2 旧職員の回顧文

 

思  い  出

 

佐  藤     博    

勤  務

 昭和37年から6年間。館長は垣本光男館長,続いて日出武敏館長。館長に職員の方々を紹介されてから館内を案内された。担当は,生物室,地学室,資料調査の研究,学術奨励金の交付が分掌,後に美術室担当が加わる。
 生物地学室運営協議会案の性格,方針の中で私にとっては「専門家に支えられた生物地学室」が当面大事な指針と思えた。私は,大阪市立自然科学博物館(現自然史博物館)を参考にしようと思った。

 

博物館の四季

 館の春は,博美展にそなえるさざめきから始まる。館の夏は,例年の博物同好会を中核とする自然調査が酷暑と闘って奥地や山地で進行し,館内では生徒達の野外採集に関する行事が,また科学室では常に増して移動天文教室のシーズンとなる。
 野外採集に関する行事は,3段階に行われた。7月下旬には,まず野外採集と標本の作り方の講習会,ついで8月中旬にはさく葉標本などの展示と図鑑による自習室を,そして8月下旬には,専門の講師による採集物に名を付ける会といった一連の講座を開催した。ご年輩の藤井芳一先生が植物の名を付ける会の時,振り向いた頬から汗の玉が飛んだのを忘れていない。館の秋は,自然調査の成果を展示する自然展の行われる時。調査参加者は資料の整理に,館職員は展示の準備に忙殺される。観覧者は多くはないが熱心なグループ観覧のあることもある。館の冬は,貸室による展示会は少しはあるが淋しい。かつての春昼の埴輪が,秒翼に逆らわずに唯森閑と郷土室に立っている。

 

博物館職員研修会

 研修会に参加した。身についたものはあったが,学芸員国家試験は受けなかった。博物館勤務に徹する覚悟の欠如に起因する。国家試験を受けて学芸員となり,博物館に一灯をともして最後までめざす道をつき進んだ吉岡良知先生に敬意を払わねばならない。

 

私の印象に残っている資料

(1)国指定天然記念物「タヌキノショクダイ」の生態模型 阿部近一先生の企画で島津製作所で作成した。阿部先生に同行2回と記憶している。企画に先生は随分と骨を折られたと思うが貴重資料と思う。
(2)サンゴの化石 須鎗先生から情報を戴いたと記憶している。阿南市加茂町宿居谷の路傍にあるのを阿南市役所等のご配意でダイナマイトで爆破して研磨し展示する。展示品に学名はついていなかったので,現東明省三館長に尋ねると,Waagenophyllumの類と即座に答えられた。帰宅して鹿間時夫氏の化石図譜のWaagenophyllum indium(Waagentzel)の所に鉛筆で○印がついていた。さすが。爆破音に思わず身を伏せたのが印象的。
(3)鳴門市島田島北岸でコダイアマモ大型化石を日出館長に随行して採集,須鎗先生から情報を戴いたと記憶している。
(4)土佐清水市黒原貝類コレクションでオオシャコ,ベニオキナエビス貝類標本の外数点を日出館長に同行購入。たしかイシガキフグも。
(5)県教委の佐藤指導主事からお宅の藍の種を少し戴いて拙宅で育てる。成長は早いが害虫には弱い。森本康滋先生の助言で原色液浸標本を作る。うまくはできなかった。
(6)義宮殿下が行啓されたことのある東予市のカブトガニ標本室篠原判次氏を訪ねて後,カブトガニを寄贈さる。判次氏はカブトガニの発生過程を研究,うなぎの産卵地が瀬戸内海にあると異常な確信を持っているらしい。長子の才次氏は,「日本かぶとがに保存会会員」。
(7)眉山の結晶片岩と顕微鏡写真
(8)土柱の景観写真 吉岡良知氏や東明省三氏と写真撮影に同行するうち,私は笹に咲く白い花を見た。
(9)橋本省氏の石彫
(10)宮本光庸氏の彫塑作品

 

