博物館の活動のなかでは,いうまでもなく展示が大きなウェートを占める。展示にあたっては,漫然と資料を並べればよいというわけではなく,資料を有効に生かすため,博物館の内外で調査・研究を行うことが不可欠なのである。調査・研究活動は,いわば展示の生命源として重要な意味をもつのである。
徳島県博物館では,主催または共催・後援というかたちで,県下全域において調査・研究活動を行ってきた。総合博物館という性格により,その内容は多彩であったが,とくに次の3種が中心であった。第一は,おもに自然史関係の分野(地学・生物)についての地域調査として行われた学術総合調査である。第二には,考古学に関するもので,遺跡の分布調査や発掘調査がある。三番目には,学術奨励基金助成事業として,考古・歴史・民俗・生物・地学・電気など,人文・自然科学の各分野に広くわたり,県内の研究者によって行われた諸研究があげられる。学術総合調査の多くは,これの一環として取り組まれたものである。
上述のような調査・研究には,県内の研究者・研究団体の積極的な協力があってなし得たものである。当館では,それらの成果を常設展や特別展に取り入れ,展示内容を豊かにするよう努めてきたのである。
以下では,当館の調査・研究活動の推移と成果を振り返っていくことにしたい。
学術総合調査の中核になったのは徳島県博物同好会であり,県教育会・大阪読売新聞社との共催で,昭和35年に,木頭村西端の高知県境にそびえる石立山の動・植物及び地質の調査をしたのが最初である。その調査成果の発表というかたちで,同年10月21日から28日まで,県博物同好会と共催で石立山動植物地質展を5階ホールで開き,1.943名の観覧者を集めた。
昭和36年以降は,徳島県博物館建設記念学術奨励基金による研究助成を受けるようになった。さらに昭和38年以後は,上記の3団体に本館が加わった共催の形で学術調査が進められた。夏季の本調査の期間はおおむね7日間で,地質・動物・植物・観光の4班に分かれて実施した。宿泊はいずれも調査地の小・中学校・公民館等を利用し,調査員各自が毛布・寝袋等を持参した。酷暑の中を広い地域にわたって調査するのは大変な苦労があるが,各班とも,テーマを決めて能率的に調査を進め,多くの成果をあげてきた。
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東祖谷山村 |
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479名 |
「阿波の自然」36年 |
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海南町・海部町・宍喰町 |
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2,359名 |
40年 |
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阿波町・脇町・美馬町・三野町 |
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1,368名 |
41年 |
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神山町 |
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721名 |
43年 |
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上那賀町・木頭村 |
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2,330名 |
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西祖父山村 |
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2,709名 |
44年 |
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剣山周辺一帯 |
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1,336名 |
徳島県 46年 |
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剣山頂上及び北斜面 |
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〃 |
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剣山南斜面(木沢村) |
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2,132名 |
〃 |
なお,昭和37年からは陸上自衛隊(善通寺)がジープ等5台で輸送を受け持ってくれるようになり,調査が少しでも楽に遂行できるようになった。昭和42〜44年の剣山周辺地域の調査は,剣山の北面に「県民の森」が設置されたことに伴い調査を行ったもので,徳島県も加わった共催の形で実施するとともに,徳島県から報告書を刊行した(これ以外は,徳島県博物同好会の機関誌『阿波の自然』の特集号の形で刊行)。
本館が共催または後援で実施した学術総合調査は表のとおりであるが,昭和45年以降は,昭和29年に発足した阿波学会(事務局は県立図書館内におく)の総合学術調査一本になった。もともと,この調査の目的の一つとして博物館の展示・研究資料の収集があげられていたが,初期の博物館にとって,単に資料の収集だけでなく,博物館運営に当たっての協力体制づくりという点で,総合学術調査が残したものは大きいものがあったと言えよう。
