博物館の展示は,“博物館の顔”といわれるほど館の性格を如実に表現している。
当館は,3階から5階までが館の施設となっており,3階に郷土室,4階に科学室,産業・天文室,現代美術室,5階に生物・地学室と各常設展示室を設けている。このほか,特定のテーマをかかげ期間を限っての展示,いわゆる特別展・企画展の会場として,5階のホール(242.8m2)がある。
当館の設立当初の趣旨が,産業・科学を中心とした博物館づくりであったことから,各展示室の配置及び面積もこの考えにもとづきつくられている。各展示室の面積は,郷土室105m2,科学室242.8m2,産業・天文室45m2,現代美術室45m2,生物室80m2,地学室43.5m2となっている。科学室,産業・天文室を合わせると287.8m2で,他の各展示室合計273.5m2より上回っている。
開館後4か月を経て刊行された『徳島県博物館の姿』には,各室の運営の主眼を次のように記している。
この運営の主眼に沿って各室の展示が行われたが,開館当初の当館に対する県民の期待もこれからうかがうことができる。
当館がスタートした時,展示品のほとんどは館外からの出品・寄贈によってまかなわれていた。館蔵品はほとんどなく,コレクターや会社,研究者の協力なしには運営できなかったのは事実である。
資料の充実によって展示の更新をはかる,ということが各室共通した開館後の大きな課題であったが,資料購入費の不足などもあって,資料の充実は思うようにならなかったのが実態である。長期にわたる展示によって借用資料が傷み,出品者からお叱りをうけたことも幾度かあった。
概して,各展示室の展示は,開館後の展示内容と同じ状態で30年間推移したといってもよい。マンネリ化から脱皮するため,郷土室ではテーマ展を開催したが,常設展示に戻ると同じ内容になってしまうというパターンを繰り返した。
展示内容の充実は,資料の充実がいかに大切なもであるかを30年の歴史が十分教えてくれた。
面積105Fとこの狭い展示室のなかで,文字どおり郷土の歴史を紹介する室としてその役割を担ってきた。郷土に関する考古,歴史,民俗,古美術といった幅広い分野をこの一室でまかなった。
開館当初,郷土室では展示の基本方針を次のように立てた。
この方針にしたがい常設展示が展開されたが,展示品の9割5分が所有者に懇願してのものであったという。開館当初の苦労がうかがえる。
展示の方式は,各ケース単位で展示を展開し,「もの」中心の展示であった。主な展示品は次のとおりである。
これらの展示品は,国指定や県指定の文化財も含まれ,徳島の文化財を代表するものである。なかでも,銅鐸や人形頭,阿波藍などはとくに県外からの入館者の興味を引くものであった。30年を経た文化の森の新館においても,これらの展示資料は,たとえ展示の方式が変わっても,展示の重要な位置を占めているのである。
開館以後,寄贈資料の増加によって収蔵品は次第に質・量を増したが,展示の更新を円滑にするまでには至らなかった。昭和40年前後から県内各地で発掘調査が多くなり,その一部を保管したり,借り受けるなどして考古資料の充実は次第にはかることができるようになった。
古美術部門は,絵画や焼物の購入を計画的に行ったことから,展示替えも次第に順調になった。とりわけ,昭和58年度に購入した「庸八焼」の一括購入品は,古美術品の常設展示の中心となった。
郷土室のなかでもっとも問題を抱えていたのは民俗資料である。展示室・収蔵庫とも狭隘であったため,展示・収蔵の両面において十分な活動が行えなかつた。寄贈の申し出があっても受け入れができず,お断りすることが多かったのは,誠に残念な限りである。新館準備にかかってやっと倉庫が確保でき,大量の寄贈品を受け入れることができるようになった。
民俗資料の展示は,先にかかげた人形頭,阿波藍,太布織機に終始した。もっとも昭和46年開館した徳島県郷土文化会館が積極的に民俗資料の収集や展示を行ったことから,同館の活動にゆだねる気持ちが強くあったことは事実である。
郷土室では,常設展示のマンネリ化をさけるため,特別陳列と称して一定期間特定テーマのもと小規模の企画展を開催することになった。昭和47年度の「阿波のあけぼの展」を皮切りに,48年度の「阿波の古代寺院展」,50年度の「古代の阿波展」などがある。郷土室でこれらの展示活動を行ったのは,ホールに十分な展示ケースがなく,特別展開催ごとに各室の展示ケースを一時借りるという事態から避ける苦肉の策でもあった。
この方法は,郷土室で企画展を開催中,ホールで関連の講演会が開催できるという利点を生んだ。こうした工夫によって,郷土室のマンネリ化はどうにか避けることができたが,展示資料不足という問題がいつも大きくのしかかっていた。
近代科学の中核をなす電気科学を主体とし,その基礎原理を実験により理解させるとともに,各種の最新機器と身近にある家庭機器を紹介し,興味のうちに科学への関心を深め,知識を高めることをねらいとして科学室は出発した。開館当初は全展示品をメーカーからの寄贈や出品に依存したため,展示そのものに学問的な体系がとりにくく,加うるに一般家庭用電気機器が数多く−昭和30年初頭は特に家電機器製造隆盛のとき−展示室は商品陳列所的色彩が可成り強いものとなった。そこでこれらを漸次改善していく必要があり,次の諸点に留意したがそれぞれにも問題点がないわけでない。
開館10周年(昭和44年)ともなれば,科学室の展示から家庭電気製品が大分姿を消し,本来の実験装置が目につくようになった。科学室は他の展示室と違って,入室者が展示物に直接手を触れて,自由に機器を操作する仕組みになっており,そのため子供達に親しまれるのであるが,資料は消耗品の性格をもち,当然,消耗,破損が生じ,毎日の保守管理が大へんである。正常な機能を果たさないものは「故障」の表示をし,できるだけ早く補修するが手に負えないこともある。一番困るのは,実験機器の多くが特注品であり,使用部品が市販していないこと,メーカーは京阪神が多く,修理を頼むと放費,時間を余分に消費すること,故障原因の把握が困難なこと等である。
