2 普及活動

 

 博物館が行う活動のうち,特別展を中心とする展示活動は,最も一般に知られ華やかである。しかし博物館は,この他にも色々な機会と方法を使って,科学に関する知識や体験を,提供することに努めている。そしてこれらを普及活動と呼んでいる。
 「見る」ことが主体となる展示活動だけでは,生き生きとした体験の喜びを伝えにくい場合がある。普及活動の目的の一つは,こうした「体験」の場をつくり出すことである。具体的には,実地に出向いてものを観察し,直接手で触れることで識る方法(現地採集会),基本的な技術(標本の作り方)の習得,耳から聞いて学ぶ方法(講演会)などがある。
 さらにつけ加えると,普及活動は利用者と学芸員がじかに接触する機会であり,利用者の期待や要求を把握し,今後に生かして行くことが出来る。

 当館の場合,普及活動は以下記すように六種類に分けられる。
(1)親子遺跡めぐり・親子歴史教室
(2)移動天文教室
(3)野外採集と標本の作り方講習会
(4)夏休み採集物の名をつける会
(5)講 演 会
(6)その他の活動

 これらのうち(5)講演会と,(6)その他の活動の一部を除くと,残りはすべて小・中学生が主な対象である。また県下唯一の総合博物館であるため,内容が人文・自然科学両分野にわたり,広範囲に及ぶ。そのため多くの場合,学芸員だけが参加者の指導に当たるのでなく,外部から専門家を招いた。
 当館は専門学芸員の数が充分でないため,外部の協力を得つつ,出来るだけ県民の全体的な要望に添う普及活動を心がけた。個別の活動については,決して問題なしとは言えないが,一定の使命は果たし得たと考える。

 

(1)親と子の遺跡めぐり・親子歴史教室

 親と子の遺跡めぐりは,昭和48年秋から始めた。これは文化財愛護の精神を高めるとともに,親子でいっしょに野外見学をすることによって,親と子の対話をとりもどすことを目的としていた。対象は,歴史を学び始める小学校6年生の親子とした。
 見学する遺跡は,県下で有数の横穴式石室をもつ古墳や古代の寺院跡などである。初年度の見学コースは,国分寺(国府町)  矢野古墳群(国府町)  国史跡国分尼寺跡(石井町)  県史跡石井廃寺(石井町)  立光廃寺(美馬町)  美馬郷土博物館(美馬町)  国史跡段ノ塚穴(美馬町)  野村八幡古墳(脇町)であった。
 これ以後,遺跡めぐりは,年に1回あるいは2回のペースで昭和55年度まで行った。コースはほとんど変わらなかったが,年によっては話題になった遺跡発掘現場の見学などを交えて,よりいっそう文化財愛護について理解を深めてもらおうとした。
 博物館前に集合してバスに乗り込む。バスの中では徳島県の原始・古代に関する全体的な説明や,これから行く古墳の解説,今見てきた寺院跡に対する質問などを行いながら,だんだんと遺跡をめぐって行くわけである。見学のメインとなる美馬郡美馬町の段ノ塚穴まで行くので,徳島駅に下り立って解散するのは,いつも夕方になっていた。
 親と子の遺跡めぐりに参加した人々にアンケートをとってみると,非常にわかりやすい説明だということ,現地で実物を見ることの感激が綴られている。しかし,一方,「遺跡めぐりの前に一度講義を聞いてから,実際に古墳や寺院跡を見学したい」とか「古墳ばかりでなく,城跡の見学もしたい」などの要望が何回となく見受けられた。
 これを受けて,昭和56年度から講義と遺跡めぐりを組み合わせた形で親子歴史教室をスタートさせた。この年は特に小学校6年生だけでなく,小学校5年生も含めて対象として,50組・100名を募集した。この教室は,年に5回行うこととして,すべての講義に参加できる人だけに限った。
 第1回  徳島の原始・古代,第2回  遺跡めぐり,第3回  阿波の寺と四国八十八カ所,第4回  徳島の城,第5回  江戸時代の社会とくらしのテーマで行った。第2回以外は室内講義である。
 昭和57年度以降は,小学校6年生の親子を対象として毎年行っている。回数の増減や内容の変更などはあるが,講義と野外見学を組み合わせたスタイルは変わっていない。内容の変更としては,徳島の城を徳島城見学にしたこと,藍,砂糖,塩,大谷焼などの伝統産業めぐり,実習をとり入れた土器づくりを加えたことなどである。
 毎年50〜100人の参加者があった。申し込みが多い場合は抽選で参加者を決定した。毎年定員オーバーで参加できない人も多く,まことに申し訳ないかぎりであった。
 親子歴史教室で,実際に遺跡めぐり・伝統産業めぐりに参加した人は,古墳の横穴式石室内部や藍屋敷・大谷焼の登り窯などを直接手にふれながら,自分の目でじかに見ることができた。この感動が非常に大きかったようである。
 また,もう一つのねらいである親子のふれあいを大きくするということについても十二分にその役割を果たしていると考えられる。