徳島県博物館は,昭和34年12月にオープンしたが,その後の10年間は県内の遺跡の巡検・分布調査を主に行った。それに加えて,恵解山古墳群・節旬山古墳群,立光寺跡(後に郡里廃寺に遺跡名変更)などの県教育委員会社会教育課の発掘調査への参加も行った。
この時期の調査で注目すべきものとして,上那賀町古屋岩蔭遺跡の発掘調査があげられる。古屋岩蔭遺跡は,昭和40年8月に行われた『那賀奥自然調査』がきっかけとなって発見されたもので,那賀川の支流,古屋川沿いの南向きの岩蔭である。
岩蔭内の堆積土は,すべて撹乱されており,この上のほうから自然遺物,チャート剥片,石鏃,土器片などが出土した。石鏃は3点ともチャート製で,三角形あるいは基部にえぐりのあるタイプである。土器には押型文土器,条痕文土器,無文土器が見られた。これらは縄文時代早期の所産であり,本県最古のものであった。また,川沿いとはいえ山間地に本県に数少ない縄文遺跡が発見されたことにも大きな意味があった。
この翌年,阿南市桑野町廿枝から採集されたナイフ形石器,細石刃,石鏃などを実地調査した。この徳島県における旧石器の存在の確認以後,吉野川北岸の洪積台地や扇状地から発見される旧石器の資料がたいへん多くなった。しかしながら,吉野川北岸の旧石器の石材が主にサヌカイトで,瀬戸内技法を用いるのに対して,廿枝では主にチャートを素材とし縦長剥片を用いているのが好対照である。
残念なことには,那賀川・桑野川流域におけるチャートを主体とする石器群の研究は,旧石器時代・縄文時代ともに,新たな遺跡の発見も増えず,廿枝・古屋遺跡以後あまり進んでいない。
一方,この時期に発掘調査に参加した恵解山古墳群などは,調査後に時を経ずして破壊されてしまった。そして,県指定になっている古墳さえ実測図もなく,県内の古墳分布についても十分に把握できていない状態であった。これらのことから,博物館は,館活動の研究テーマとして『古墳研究』に取り組むこととした。
昭和45年度には鳴門市大麻町の前方後円墳,宝憧寺古墳の実測調査を行った。が,昭和46年度〜昭和53年度には研究テーマを後期古墳にしぼり,横穴式石室をもつ古墳の実測調査,発掘調査を行った。これは,この間の前期古墳の研究については,徳島考古学研究グループが渋野丸山古墳や気延山古墳群の前方後円墳の実測を手がけ,これを集成していたからである。それで,当館は,調査の主眼を後期古墳におくこととした。
昭和46年度から,県東部紀伊水道沿岸の古墳の実測調査を順次行った。地蔵院穴不動古墳,矢野の横穴式古墳,観音山古墳,弁慶の岩窟の実測はこの時の調査によるものである。その後,県西部の段の塚穴(棚塚,太鼓塚),北岡西,北岡東の各古墳を実測調査した。
後期古墳の調査の総仕上げとして,昭和51年度から3次にわたって忌部山古墳群の発掘調査を行った。麻植郡は阿波忌部と開わりの深い地域で,文献にも数多く登場している。忌部の名を冠する古墳が,どういう石室の構造をしているのか非常に興味深いところであった。
これらの一連の調査によって,徳島県の横穴式石室は,地域によってそれぞれ特徴のある形態をとることが明らかとなってきた。
県東部の海岸に近い地域では,玄室の平面形が,長方形をしており両袖ないしは片袖で,中には地蔵院穴不動古墳や弁慶の岩窟のように非常に巨大な石を用いる古墳もある。これらの特徴は畿内からの影響を強く受けた結果といえよう。
これに対して,美馬郡を中心とする地域では,段ノ塚穴を典型とする段ノ塚穴型石室が盛行する。玄室の平面形が胴張りあるいは羽子板形で,天井右を持ち 送ってドーム状の天井とするものである。奥壁と側壁はほぼ直交する。これらの中には棚塚,野村八幡古墳のように奥壁中央に石棚をもつものも何例かある。
一方,忌部山古墳群を典型とする忌部山型石室が麻植郡を中心として展開する。この石室も,平面形が胴張りで天井石を持ち送っている。ただし,天井高は段ノ塚穴型ほど高くなく,奥型と側型との交わりは隅丸となっている。
すなわち,県東部の海岸部に幾内から大きく影響を受けたと考えられる横穴式石室が分布し,吉野川中流域に,これとはまったく異なった段ノ塚穴型石室,忌部山型石室という非常に似た形の横穴式石室が展開していることが明らかとなったのである。
後期古墳の調査が一段落し,また,徳島考古学研究グループによる前期古墳の分布調査,測量調査などが蓄積されてきたので,博物館も,古墳文化の全容を把えるため,『前期古墳の研究』をテーマとして,曽我氏神社古墳群,長谷古墳の発掘調査を行い,また山ノ神古墳群,土成丸山古墳の測量調査を行った。
発掘調査によって,竪穴式石室の形態,副葬品の種類などが明らかとなった。これらの報告の中で,古墳の墳丘,竪穴式石室,副葬品などの比較検討を行い,未発掘の古墳なども含めて前方後円墳の集成を行い,前期古墳編年のめどを立てた。
また,周濠をもつ古墳については,徳島考古学研究グループによる渋野丸山古墳の測量しか行われていなかったので,土成町の円墳・丸山古墳の墳丘・周濠などを測量調査して,周濠をもつ大きな古墳の研究の一助とした。
以上みてきたように,本館の館活動としての遺跡調査は,昭和45年度より始められ,主に古墳時代を研究対象としてきた。前期・後期古墳の研究ともに大きな成果をあげることができた。
昭和59年度からは,まだ調査していなかった生産遺跡の調査と取り組むこととした。いろいろな種類のある生産遺跡の中で,辰砂の生産遺跡である,阿南市の若杉山遺跡で調査を行うことにした。昭和59年〜62年の4次にわたる発掘調査で,辰砂の採取・粉砕に使った石臼・石杵を多量に発見した。これらは,弥生時代末〜古墳時代初頭の土器とともに発見されたものである。これによって,辰砂の精製の過程をほぼ明らかにすることができた。
さらに,このあたりは,石灰岩地帯であるので,貝,骨,角などの食料残滓や,骨角製品が多量に出土した。思いもかけず,当時の人々の食生活の一端をもうかがうことができたのである。
この調査によって,弥生時代末〜古墳時代初頭の辰砂生産あるいは朱の入手に関して大きな手がかりを得た。