資料の収集方法としては,県費による購入が一般的であるが,科学室の展示資料は高額なものが多く,2,3年に1台買えばよい方である。そこで次に考えられるのは寄付を願い出ることで,受ける側の熱意が交渉成立の鍵と思われる。
これまでに,館側から働きかけて寄付を受け,高額なものについて感謝状を出したものは下記のとおりである。
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自動車カット(シャーシ回り) |
徳島トヨタ自動車株式会社 |
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NKS鋼磁石 |
住友特殊金属株式会社 |
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21世紀をささえるINS模型 |
日本電信電話株式会社徳島支社 |
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以上のほか,学術奨励基金運用委員会から研究助成資料の寄贈があり,資料充実に大へん役立った。寄贈に代わって出品を依頼することもある。当館は四国電力株式会社,日本電信電話株式会社徳島支社,交通博物館等から出品,協力を得ている。科学室の運営にたずさわる者として,入館者の創造力,科学に対する興味育成に役立つような学習の場が提供できるよう努めたつもりである。
昭和30年代に入って世情も安定し,各種の生産活動が活気を呈し始めたとき,本県識者の間に博物館建設を望む声が高まってきたことは既に述べたところであるが,更に一歩踏みこんでその背景をさぐると,それまでどちらかといえば前近代的な農業,林業の占める割合の高かった本県の産業界も,科学の進歩と共に一大転換期を迎えることとなった。そこでこれからの本県産業の進むべき方向を探るものとして博物館を新設し,その中に産業室を設置し,片や,1,2階は県物産斡施所として県内産業製品を展示し,両者がタイアップして本県産業の振興に資するための情報提供,学習の場とすることが考えられた。
開館初期の主な展示品としては,近代科学と結びつきの深い産業という見地から,近代工業に重点を置き,これらの製造工程を模型,パネルで紹介している。
これら個々の展示品は出品各社が競って,全力投球で作りあげた秀作揃いでこれらが陳列された景観は実に見事なものであり,入館者に大きな感動を与えた。しかし月日は休みなく過ぎ,1年,2年……と経過するに及んで,さすがの逸品も色あせ,作動部分の故障,統計図表の更新,致命的なことは展示の内容が技術革新からとり残される等の問題が生じ,その修復について,出品者に要請しても殆ど聞き入れて貰えなかった。出品した会社側としても,出費と宣伝効果を計算し,利益にならないものは敬達するのは当然だろう。
昭和30年初頭にこのような博物館を建設したことは,県政史上に特筆されるべき大事業として先人の偉業に敬意を捧げる一方で,当時諸般の事情やむを得なかったことでもあろうが,展示品の殆どを寄贈,出品に頼ったことで大きな歪を生じたことは残念なことである。すなわち,各社まちまちの企画であるため,展示全体に統一性がなく,展示に必要なストーリーが組めない点,学芸員の力量不足とばかりいえない。
全国の博物館施設を眺めたとき,地場産業のいろいろな製品を科学館の一つのコーナーに出展している。こうしたケースをときどき見受けるが,本館の場合のように産業室として独立した取扱いをしている例は殆ど見当たらないようである。
ともあれ一日,一日と劣化していく展示品を放置するわけにもいかず,欠陥の大きいものから撤去することとした。長い間ご苦労さんといった気持ちである。
その空いたスペースに天文教育機器を少しずつ計画的に配置をし天文室へ衣更えすることになった。本館の教育活動の一つとして,昭和38年以来「移動天文教室」が企画されており,県民の間に定着し始めたしるしのように天文に関する問い合せが多く寄せられるようになった。同時に初歩の天文学習の手助けになる展示を望む声が高まり,それに応えた次第である。
そうこうしているとき,昭和44年7月20日,アポロ11号が前人未踏の月世界に人間を送る大偉業を成し遂げ,全人類の喝采を浴びた。本県も例外でなく,宇宙ブームに湧き返り,発足後日も浅く,展示品とて多くない貧弱な天文室も観覧者で活気にあふれたものである。以来その充実に努めてきたが,展示室が狭いこと,資料購入費が少ないこと,よい展示品が得にくいこと等問題は多い中で,学術奨励基金運用委員会研究助成による展示資料の同委員会からの寄贈は,大へん有意義であった。
21世紀に生きる若者のため,本県にも本格的な天文教育施設が建設されることを切望する。
徳島県出身で,中央美術界において広く活躍する作家の作品を展示し,中央美術界の水準を紹介することを目的として,展示活動を展開してきた。現代美術界では,書家小坂奇石を始め,日本画家林雲谿・三木文夫・幸田暁冶・喜井黄羊・太尾芳生・市原義之,洋画家伊原宇三郎・山下菊二,彫塑家服部仁郎・宮本光庸など秀れた作家が存在する。
開館当初本県においては,県民が親しく県出身作家の作品に接し,鑑賞する機会に恵まれない状況にあり,本室はこうした意味において,小規模ながら県出身作家の作品を紹介してきた。主な展示作品は次のとおりである。
分類学的に言うすべての「門」に属する動物を網羅することは不可能に近い。そこで,収集・展示の難易を考え,次の5つの門に属するものを収集・展示してきた来た。
◎腔腸動物門
◎節足動物門では昆虫類を主として,甲殻類・カブトガニ類・クモ類
◎軟体動物門では,ヒザラガイ類・ツノガイ類・マキガイ類(腹足類)・二枚貝類・頭足類
◎棘皮動物門ではヒトデ類・ウニ類・メマコ類
◎脊椎動物門では,円口類・軟骨魚類・硬骨魚類・両生類・はちゅう類・鳥類・哺乳類である。