 

(2)移動天文教室

  昭和34年12月に開館した当館も,月日の経過と共に館内の展示が落ち着き,これと平行して館活動の充実が各室において検討されることになった。一方社会状勢は,30年代に入って米・ソの宇宙開発競争が激しくなり,この影響をうけて世人の宇宙への関心が日増しに高まりつつあった。
 そこで当館では,科学室が中心となり,人々が宇宙・天体について学習するときの一助ともなればと考え,この教室を昭和38年7月に開室した。そのため,37年度末に天体望遠鏡2基(3インチ標準赤道儀・15cm反射赤道儀)の購入があったが,何よりもこの事業の大きな推進力となったのは,その年当当初に購入された公用車(セドリックライトバン)の存在である。この自動車に天体望遠鏡,宇宙・天体関係の視聴覚機材等を積み,予め募集した県内会場を巡回し,星空を仰ぎながら初歩の天文学を指導するもので,こうした催事は全国のいろんな天文教育施設で開設され,それぞれに成果を挙げている模様である。
 昭和38年に発足し,63年に館活動を新館移転準備のため閉鎖するまでの26年間継続実施されたこの行事について,概略を計数・運営両面から考察する。
 延開催予定回数は165回で,そのうち12回が雨天のため中止となり,実数153回,年平均5.9回となる。今少し具体的に述べると,年最多回数は昭和46年の11回,次いで同45年の10回がある(極めて例外として秋に3回実施)。最も少なかったのは昭和61年の2回である。参加者総数19.098人,年平均734.5人,各回平均124.5人となっており,この中には,児童・生徒・保護者・関係教職員が含まれている。仕事を進める館サイドとしては100人程度が理想と考えるものの,実情は過・不足はまぬがれない。過の場合にあっては講師を増員(2名)したり,望遠鏡を借り増するなどの対応がはかられる。
 次に運営面でみると,この行事にはいくつかの大きな制約がある。
○夜でないとできない。
○夏季休暇期間中。
○月面観望のため月齢や惑星の動きを考える。
○講師・館職員の稼動限界。
○車の積載量制限。
○天候と空の状況(雨は降らなくても空の見えないことがある) 等々。
 夜でなければとか,空の状況のように人の力でどうにもならぬものとか,開催期間のように工夫の余地を残すもの,と軽重の差はあるけれども,それぞれがネックとして事を運ぶ際立ちはだかる。そうした与条件の中で私達が特に配慮したこと,苦労したことを2,3述べよう。
 何よりも気遣ったことは,如何なる事故も起こさないこと,そのため学校に児童・生徒の管理を特にお願いし,学校は保護者同伴を参加の条件とした。館側としても学習の始めと終わりに安全確保の注意を喚起するよう努め,学校,保護者の協力により,この長い年月,無事故で過せたことに感謝と安堵をおぼえる。最も悩まされ,苦労したことは,天候,空の様子である。基本的に夏は(特に宵のうちは)天体の観望になじみ難いと思う。昼間熟せられた大気が,日没時地上高く立ちこめて空を覆う。空の観望を諦らめ,講話や質疑応答に切り換えて日程を消化し,帰る頃になって月や星が顔を出すことを何度も経験させられたものである。
 先に秋3回実施したことを述べたが,秋も深い11月の出候事で,今なお当時の空の様子(雲が風で吹きとんでいく)と寒さで観望どころでなかったことが思い出される。この例は,少し時期的に遅過ぎるとしても,夏休みにとらわれることなく9月中旬頃が適当と思われる。
 また,雨天のため12回中止したことに触れたが,それ以外の153回がすべて全うされたわけでなく,大まかにいって1/4が完全に観望でき,1/4が観望不可,残りが何とか観えたということである。天体の観望が果たせなかった場合の対策として,各種の教材を用意はしているが,やはり星や月を観望するに越したことはない。
 初めて月面のクレータを望遠鏡で観望し喜ぶ児童・生徒,また土星の環に感嘆するお母さん達を見ると,蒸し暑いこと,蚊の襲撃も吹き飛び,しみじみと「移動天文教室」を企画してよかったと思う。私達のこのささやかな活動が児童・生徒の成長の糧となり,宇宙のように広大な視野をもった,自然の神秘を愛する人間に育ってくれることを願う。徳島県博物館主催の移動天文教室は,ここに終止符をうつことになったが,近い将来,立派な天文教育施設が設置され,県民がその恩恵に浴することを切望する。最後になったが,わが「移動天文教室」26年の歴史に講師として終始ご助力いただいた垣本光男・喜馬邦雄両先生に対し衷心よりお礼を申しあげる。