資料の旅

(1)宮本光庸氏
 中風の父が,宮本の子が彫刻でエロウなっとる,と言った言葉が博物館に勤めた時,よみがえった。たよりない期待で上京して調べると,中野区に宮本という彫刻家がいるらしい。思い切って訪ねる。けげんな顔をした人に玄関先で徳島のサトウヒロシですというと,「ヒロッサンかようわかったな」と双手をあげて来た。アトリエに入って思い出話。私の家の前は,袋井の清流。身を切るような天然プール。子供達は夏中泳いでは庭でころげまわって甲羅干し。光庸氏もその常連の一人。サルスベリに登っては父に叱られる。長い思い出話のあと作品の出品を頼んだ。光庸氏は上京中,オジの宗教家で彫刻家の服部仁郎さんに世話になっている。オジの在世中は,徳島の仕事はしないという律義な男。その後,徳島へ帰ると家へ寄ってくれた。母は,「今の人は刑事さんで」と言った。凝視が習性となっている彫刻家の目であろう。日本画の三木文夫氏は,小学校の同期である。

(2)小柴利孝氏

 東京オリンピックのメダルを作ったのは,牟岐町出身の小柴利孝氏である。東京美術大出の著名なメダル作家で彫刻家。造幣局を訪ねてメダルの大きい石膏造原型の寄附を受ける。夜桜の通り抜けの頃で誘われて官舎が広いのでゆっくり泊って行さなさいという。こ好意を感謝し約束があるのでお別れする。小柴氏のオリンピック聖火リレー像は牟岐駅前を走っている。

(3)ギンロバイ

 剣山展の時,福田剣山氏から鉢植のギンロバイをお借りした。白井博士発見で,剣山は絶滅,石立山も絶滅寸前で平地では栽培至難の観賞植物。展示しているうち,黄葉落葉が見えはじめ愕然とする。夜間は塔屋に移して灌水。祈るような気持ちで会期の終わるのを待つ。終わるや否や剣山氏宅へ急行,事の次第を告げて治療に期待する。微細流灌水をたっぷり頭にして,あかんかも分からんなと言われる。気が気でない。数日後見舞ったが様になっていない。そのうち木屋平の広沢家にあると聞いて走る。事情を話してお願いすると,地に放してあった2本の内の1本を下さる。かなり大きい。喜び勇んで剣山氏宅に届ける。ひと月程たって見舞うと剣山氏は,治りましたよ。呵呵と笑って一本得しましたなと言った。快さも変な気のする幕切れであった。

(4)きれいな押葉

 高藤茂氏は趣味が植物採集で,新種ではないかということがよく判るベテランである。その押葉の色も姿も滅法美しい。こんな標本を10枚位の冊に束ねて時々研究室に持って来て下さる。ズボンに下駄ばきの軽装の事が多く,講道館4段という中肉中背のカラリとしまった体つきで爽快さを覚える。一度お宅へお伺いしたことがある。新聞がキチンと折畳まれて天井に届かんばかりの高さである。しかも,切口長方形の長い柱を立てたようにいささかの傾きもねじれもゆがみも見えないのに驚いた。美しいさく葉は新聞紙のとりかえと整形をまめにすることによってできる,と聞いてはいたが,美しいさく葉を見せられてきた私には改めて強烈な印象であった。

(5)辛いカレー

 タヌキノショクダイのことと鉱物等の購入で京都に行ったことがあるが,後者のときのことである。昼食のとき辛いカレーを食べに行きませんかと誘われた。天下一品ということで覚悟はしていたが形容のできぬ辛さである。江戸っ子ではないが,「カレー」などと言うと男がすたると涙をこぼして食べた。
 梅ノ木町であったか,館に「牛の絵」を寄贈されている幸田春耕氏宅へお話しに行ったところが,ご子息暁冶氏が洋画で知られているとのこと。面談して出展して下さることになった。幸田氏は鮎喰川左岸の国府町の出身の方である。ふるさとは懐かしいものである。暁冶氏は他界されて奥さんは喫茶店を開かれたと年賀状にあった。今だに版画の年賀状をいただくことがあるが,夫君の作品が郷土の博物館に展示された心の余韻がつづいているのかも知れない。

(6)日下八光氏

 壁画復元で有名である。若い時の画作は数少なく微力な私のお頼みでは物になりそうでないが,文化の森で見られることになろう。この日自費で徳島の干海老の箱詰を持って行った。八光氏は作品が少ないのでご希望に沿えませんが,今日徳島の人の集まりで一杯飲む機会があるのですよ。徳島の連中も皆喜ぶでしょうと言われた。私はあまり喜べなかったが,著名な人に会えたことで思いを開くことにしよう。