腔腸動物では各種のイシサンゴ類をはじめ,ウミエラ類・ウミトサカ類など,また,各種のイソギンチャクやクラゲ類などの液浸標本がある。節足動物中の昆虫類は昆虫団体研究会徳島支部から寄贈いただいたものが初期の時代に展示された。各種の甲虫類,チョウ・ガ類,カメムシ類,トンボ類などである。トンボ類は平井雅男先生に出品していただき,また,ガ類・カメムシ類では農業試験場から出していただいた。甲殻類と魚類の収集については,水産試験場に依瀬し,各種の深海性のエビや魚類が集められ,展示室をにぎわした。
国指定の天然記念物である海部町母川産のオオウナギは,現地で採集して館で標本として製作したもので,特に人目をひいていた。また,爬虫類では,アオウミガメ・アカウミガメ・オサガメがあり,後の2つは日和佐中学校理科クラブ生徒の手による剥製である。同中学校からはアカウミガメの発生順序標本も出品されている。
鳥類剥製標本は製作が難しく,初期には鳴門市教育委員会・撫養高等学校(現鳴門商業高等学校)や谷崎正雄先生から出品をいただいた。哺乳類は,初期に富岡西高等学校から出品をいただき,また,昭和52年に交通事故死体?として小松島市内の国道上で採集されたニホンカワウソをはじめ,ニホンカモシカ・ハイエナ・シベリアオオカミ・タヌキ・ハクビシン・アナグマ・イタチ・ムササビなどがある。
植物で最も重要な資料は,本県木沢村・阿南市で発見された天然記念物タヌキノショクダイ(ヒナノシャクジョウ科)と,牟岐町出羽島の大池に自生するシラタマモ(シャジクモ類)である。植物部門の充実については,設立当初から阿部近一先生,伊延敏行先生,木村晴夫先生等の献身的な御指導と出品があったことを特筆したい。
岩石では,眉山のコウレン片岩・緑色片岩などの変成岩の他に各種の堆積岩や火成岩が分類展示されている。とくに,変成岩をはじめとして岩崎正夫先生・後藤弘文先生から多く出品をいただいている。
化石の圧巻は直径33cmに及ぶアンモナイト(北海道産・阿南市持井町産)であり,コダイアマモ,鴨島町山路で発掘された哺乳動物の化石などである。徳島大学地学教室,上那賀町の橋本陰歳氏,後藤先生,鎌田匡先生も出品されている。化石は先カンブリア代から新生代まで地質時代順に展示され,とくにポリビア産の三葉虫や高知県横倉山産のリンボクなどが珍しい。展示室が狭くて鉱物や鉱石類は展示されていない。
なお,近年になってアメリカ産のティラノザウルス(恐竜類)の大腿骨や,南米産のパノクツウス(アルマジロの化石種)などが展示されたが,これらの大形化石種は,他のものを加えて文化の森の新館でまとめて展示する予定であり,今から楽しみである。
顧みて,これらの標本類については県内外の研究者の方々から寄贈・出品をいただいたものが多く,また総合科学調査,繰り返し行われた各種の採集会,開館当初から引きつづいて実施されて来た「夏休み採集物の名をつける会」やそれに付随して行われるようになった「野外採集と標本の作り方」自習室(講習会)など,本当に多くの方々のお世話になりながら,県民に親しまれる博物館として活動できたことを心から感謝したい。こうした伝統を新しい博物館の中に生かして,更に親しまれる博物館を目指して精進を重ねていきたいものである。
ここでは,博物館の展示活動のなかで最も中心となる,特別展・企画展について,30年間の足跡をたどってみたい。
一般に特別展とは,入念な準備のもとに,本格的なテーマを設定して幅広く資料を展示し,観覧者の多種多様な興味に応えるものであり,開催期間も長期である。これに対し企画展は,規模は小さいものの,テーマを絞り込んで密度の高い展示を行うもので,開催期間も特別展に比べて短いのが普通である。またこの2つは,開催主体の違いによって主催展と共催展に区別される。主催展は,館の学芸員独白の企画・運営によるもので,共催展は,館以外の団体と共同で企画・運営するものである。後述する博美展がこれに当てはまる。
当館では,最低年1回の特別展と,年2・3回の企画展の開催を原則としてきた。もっとも当館の場合,予算の問題を除くと特別展と企画展の呼び分けは多分に便宜的で,両者の中間的なものが多い。企画展であっても,特別展に準ずるテーマと内容を持たせるのが普通で,逆に特別展では,現在の全国的な水準から見れば,規模において企画展に近くなっている。
主催・共催については,特別展と企画展とも両方がある。学芸員の自主性が強い主催展の方に,館の個性や取りまく環境などがより強く表れるといえる。しかし例えば,特定地域を対象とした総合学術調査を行い,その成果を特別展のかたちで発表する場合など,分野ごとの専門家が必要であり,実り多い内容とするためにも館外の研究・教育機関との提携が不可欠である。学芸員の関わりの深さによって主催・共催に優劣があるわけではない。
当館は科学系・人文系を併せ持つ県下唯一の総合博物館であり,両分野の展覧会を行うのが特色の一つである。まず,いままでに開催された科学系の特別展・企画展について考察したい。
(名 称) |
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化 石 展 |
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1,145 |
祖 谷 展 |
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479 |
薬用植物展 |
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1,578 |
県南の自然展 |
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2,359 |
県北の自然展 |
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1,368 |
剣 山 展※ |
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2,355 |
神山の自然展 |