今後は,辰砂生産遺跡のひろがりを追求するとともに,辰砂ばかりでなく,徳島県に多く産出する銅鐸の原料となる銅などの鉱山遺跡,野鍛冶などの生産遺跡の調査をさらに行っていきたい。
また,今までは古墳時代が研究の中心であったため,手薄であった石器時代の研究については,洞穴岩蔭遺跡を中心として分布調査を充実し,徐々に大系づけて行っていきたい。
なお,徳島県博物館が,館活動としての調査を始めて以後,20年近く,現在までの調査には必ず徳島考古学研究グループの参加と援助をいただいた。メンバーの方々には心から感謝する次第である。
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昭和46年3月 |
県史跡宝憧寺古墳(前方後円墳)実測調査 鳴門市大麻町池谷 |
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昭和46年8月 |
穴不動古墳実測調査 徳島市名東町1丁目 |
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昭和47年2月 |
県史跡矢野古墳実測調査 徳島市国府町西矢野 |
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昭和47年8月 |
観音山古墳実測調査 那賀郡羽ノ浦町中庄 |
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昭和48年2月 |
県史跡弁慶の岩窟実測調査 小松島市芝生町大獄 |
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昭和48年3月 |
国史跡段ノ塚穴・棚塚実測調査 美馬郡美馬町坊僧 |
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昭和48年8月 |
国史跡段ノ塚穴・太鼓塚実測調査 美馬郡美馬町坊僧 |
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昭和50年3月 |
県史跡北岡西古墳実測調査 阿波郡阿波町北岡 |
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昭和51年3月 |
県史跡北岡東古墳実測調査 阿波郡阿波町北岡 |
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昭和51年8月 |
忌部山2号墳発掘調査 麻植郡山川町山崎 |
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昭和52年8月 |
忌部山1号墳発掘調査 麻植郡山川町山崎 |
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昭和53年8月 |
忌部山5号墳発掘調査 麻植郡山川町山崎 |
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昭和55年3月 |
曽我氏神社1号墳発掘調査 名西郡石井町城ノ内 |
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昭和55年8月 |
曽我氏神社2号墳発掘調査 名西郡石井町城ノ内 |
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昭和57年3月 |
長谷古墳発掘調査 名西郡神山町阿野 |
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昭和58年3月 |
山ノ神古墳実測調査 名西郡石井町石井 |
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昭和59年3月 |
町史跡土成丸山古墳実測調査 板野郡土成町熊ノ庄 |
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昭和59年8月 |
若杉山遺跡発掘調査(第1次)阿南市水井町奥田 |
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昭和60年8月 |
若杉山遺跡発掘調査(第2次)阿南市水井町奥田 |
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昭和61年8月 |
若杉山遺跡発掘調査(第3次)阿南市水井町奥田 |
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昭和62年8月 |
若杉山遺跡発掘調査(第4次)阿南市水井町奥田 |
当館は昭和34年12月10日,県下児童・生徒を始め,県内外の有志による建設資金の寄付金によって開館した。その後昭和36年に至り,建設資金の剰余金を基金として,県内の学術研究者に研究奨励金を交付し,幅広い学術研究を目的とした学術奨励基金助成事業を行うこととなった。この助成事業の推進母体となったのは,徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会である。
委員会は昭和36年5月19日,徳島県博物館建設期成同盟会より建設剰余金を引き継ぎ,徳島市大道の大久保病院長大久保九平氏を委員長として発足した。発足当時の組織は次のとおりである。
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大久保九平(大久保病院長) |
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岸本 実(徳島大学学芸学部教授) |
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松田 亮一(徳島大学工学部長) |
