開館25周年記念特別展「阿波の焼物庸八焼名品展」を開催した。新館準備が多忙になるにつれて,館行事が手薄になっていったのは止むを得ない状況であった。
そして,63年度の第29回博美屡,特別展「朱の考古学−辰砂と若杉山遺跡−」を最後に,特別展及び常設展示は終わった。展示準備や移転準備のため,平成元年度には遂に展示室を閉室し,親子歴史教室と夏休み採集物に名をつける会のみを実施した。親子歴史教室は野外で行う内容だけにとどめ,また名をつける会は県郷土文化会館で会場を借り実施した。
平成2年,年明けとともに慌しさを一段と増した。新館に移管する備品や資料の梱包,そして運搬,あとに残った備品類の廃棄や他の機関への移管と清掃を行った。平成2年3月31日には,すべての作業を終え,県民によって建てられ,支えられてきた徳島県博物館の幕は閉じた。
昭和34年 |
29,888人 |
昭和49年 |
31,358人 |
35年 |
50,978人 |
50年 |
29,336人 |
36年 |
36,389人 |
51年 |
28,158人 |
37年 |
50,652人 |
52年 |
25,888人 |
38年 |
47,971人 |
53年 |
27,077人 |
39年 |
47,479人 |
54年 |
26,181人 |
40年 |
44,917人 |
55年 |
26,107人 |
41年 |
47,639人 |
56年 |
25,300人 |
42年 |
40,175人 |
57年 |
24,215人 |
43年 |
52,459人 |
58年 |
18,161人 |
44年 |
35,520人 |
59年 |
15,346人 |
45年 |
37,912人 |
60年 |
10,902人 |
46年 |
35,274人 |
61年 |
11,295人 |
47年 |
35,949人 |
62年 |
10,236人 |
48年 |
32,682人 |
63年 |
10,310人 |
文化の森構想とは,置県100年を経た郷土徳島が,これからの1世紀さらに輝いたものを願ったものである。眉山の南,園瀬川などの静かな徳島市八万町向寺山一帯の総面積40.6ヘクタールの文化の森総合公園のなかに,図書館,博物館,文書館,21世紀館といった県の中核的な文化施設を一堂に集めて建設をすすめている。また,公園には,図書館に対応して縁陰読書などのできる「知識の森」,博物館には伝統的な民家を集めて展示する「伝承の森」,美術館には野外彫刻などを展示する「創造の森」,文書館には県花県木を植樹する「県民の森」を配置し公園全体がひとつの展示室,閲覧室となるものである。さらに2.000人収容の野外円形劇場やシンボル広場,子供のとりでなどをつくり,訪れる人たちが,「ふれあい」,「学び」,「憩い」のできる公園をねらいにしている。
この文化の森構想は,昭和55年1月4日に発表された。この年の8月,文化の森懇話会が発足し,本県の文化振興策の基本的ありかたについて討議し,翌年2月報告書をとりまとめた。この報告書は“県民の文化活動を結集し,かつ推進する中核施設として「文化の森」建設に総力をあげて取り組まれたい”と述べ,博物館については“現在の博物館は,小さいながらも歴史,自然科学の両者を合わせた総合博物館として機能していますが,あまりにも貧弱であることは否めません。博物館のありかたについては,歴史博物館,科学博物館として独立したものを設置するか,一歩すすめて,両者を合わせた総合博物館とするかを含め,その詳細について専門家をまじえて十分検討することが必要です。”と現状を分析するとともに問題を提起した。
文化の森懇話会の報告書をうけて,美術館,博物館,つづいて図書館の順にそれぞれ基本構想検討委員会が設置され,館の基本構想を討議した。とりわけ博物館基本構想委員会(委員長岡 芳包,委員11名)では,昭和58年3月22日から6回の会合を重ね,翌年1月31日知事に基本構想報告書を提出した。
この報告書は,新館の名称を「徳島県立博物館」とし,人文科学(考古,歴史,民俗,美術<近代美術関係を除く>)と自然科学(動物,植物,地学)の両者が有機的に結びついた総合博物館とする構想をまとめた。
59年度,文化の森建設は本格的な準備に入った。博物館については建築,展示の基本計画を作成し,資料収集を開始することになり,博物館資料収集展示委員会(委員長千地万造,委員9名)が設置された。この委員会でまとめられた展示計画をもとに,60年度展示基本設計,61年度展示実施設計を実施した。展示設計は建築設計と同時にすすめられた。62年8月,博物館等施設建設工事に着手し,平成元年竣工した。