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721 |
昆 虫 展 |
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1,386 |
那賀奥の自然展 |
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2,330 |
祖 谷 展 |
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2,709 |
剣 山 展※ |
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1,336 |
世界の昆虫展・郷土の昆虫展 |
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11,067 |
創立10周年記念電気科学展 |
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5,736 |
県民の森展 |
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2,132 |
徳島県の地質の変遷 |
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1,223 |
進 化 展 |
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13,079 |
徳島県の昆虫展 |
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5,005 |
徳島県の動物展 |
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4,599 |
徳島の天然記念物展 |
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3,779 |
あすをひらく電気通信展 |
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2,316 |
徳島県の昆虫展 |
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3,304 |
世界の蝶展 |
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1,507 |
以上のうち,2回の祖谷展(昭和36年,同41年),及び県南(昭和37年)・那賀奥(昭和40年)の各自然展は,徳島博物同好会が,徳島県博物館建設記念学術奨励金の交付を受け,学術総合調査を行った際の標本展示会である。同種の特別展は,昭和36年同41年まで行われた。これらは,博物館における第1期(昭和34年〜同43年)の展示活動の中で,重要な位置を占めるので最初に取上げたい。
昭和38年10月開催の「県北の自然展」を例にとると,特別展に先立つ同年8月1日より7日間のあいだ,阿部近一氏を団長とする徳島博物同好会によって,対象地域が調査された。調査団の内容は地質・動物・植物の各専門家が22名,記録・写真・運送の担当者10名の計32名で,対象は脇町・美馬町・阿波町・三野町の讃岐山脈南面一帯であった。調査の結果は,報告会及び報告書のかたちにまとめられたが,その際採集した動植物・地質の標本と生態・景観の写真を「県北の自然屡」において公開した。6日間の展示で,観覧者は1.368人であった。
こうした自然展が博物館で行われるまでは,県下の自然を総合的に調査し,展覧に供する機会は,おそらく無かったであろうと思われる。また,調査の対象はいずれも交通不便な未調査地域であり,調査団の努力もあって,特別展では新しい知見ももたらされた。昭和42年以降は開催されていないが,その果たした役割は評価される。
次に,近年の主だった特別展・企画展について説明を加えたい。
昭和43年開催の「世界の昆虫展・郷土の昆虫展」は,内容を3部に分けて展示した。第1部では,アフリカの巨大かぶと虫,日本初公開の熱帯産かぶと虫など80か国5.000匹を展示。第2部では,県内の昆虫研究家のコレクションを中心に徳島に分布する珍しい昆虫を展示。第3部では,昆虫の採集にあたって知っておきたい事柄を実物・図表を用いて解説した。
昭和44年開催の「創立10周年記念 電気科学展」は,当館の開館10周年を記念して催された。松下電器,四国電力,徳島ナショナル等の協賛のもと,実験コーナー,ラジオ・テレビコーナー,発電・電力コーナーの各部門に分け,電気の様々な性質と生活の中における役割が,たやすく理解できるように展示した。当時は,電化製品が大量に日常生活に入りはじめた頃であり,こうした特別展は時宜にかなったものであった。
昭和48年開催のテーマ展「進化」は,テーマ展と銘打つように,従来の特別展とは異なった展示方針を目指した。館にある資料をできるだけ展示し,一つの系統性を持たせることで出来るだけ多くの人に理解して貰おうというのがその狙いであった。数多くの標本類やパネルを使い,その内容も太陽系の起源や生命の誕生(生命の現れた時代の地球・分子生物学の成果),生物の進化(進化の様式・植物の進化・動物の進化)と,まことに広範であった。
同じくテーマ展である昭和58年開催の「徳島県の昆虫展」は,県下の昆虫標本を多数展示するとともに,あわせて学習コーナを設けて昆虫採集の仕方や標本の作り方を指導し,生態に関する質問に応じた。展示内容は館蔵の蝶・かぶと虫・とんぼ等の標本,松食い虫の生態と標本,衛生昆虫の標本,貴重昆虫標本,徳島県特産昆虫標本などである。
以上,今までに開催された特別展の一部について述べたが,そのおおよその傾向としては,徳島という地域に密着していること,研究成果の発表の場というよりは,概括的な紹介が中心となっていることであろう。