  

(3)夏休み採集物の名をつける会 

 夏休み採集物の名をつける会は,開館2年目の昭和35年に「夏休み採集物同定会」という名称で始められた。「教育の一翼をになう博物館」という設立当初の運営方針,あるいは建設に当たって県下各学校の児童・生徒からも建設資金の一部を拠出したという経緯もあって,この行事はスムーズにスタートしたようである。ただ「同定」の文字は専門家には通用しても,一般の人々には,なじまないということで,昭和38年から現行の「夏休み採集物の名をつける会」に改められて現在に至っている。
 会は,夏休みの終わりの8月下旬の3日間をとって,5館ホールで行われて来た。植物・昆虫・貝・岩石(鉱物・化石を含む)の4部門で,植物は3日間,こん虫・貝は1日または2日,岩石も2日または1日のことが多い。講師は,それぞれの部門で野外で研究調査をされている県内の専門家(小・中・高校の教員,教員退職者,県職員,その他の研究者)が当たって来た。年次別の参加者数と採集物持ち込み数は次表のとおりである。

 参 加 者 数

年度
植 物
昆 虫
岩石等
合 計
35

(2.798)

(420)

 

(356)

178 (3,574)

36

(6,632)

18(356)

8 (231)

19 (379)

374 (7,598)

37

281(5,051)

29(652)

 

35 (703)

345 (6,406)

38

(9,063)

(,872)

 

(583)

570(11,518)

39

 

 

 

 

461     

40

(10,266)

(1,348)

 

(684)

486(12,298)

41

(12,430)

(1,226)

 

(1,186)

677(14,842)

42

 

 

 

 

1.069(11,733)

43

286(6,232)

14(341)

19 (480)

17 (488)

336 (7,511)

44

246(5,480)

12(324)

17 (693)

20 (413)

295 (6,910)

45

259(5,566)

10(202)

17 (443)

11 (293)

297 (6,504)

46

310(6,438)

24(463)

54(1,430)

38 (795)

426 (9,126)

47

582(4,790)

9(196)

33(1,177)

29 (574)

653 (6,737)

48

326(6,057)

14(373)

43( 895)

58(1,365)

441 (8,690)

49

301(5,863)

11(199)

18 (256)

57(1,174)

387 (7,492)

50

345(7,092)

14(221)

42(1,081)

43(1,002)

444 (9,396)

51

 

 

 

 

 

52

400(8,170)

16(534)

52(1,146)

55(1,307)

523(11,157)

53

476(11,597)

39(673)

実施せず

144(3,408)

659(15,678)

54

458(8,998)

32(698)

32(2,908)

74(1,422)

596(14,026)

55

319(6,366)

20(301)

38 (820)

53 (981)

430 (8,468)

56

528(10,356)

21(358)

69(1,531)

75(1,466)

693(13,711)

57

264(6,612)

5 (95)

33(1,138)

60(1,080)

362 (8,925)

58

289(5,659)

9(190)

44(1,612)

80(1,399)

422 (8,860)

59

328(7,111)

14(301)

41 (971)

62(1,069)

445 (9,452)

60

349(6,563)

18(271)

54(1,061)

92(1,766)

513 (9,661)

61

326(6,245)

11(284)

38 (809)

73(1,318)

448 (8,656)

62

323(6,163)

13(255)

49(1,073)

35 (729)

420 (8,220)

63

235(4,772)

15(338)

28 (691)

38 (756)

316 (6,557)

279(5,335)

9(114)

52(1,194)

41 (854)

381 (7,497)

( )内は標本持ち込み点数

 この表ではわかりにくいので,いくつかの時期に分けてまとめておく。

年 度
植 物
こん虫
岩石類
合 計
35〜42

(7,922)