博物館の展示工事は開館に向けて最終段階に入った。新館の常設展示は,総合展示,部門展示,ラプラタ記念ホールの展示からなる。総合展示は,「徳島の自然と歴史」をテーマに,日本列島と四国のおいたちから徳島の自然や文化が総合的に理解できるようにし,部門展示は総合展示を補うため分野ごとに深くほり下げた個別展示や分類展示をすることになっている。またラプラタ記念ホールでは,アルゼンチン共和国のラブラタ大学から贈られた南米の古生物の標本を展示する。
現館と新館は30年の年月の隔たりがあって,施設・設備には雲泥の差がある。しかし,30年前児童生徒たちが汗を流して建設したときの博物館への想いは今も変わりなく,県民の多くは,生まれ変わる新館の誕生を待ち望んでいると思われる。
(3)博物館30年の沿革 (太字は文化の森・新博物館関係事項)
昭 和 34.12.10 開館式挙行。初代館長仁科義之(県教育長本務),次長垣本光男ら館職員を発令。 12.11 一般公開。20日までを開館記念旬間とし,協力者ら5.000人を招待。 35. 2 .24 公立博物館として登録。 4 日本博物館協会に加盟。 4 .19 第1回博美展開催,県内在住美術作家の委嘱作品を展示。 8 .21 第1回同定会開催(後,夏休み採集物に名をつける会と変更。平成元年8月まで実施)。 36. 3 . 6 第1回四国地区博物館総会を高松市美術館で開催,四国地区博物館協議会を結成する。 5 .19 博物館建設記念学術奨励基金運用委員会(委員長 大久保九平)が発足。 6 . 5 徳島県博物館期成同盟会が募金した余剰金350万円を博物館建設記念学術奨励基金運用委員会に引継ぐ。 6 . 9 徳島県博物館期成同盟会寄付金期間満了(3年8か月),寄付金総額57.906.209円(利子含)にて解散。 8 .25 第2回四国地区博物館協議会総会を当館で開催,四国地区博物館協譲会規則を定める。 11.21 祖谷展開催,以後42年度まで県内各地の自然を紹介する展覧会を毎年開催。 37. 3 .20 徳島県博物館条例を改正,使用料を変更(37.4.1施行)。 5 . 1 仁科義之県教育長の館長兼務を解き,2代館長 垣本光男発令。 7 .10 学芸係長を置き,総務係の2係制とする。 38. 4 . 1 館長に日出武敏就任。 7〜8 移動天文教室,動植物採集自習室,標本の名を調べる自習室,採集物の名をしらペる会を開催,以後夏の普及行事として定着。 40. 5 .12 第6回博美展開催,この年より公募作品を展示。 41. 6 『徳島県博物館館報』第1号を刊行。 6 . 6 常陸宮御夫妻来館。 43. 4 . 1 館長に番田直人就任。 10.22 明治100年記念阿波画人名作展開催。 44. 3 .31 43年度入館者総数52.459人となり過去最高を記録。 4 . 1 館長に林利秋就任。 4 . 6 この日から64日間,徳島城公園において四国大博覧会を開催(主催徳島新聞社)。その影響をうけて,44年度入館者総数35.520人と減少。 5 .13 第10回記念博美展(併設博美賞受賞作品展)を開催。 8 . 5 創立10周年記念電気科学展開催。 45. 3 .31 徳島県博物館管理規則を定める。 6 . 7 植物採集会をはじめて小松島市で開催。 46. 3 . 1 遺跡調査(鳴門市宝憧寺山古墳)を実施。これより毎年古墳の実測及び発掘調査を行う。 3 .13 講演会(月のすがた)をはじめて開催,以後毎年開催。 9 .12 明治100年記念事業として建設された徳島県郷土文化会館が開館。 47. 6 .30 『徳島県博物館の姿』を『徳島県博物館要覧』と改め刊行。 48.11.23 第1回親と子の遺跡めぐり開催。 49. 4 . 1 館長に豊岡磊造就任。 50. 4 .27 屋上収蔵庫に空調設備を設置。 5 . 1 文部省より博物館活動振興方策研究委嘱(50,51年度)をうけ,研究委員会(高島律三委員長)を設置し,『教育活動を反映させた展示効果』(51.3.29刊行),『地方博物館の展示のあり方』(52.3.10刊行)の報告を行う。 7 .18 館所在地名(徳島市新町橋2丁目20番地)変更により徳島県博物館条例を改正。 51. 3 .23 徳島県博物館条例改正,館覧料小人20円,大人50円とする(51.4.1施行)。 3 .31 50年度入館者総数29.336人となり3万台を割る。 