次に人文系の特別展・企画展を取りあげたい。
(名 称) |
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貫名菘翁小展 |
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丈 六 寺 展 |
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1,200 |
松浦春挙日本画展 |
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735 |
飯尾常房遺墨展 |
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442 |
阿波御絵師展 |
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2,685 |
正興寺寺宝展 |
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959 |
剣 山 展※ |
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2,355 |
三木文庫展 |
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937 |
林鼓浪遺作展 |
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1,040 |
美術名刀展 |
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1,249 |
剣 山 展※ |
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1,336 |
明治100年記念阿波画人名作展 |
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1,274 |
阿波名僧遺墨展 |
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517 |
近代日本の版画展 |
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2,729 |
丈六寺寺宝記録写真展 |
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723 |
守住貫魚とその子たち展 |
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2,409 |
谷田忠兵衛と観松斎展 |
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2,174 |
石川真五郎洋画遺作遺品展 |
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400 |
阿波の仏画と仏具展 |
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6,900 |
阿波の古代寺院展 |
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5,563 |
古代の古地図展 |
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5,097 |
古代の阿波展 |
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4,166 |
阿波の忌部氏展 |
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1,800 |
名勝鳴門図絵展 |
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810 |
徳島の先覚者展 |
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4,047 |
館所蔵現代美術作品展 |
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937 |
複製絵画に見る日本洋画壇の巨匠たち展 |
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351 |
絵画に見る阿波踊り展 |
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1,018 |
天 狗 久 展 |
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7,947 |
徳島の女性先覚者展 |
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1,173 |
阿波蜂須賀侯御用絵師展 |
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2,316 |
小坂奇石館蔵品展 |
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? |
徳島の古鏡展 |
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2,502 |
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1,721 |
東南アジアの陶磁名品展 |
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569 |