(1,104)

(702)

520(9,728)

43〜48

335(5,761)

14(317)

31 (853)

29 (655)

409(7,586)

49〜54

396(8,344)

22(465)

36(1,348)

75(1,663)

529(11,820)

55〜59

346(7,116)

14(249)

45(1,214)

66(1,199)

471(9,778)

60〜元

302(5,816)

13(191)

44 (966)

56(1,085)

415(8,058)

数字はすべて平均の人数または(件数)

 これでみると,開館当初と49〜54年が多く,最近は漸減の傾向が見られるが,これは10年程前から鳴門・阿南・鴨島といった県各地で,この種の会が開かれるようになったためと思われる。事実最近の参加者は,以前に比べて徳島市内及び近郊地域に限られている。
 ここ数年,各部門とも県外での採集物が見られるようになり,また岩石部門では,外国での採集物も見られるようになった。どの部門にもすばらしい出来ばえの作品がある一方で,ただ集めただけの作品も少なくない。
 採集の目的,方法,注意点などについて,現場の先生方は事前にもっと指導してほしい,と思うような作品も少なくないようである。何れにしても,この行事は博物館の普及行事のなかでは,最も長く続いてきた行事であり,ほぼ定着しているだけに,会の持ち方や事前指導については,今後とも学校現場や県教委関係各課(社会教育課・指導課・教育研修センター)等とも連携をとって進めていくペきだと思う。
 最後に,講師としてお世話になった諸先生のお名前を掲げてお礼を申し上げたい。

 

 植 物
阿部近一,木内和美,木下 寛,木村晴夫,高藤 茂,
友成孟宏,日出武敏,古川良夫,真鍋邦男,真鍋佳資,
森本康滋,伊延敏行,加藤芳一,藤井芳一
 昆 虫
大原賢二,河野仁一郎,木内盛郷,那賀四郎,永井洋三,
平井雅男,真鍋佳資,吉田正隆
 貝 類
河野圭典
 岩石・化石
阿部敦次,小川祺文,大戸井義美,後藤弘文,東明省三,
篠原 勇,板東 宏,両角芳郎
(敬称略,アイウエオ頓)

 

(4)野外採集と標本の作り方の自習室・講習室

 「夏休み採集物の名をつける会」の盛況とともに,これを補なって,児童・生徒が自分で野外採集や標本の作り方が勉強できるようにしたいという目的で,昭和38年に設けられた。内容としては,5階ホールを使って,採集の方法と標本の作り方の要点を書いたパネルを展示し,仕上がった標本を例示する。机の上に図鑑類や参考書を置いて,入館者がいつでも調べられるようにしていた。期間は前期(38年は7.24〜7.28)と後期(38年は8.16〜8.21)に分けていた。昭和38年の参加者は1,501名,39年は1,357名,40年には1,804名,41年は2,256名だった。また,野外採集と標本の作り方の映画を上映して参考に供した。
 昭和44年からは,会期が7月末頃の連続した6日間になり,また46年から標本作成講習会が,自習室開室の期間中に入るようになった。これは,植物・昆虫・岩石の3日間に分けて,それぞれの講師が午前・午後各1回づつ参加者を前に講話をする形式で行われた。進め方の例として,先ず映画であらましの説明をしてから『野外採集と標本の作り方の手引』の小冊子(館が作成・配布したもの)をもとに,担当部門についての採集の仕方と標本の作り方を具体的に説明する。そのあと,眉山の中腹まで登って,実際の植物・岩石などの採集方法について実演して見せて,また参加者にも実際にやってもらうという方法をとっていた。
 その後,昭和52〜55年は再び前期・後期に分けて,講習会を前期3日間に行い、自習室を8月20日頃を中心とした3〜5日間に実施するようにしたが,56年度似降は,自習室は置かずに,ホールの前の廊下の大きな机の上に,図鑑や参考書を置いて、自由に手に取って調べられるようなコーナーを設けるだけにした。講習会は昭和62年まで続けられたが,講師としてお世話になった主な先生方は次のとおりである。

 

植 物 阿部近一,真鍋佳資,木村晴夫
昆 虫 平井雅男,大原賢二
岩 石 東明省三,後藤弘文,大戸井義美

  

(5)講演会

 当館では、昭和34年の開館から平成元年までの間に,16回の講演会を行ってきた。講演会はいずれも,そのとき館で開催された展覧会や,学術調査に関係するテーマを選んでいる。講師は大学その他から適任者を招き,内容については、一般の人びとが興味を持ってもらえるように常に留意した。講演会の行われた年月とテーマ,及び講師名は表のとおりである。