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石黒 美種(徳島大学工学部教授) |
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大澤 与美(徳島大学学芸学部教授) |
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岡田 克弘( 〃 ) |
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中川 衷三( 〃 ) |
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沖野 舜二( 〃 ) |
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高島 律三(徳島大学医学部教授) |
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伊東半次郎(徳島大学薬学部教授) |
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野瀬 久義(徳島大学学芸学部教授) |
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古川 穂束(古川病院長) |
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武市 一夫(徳島県総務部長) |
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木村弘太郎(徳島県出納長) |
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吉積 文平(会社社長) |
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仁科 義之(徳島県教育長・徳島県博物館長) |
発足以来委員会は,県内の歴史・民俗,生物・地学,電気・天文などの広範な分野にわたる特異な研究を助成し,県内におけるその大きな目的を果たしてきた。そして各研究者による調査・研究成果は,「徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会交付規定」によって,すべて当館に収蔵し,常設展や特別展などにおいてその研究成果を広く公開してきたのである。この研究成果の収蔵は,当館の展示資料や収蔵資料の整備に大きな役割りを果たし,特に昭和40年代までにおける各地域の総合学術調査による生物・地学資料の整備は特筆されるべきものである。
このように委員会は,学術奨励基金助成事業によって県内における幅広い学術研究を助成し,その大きな役割りを果たしてきたが,昭和50年代に至り,経済状勢の硬直化により,基金の運営が困難となった。そのため昭和55年度から隔年助成としてその運営に当たったが,昭和61年7月11日委員会は所期の大きな目的を達成したため,過去の研究成果の記録を集大成する旨の決議をもって解散されたのである。そしてこの研究成果の集録は,平成元年1月31日各研究者の協力を得て,『徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会研究記録』として刊行された。以下,23年間における学術奨励基金助成事業の助成件数をみてみよう。
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地 学 |
電 気 |
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民 俗 |
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昭和36年度 |
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37年度 |
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38年度 |
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39年度 |
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40年度 |
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44年度 |
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45年度 |
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47年度 |
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48年度 |
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49年度 |
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50年度 |
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54年度 |
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57年度 |
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59年度 |
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