阿波の板碑−その心と美− |
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948 |
朱の考古学−辰砂と若杉山遺跡− |
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1,605 |
上掲の表から伺えるように,人文系の特別展は歴史・考古・民俗・美術と内容が変化に富み,回数も非常に多い。これらの中には注目すべきものが多いので,いくつか取り上げ,説明を加えることとする。
昭和47年開催の「谷田忠兵衛と観松斎展」は,江戸時代に阿波藩に抱えられた谷田忠兵衛(17世紀後半)・観松斎飯塚桃葉(18世紀後半)というこ人の蒔絵師の作品を展示した。東京国立博物館の桃葉銘葦雁蒔絵印龍をはじめとし,おもに県下に所蔵される桃葉銘作品や谷田蒔絵作品,珍しいところでは「飯塚桃葉成立書併系図共」の文献資料が出品された。
昭和50年の「徳島の先覚者展」は,開館20周年を記念して開催された。明治・大正期の日本で,近代化に大きな足跡を残した本県出身者18名の功蹟を紹介するもので,先覚者をしのぶ写真,自筆原稿,手紙,出版物その他の関係資料によって構成された。取り上げたのは樺太開拓者の岡本韋庵,社会運動家の賀川豊彦,洋画家の守住勇魚,政治家の芳川顕正,考古学者の鳥居龍蔵,彫師の伊上丹骨など広範にわたり,これらの人物を通じて,徳島の社会風土と近代史への関わりを知るのがもう一つの狙いであった。
なお,「徳島の先覚者展」の続編として,昭和56年に「徳島の女性先覚者展」が行われた。詩人の生田花世,画家の野口小蘋など13名について,関係資料を展示・公開した。
昭和57年開催の「阿波蜂須賀侯御用絵師展」は,江戸時代の阿波藩に抱えられた絵師たちの作品を紹介したもの。当時として出来得るかぎりの作品を出品し,徳島藩御用絵師に関する基礎的な知見を供した。狩野派では中山養福,森崎春潮,住吉派では渡辺広輝,森住貫魚,南画系では鈴木芙蓉,鈴木鳴門が中心で,こうした作品は従来一般の目に触れる機会が少なく,一堂に集めることで,江戸時代における阿波画壇の水準と傾向を明らかにすることができた。実作品のほかに,各絵師の成立書,下絵,印章,開係文書類を併せて展示し,理解の一助とした。
昭和63年に開催された特別展「朱の考古学−辰砂と若杉山遺跡−」は,当館としては最後の展覧会である。昭和59年から4年計画で,文化庁・県教育委員会・阿南市教育委員会・当館が発掘した,阿南市若杉山遺跡の調査結果にもとづく。朱の原料となる辰砂の採掘遺跡の実態を明らかにし,あわせて弥生時代における施朱の風習に関する展示を行った。
個展・グループ展などの美術展の開催が少なかった昭和35年,県内において活躍する作家の秀れた作品を紹介し,県内の美術活動を振興させることを目的として,当館と徳島県美術家協会との主催で発足した。
昭和35年の第1回から同39年の第5回までは委嘱作家の作品を展示したが,マンネリ化のため,第6回は公募展として開催した。その後,同41年の第7回から,公募・委嘱展として開催し内容の充実に意をそそいだ。また第6回から会期を2期制とし,同44年の第10回記念展より従来の博美賞に加え,奨励賞を設定し,出品者の意欲を盛り立てた。さらに同48年の第14回より,日本画・洋画・彫塑・美術工芸・写真・書道の6部門の上に商業美術(後のデザイン)部門を加え,7部門構成となった。そのため同49年の第15回記念展を契機に三期制を採用し,出品点数の増加を企図した。
その後三期制の採用により,出品点数は著しく増加し,新人層の育成や県内美術活動の振興に大きな役割りを果たしてきたが,平成2年秋開館の徳島県立博物館の開設準備のため,博美展は開催が不可能となり,昭和63年度第29回をもって終了した。その間博美展は,春の小型県展と称され,気軽に出品できる公募展として長く県民に親しまれ,県内美術活動の振興に大きく寄与してきたのである。以下,博美展の開催は次のとおりである。
昭和 人 新作・旧作を問わず,代表作品を展示する委嘱展として発足。会期6日。 36.5. 9 (火)〜14(日) 未発表作品として出品作品を限定。博物館資料として作品買上げ制の実施。 37.5.22(火)〜27(日) 38.5. 7 (火)〜15(水) 会期を3日間延長。 39.5.12(火)〜17(日) 会期を復元。 40.5.12(水)〜16(日) 公募展として発足。二期制の採用。各期5日。 41.5.10(火)〜15(日) 委嘱展の併設。各期6日。博美賞を設定。 42.5. 9 (火)〜14(日) 徳島新聞社・NHK徳島放送局・四国放送の後援発足。 43.5.14(火)〜19(日) 会期と部門の組合わせを考慮。 44.5.13(火)〜18(日) 記念展の開催。第7・8・9回展博美賞受賞作品の展示。奨励賞の設定。 45.4.28(火)〜 3 (日) ゴールデンウイーク時の開催。 46.4.29(木)〜3(月) 47.4.27(木)〜5.1(月) 48.4.25(水)〜29(日) 商業美術部を加え,7部門構成となる。 49.5.15(水)〜19(日) 記念展の開催。三期制の採用。 50.5.14(水)〜18(日) 51.5.12(水)〜16(日) 52.5.11(水)〜15(日) 53.5.10(水)〜14(日) 54.5.16(水)〜20(日) 記念展の開催。第20回記念大賞を各部門に設定。 55.5.14(水)〜18(日) 56.5.13(水)〜17(日) 57.5.12(水)〜16(日) 58.5.11(水)〜15(日) 59.5.16(水)〜20(日) 記念展の開催。第25回記念大賞を各部門に設定。商業美術部をデザイン部と改称。功労者表彰。 60.5.15(水)〜19(日) 6l.5.14(水)〜18(日) 博物館資料の収蔵・保管のため,展示会場ホール・会議室に縮少。 62.5.13(水)〜17(日) 63.5.18(水)〜22(日) 大賞を各部門に設定。新館移転準備のため,第29回展をもって終了。