年月
講演会のテーマ
講  師  名

昭和46.3

月の姿

香川大学 小山 伸

47.2

古墳のはなし

岡山大学 近藤義郎

48.2

銅鐸のなぞ

東京国立博物館 三木文雄

48.3

日本列島のおいたちをさぐる

大阪市立大学 市川浩一郎

49.3

宮殿と寺院址

平城宮発掘調査部 坪井清足

49.3

モナリザとその周辺

関西大学 柏木隆夫

49.7

昆虫について

大阪市立自然史博物館 日浦 勇

51.3

動物の世界について

香川大学 植松辰美

53.3

生薬について

徳島文理大学 竹本常松

54.3

日本文化の源流

九州大学 岡崎 敬

54.12

宇宙の探究

国立科学博物館 村山定男

55.9

太安萬侶の墓

奈良県立橿原考古学研究所 石野博信

56.10

盲目の書家都郷鐸堂の生涯と芸術

元半田中学校 半田 寛

57.10

サル・人に出会う

財団法人日本モンキーセンター 広瀬 鎮

58.10

邪馬台国と鏡

奈良国立文化財研究所 田中 琢

59.8

新天体の発見とそのロマン

明石市天文科学館 菅野松男

60.9

朱の考古学

早稲田大学 市毛 勲

63.11

古代施朱の風習

早稲田大学 市毛 勲

朱・勾玉・土器の流れ

徳島県教育委員会 菅原康夫

銅鐸と三角縁神獸鏡

山口大学 近藤喬一

(敬称略,所属は当時)

 以上の表のうちから,主なものについて説明を加えたい。
 最初の講演会である「月の姿」(昭和46年・小山伸)は,[1]クレーターの成因,[2]月と他の惑星の関係,[3]星座の学習について,の3つの内容からなり,好評を得たといわれている。
 「日本列島のおいたちをさぐる」(昭和48年・市川浩一郎)は,[1]日本列島の成因を世界より見る,[2]現代の地学の歩み,[3]マントルについて,[4]孤状列島について,など,おもに教員や学生を対象としたやや専門的な内容で,参加者は約190名であった。
 「昆虫について」(昭和49年・日浦勇)は,博物館でのテーマ展示「徳島県の昆虫展」にちなみ,県下の昆虫とその特色について,植相を土台にして講演した。参加者は196名。
 「大安萬侶の墓」(昭和55年・半田寛)は,『古事記』の編纂者である太安萬侶の墓が奈良で発見され,センセーションをおこした時期に行われた。この時に,あわせて「四国の前方後円墳」の題でシンポジウムが開かれ,2日間でのベ4OO人の参加があった。
 昭和63年の「古代施朱の風習」(早稲田大学・市毛勲),「朱・勾玉・土器の流れ」(徳島県教育委員会・菅原康夫),「銅鐸と三角縁神獸鏡」(山口大学・近藤喬一)は,当館で開催された最後の特別展「朱の考古学」を記念して行われた。会場は,はじめて当館以外に移し,徳島県郷土文化会館において開いた。特別展のテーマに関する内容以外に,県下における発掘調査の結果もまじえ,近年目ざましい考古学の成果をふんだんに盛り込んで興味深い講演会であった。

 

(6)その他の活動

  これまで取り上げてきた普及行事は,館の恒例行事といってよい。このほかの行事を紹介しておきたい。
 昭和43年・44年の2回,「教師のための植物採集講習会」が開催された。これは,従来館内で「野外採集と標本の作り方の自習室」を行っていたのを,一層効果を上げる必要があるとの判断から始められた。児童生徒を指導する立場にある理科・生物の教員に,植物採集の正しい知識と方法を実地で学んでもらおうというもの。初年度は参加者23人,次年度は18人であった。
 昭和45〜48年は,各回ごとに地区を決めて「採集会」が開催された。開催地区の小学校5・6年生,中学生を対象にした。植物・昆虫・岩石などの採集を通して,自然に親しむ心を育成しようという趣旨で,会も極めて盛況であった。
 昭和57〜60年に,「夏休み歴史相談室」が開催された。夏休みの自由研究で郷土の歴史を学習した小・中・高校生に対し,専門の講師が助言・指導した。参加者は毎回50人強であった。


徳島県博物館30年史もくじ