52. 4 . 1 館長に竹原保次郎就任(非常勤特別職)。 53. 4 . 1 館長補佐を次長に改正。 6 .19 第19回四国地区博物館協議会総会を当館で開催。 6 .20 昭和53年度博物館職員研修会(庶務部門・日本博物館協会)を徳島県郷土文化会館で開催。 54. 4 . 1 館長に石堂廣光就任(県立図書館長本務),この年度から57年度まで主幹を置く。 10.19 開館20周年記念徳島の先覚者展開催。 55. 1 . 4 置県100年を記念した文化の森構想発表。 3 .29 徳島県博物館条例を改正,観覧料小人20円,大人100円とする(55.4.1施行)。 4 定県百年記念文化施設等整備基金設置。 8 . 2 第1回文化の森懇話会開催(座長松村益ニ,委員18名)。 56. 2 .23 文化の森懇話会報告書堤出。 4 . 1 館長に細井宏ニ就任(県立図書館次長本務)。 5 徳島市から八万町向寺山及び寺山(通称延生軒)を文化の森建設候補地に申入れ。 8 .31 第1回文化行政懇話会開催(委員20名)。 9 .18 国際障害者年記念都郷鐸堂の芸術展開催。 57. 3 文化の森建設地を徳島市八万町向寺山及び寺山に決定。 10.12 文化の森基本構想案,文化行政懇話会で了承。 12.25 博物館基本構想検討委員会設置,委員12名委嘱。 58. 3 文化の森総合公園を都市計画決定。 3 .22 第1回博物館基本構想検討委員会(委員長岡芳包)を開催。 4 . 1 館長に近藤正明就任。 59. 1 .31 博物館基本構想検討委員会が『徳島県立博物館基本構想報告書』を知事に提出。 3 .31 58年度入館者総数18.116人となり,2万台を割る。 4 . 1 美術品等取得基金設置。徳島県企画調整部に県民文化室を置き,文化の森建設計画をすすめる。 5 .22 博物館資料収集展示委員会を設置,委員10名委嘱。 6 .19 第1回博物館資料収集展示委員会を開催,委員長に千地万造を選出。 10. 1 集会室・会議室の貸出業務停止。 10.23 開館25周年記念阿波庸八焼名品展開催。 60. 3 .29 文化の森建設協力会発足。 8 文化の森建設専門委員設置。 8 .10 文化の森総合公園起工式挙行,基盤整備工事着手。 8 .14 アルゼンチン共和国ラプラタ国立大学と徳島県が相互贈与に関する合意書締結。 8 .16 第1回博物館資料調査員(調査員20名)会議を開催。 61. 3 .10 博物館建築・展示基本設計完了。 3 .24 徳島県博物館条例改正,観覧料小人20円,大人140円とする(61.4.1施行)。 3 .31 60年度入館者総数10.902人となる。 4 . 1 館長に中西忠司就任。 7 .11 徳島県博物館建設学術契励基金運用委員会解散。 8 博物館建築・展示実施設計に着手。 62. 3 博物館建築・展示実施設計完了。 8 博物館等文化施設建設工事着手(文書館除く)。 8 .20 博物館学芸員選考拭験実施。 9 . 1 博物館収集資料価格評価委員設定。 63 .4 . 1 次長2人制となる。 5 .18 第29回(最終回)博美展開催。 8 .18 博物館学芸員選考試験実施。 平 成 元. 1 .30 ラプラタ大学第2次贈与資料到着。22日ラブラタ市長夫妻来館。 4 . 1 館長に東明省三就任。 8 .18 第8回(最終回)博物館資料調査委員会議開催。 8 .29 博物館学芸員選考試験実施。 12 博物館・近代美術館・21世紀館棟本体工事及び野外劇場,創造の森建設工事竣工。 2 . 2 .15 博物館収蔵資料を文化の森新館に移転開始。 3 .26 文化の森総合公園文化施設条例,各館管理規則,協議会規則公布(平成2年4月1日施行)。 3 .31 新館への移転完了。徳島県博物館閉館,30年の幕を閉じる。
徳島県博物館条例,使用料規則等施行。
『徳島県博物館の姿』第1集を刊行。
『徳島県博物館紀要』第1集を刊行。
この年,置県百年行事が県下でくり広げられる。
全館冷房設備を設置。
徳島県博物館条例改正,観覧料小人20円,大人120円とする(58.4.1施行)。
博物館建築・展示基本設計に着手。
ラプラタ大学から第1次交換資料到着,5階生物室に展示。
4月1日から一般公開。
徳島県博物館管理規則を改正,集会室・会議室の使用削除。
徳島県企画調整部に文化の森建設事務局が発足。
新館準備のため博物館展示室を閉室,この年親子歴史教室及び夏休み採集物に名をつける会の普及行事のみ実施。