(第1回)
35.4.19(火)〜24(日)
第一期(日・書・工)
40.5.26(水)〜30(日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(日・書・工)
41.5.17(火)〜22(日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(日・書・工)
42.5.16(火)〜21(日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(洋・彫・写)
43.5.21(火)〜26(日)
第二期(日・書・工)
第一期(日・書・工)
44.5.20(火)〜25(日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(洋・彫・写)
45.5. 5 (火)〜10(日)
第二期(日・書・工)
第一期(日・書・工)
46.5. 5 (水)〜9(日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(洋・彫・写)
47.5. 3(水) 〜 7 (日)
第二期(日・書・工)
第一期(日・書・工・商)
48.5. 2 (水)〜 6 (日)
第二期(洋・彫・写)
第一期(洋・彫・工)
49.5.22(水)〜26(日)
第二期(写・商)
49.5.29(水)〜6.2(日)
第三期(日・書)
ゴールデン・ウイーク時の開催の回避。
ホール・会議室・天文室・美術室を会場とする。
第一期(写・商)
50.5.21(水)〜25(日)
第二期(日・書)
50.5.28(水)〜6.1(日)
第三期(洋・彫・工)
第一期(洋・彫・工)
51.5.19(水)〜23(日)
第二期(写・商)
51.5.26(水)〜30(日)
第三期(日・書)
第一期(日・書)
52.5.18(水)〜22(日)
第二期(洋・彫・工)
52.5.25(水)〜29(日)
第三期(写・商)
第一期(写・商)
53.5.17(水)〜21(日)
第二期(日・書)
53.5.24(水)〜28(日)
第三期(洋・彫・工)
第一期(洋・彫・工)
54.5.23(水)〜27(日)
第二期(写・商)
54.5.30(水)〜6.3(日)
第三期(日・書)
第一期(日・書)
55.5.21(水)〜25(日)
第二期(洋・彫・工)
55.5.28(水)〜6.1(日)
第三期(写・商)
第一期(写・商)
56.5.20(水)〜24(日)
第二期(日・書)
56.5.27(水)〜31(日)
第三期(洋・彫・工)
第一期(洋・彫・工)
57.5.19(水)〜23(日)
第二期(写・商)
57.5.26(水)〜30(日)
第三期(日・書)
第一期(日・書)
58.5.18(水)〜22(日)
第二期(洋・彫・工)
58.5.25(水)〜29(日)
第三期(写・商)
第一期(写・デ)
59.5.23(水)〜27(日)
第二期(日・書)
59.5.30(水)〜6.3(日)
第三期(洋・彫・工)
第一期(洋・彫・工)
6O.5.22(水)〜26(日)
第二期(写・デ)
60.5.29(水)〜6.2(日)
第三期(日・書)
第一期(日・書)
61.5.21(水)〜25(日)
第二期(洋・彫・工)
61.5.28(水)〜6.1(日)
第三期(写・デ)
第一期(写・デ)
62.5.20(水)〜24(日)
第二期(日・書)
62.5.27(水)〜31(日)
第三期(洋・彫・工)
第一期(洋・彫・工)
63.5.26(水)〜30(日)
第二期(写・デ)
63.6. 1 (水)〜 5 (日)
第三期(日・書)
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(第7回) |
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42年(第8回) |
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43年(第9回) |
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44年(第10回) |
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45年(第11回) |
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46年(第12回) |
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47年(第13回) |
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48年(第14回) |
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49年(第15回) |
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50年(第16回) |
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51年(第17回) |
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52年(第18回) |
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53年(第19回) |
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54年(第20回) |
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55年(第21回) |
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56年(第22回) |
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57年(第23回) |
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58年(第24回) |
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59年(第25回) |
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60年(第26回) |
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61年(第27回) |
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62年(第28回) |
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63年(第29回) |
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(第7回) |
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42年(第8回) |
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43年(第9回) |
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44年(第10回) |
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45年(第11回) |
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46年(第12回) |
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47年(第13回) |
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48年(第14回) |
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49年(第15回) |
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50年(第16回) |
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51年(第17回) |
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52年(第18回) |
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53年(第19回) |
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54年(第20回) |
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55年(第21回) |
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56年(第22回) |
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57年(第23回) |
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58年(第24回) |
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59年(第25回) |
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60年(第26回) |
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61年(第27回) |
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62年(第28回) |
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63年(第29回) |
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(3)共催・後援行事
共催行事とは,博物館以外の各種団体と博物館が共同で企画・運営した行事であり,後援行事とは,各種団体が主催し,博物館が会場を提供して行う行事である。
特別展の場合,昭和34年の開館当初は人員,体制がまだ整わず,館独白の特別展を開催することが困難な状況にあった。そのため,共催展と後援展を軸に年間の計画が立てられている。例を昭和35年度にとると,10回の特別展のうち共催展が6回を数え,後援展が2回,館の主催展が2回である。こうした傾向は,昭和40年代前半まで続いた。
ところで,今日の一般的な考え方からすれば,館が会場のみを提供する後援展の有り方は,博物館の活動には馴染まないと言えよう。実際,こうした行事は昭和40年代後半以降殆んど行われていない。しかし,初期の頃はまだ公共の文化施設が少なく,県民が文化活動を楽しみ,発表する場が限られていたのであり,後援展の果たした役割は大きく,評価されるべきであろう。
共催・後援展の内容では,前節[3]に述べた博美展が昭和35年から63年まで29回続き,硬筆書道県展が昭和44年まで11回続いたなど,県民に深く根着いたものがあり,特筆される。また近年では,新しい傾向として巡回展が共催のかたちで行われた。