(7)小祖谷

 祖谷展の折,つららが垂れて平均温度が一番低いと張紙に統計が出ていた。祖谷の句でホトトギスの巻頭を占められ,祖谷の白楢と言われていたので,巻頭句のうち3句をそれぞれ半折に,墨書して戴き,仮表装して展示すると一景物となった。ところが思いがけなく,当の小山先生御夫妻が見えられたので驚いた。白楢師は,小祖谷という所があるんですね,全然知らなんだと言われた。
 私費でしたので本表装にしなかったこと,ご夫妻の写真をとってさし上げられなかったことに自分ながら呆れた。後日,館の礼物をもってお伺いしたとき,どれでも一番好きなのをお持ちなさいと言われたので,「天懸るみちに雲とぶ祖谷の秋」の軸を選んだが,未だに本表装にしてないのが気にかかる。

(8)薬用植物のカラー写真

 薬用植物展は,私が博物館に入って行った初めての特別展で,前任の富永敏衛先生の計画予定にもあったし,私が曲がりなりに形だけは薬学を学んでいたので,これにふみ切った。さく葉は,徳大薬学部の名越助教援のご協力で堆く積み上げられた学生の作品の中から選抜し,県薬用植物園のものや有名なものを一部補充し330点,生薬は薬学部・郡茂薬局・薬用植物園から120点,植木は主として薬用植物から30点,薬学部から本草綱目3冊をホールー杯に展示した。中年以上の年輩の人の熱心な観覧者が多く,薬学部からの紹介があったものか,当日徳島で開かれていた日本薬学会の学識者らしき人も次々と見えて驚いた。展示の補助にK製薬の広報誌のカラーの薬草写真の表紙に白ワクをつけて展示した。61誌で61点。「うまいこと考えとるな」と声があった。
 さく葉の学名について1,2点の疑義が出たが,許容される程度のものでよかった。徳島における植物のベテラン阿部近一先生の目が通されていた。

 

 終わりになりましたが,勤務中温情あるご指導を戴いた徳島大学教育学部地学教室中川衷三,岩崎正夫,須鎗和巳三先生ならびに何かとこ援助ご指導をいただいた徳島県博物同好会,徳島生物学会,昆虫団体研究会徳島支部,徳島地学研究会,地学団体研究会徳島支部等の先生方に厚くお礼申し上げます。

 


 

博物館建設の思い出

 

向 井 田    晋    

 私の,博物館建設事業との出合いは,今より三昔前の昭和31年11月のことである。この時私は,知事部局から県教育委員会の事務部局に出向,社会教育課勤務となり,博物館建設の仕事を命ぜられたのが始まりである。
 この出合いから3年余の歳月に,建設事業費全額を寄付に仰ぎ,この浄財で完成を見た思い出の事業であるが,三昔前のことで,薄れゆく記憶をたどりつつ,当時の思い出の一部を紹介をさしていただくこととする。
 まず最初に,当時この建設に関して,終始ご協力下さいました多数の関係者に対し,心から厚くお礼を申し上げる次第である。
 さて,上司から博物館建設に関して,次のような説明と指示があった。
 この博物館建設資金の一部として,篤志家・増田茂吉氏(九州出漁団・由岐町出身・長崎市在住)から300万円の寄附を知事さんが受理をしている。これを契機に県立博物館の計画を軌道に乗せようとしている。しかし,県は赤字であるため,財政再建団体の指定をうけ,目下再建中で1円たりとも出してくれない。そこで300万円以外の金は,全額を教育と郷土愛に訴えて,広く県内県外の有志から寄附を仰ぐ以外に途はないのでないか……と要約以上のような経緯の説明と募金計画案を立てるよう指示があった。しかし期限の指示はなかった。
 通常であれば,県費予算が認められるものが,しかも,全額寄附を仰ぐということは,極めて無謀な計画と思えたが,上司の命令,一か八か全力を尽くすしかないと覚悟をきめたのであった。
 しかし,その後腰は重く,計画案のまとまり具合は遅々として進まずであったが,心を新たにして,腰を据えてかかった。時間をかけて,深く,広く開係方面の意見を求め,協力を仰ぎ,必要な資料も集め,約1年半位かかってようやく事はまとまった。そうして,この推進母体として結成された徳島県博物館建設期成同盟会の承認を得たのであった。その概要は,鉄筋コンクリート5階建エレベーター設備,3階以上が総合博物館(1〜2階は県物産斡旋所で県費負担),この事業費5.500万円,この額が県内と県外有志から仰ぐ寄附金である。
 当時としては,これは大金であった。このうち県内からいくらをお願いするか,この設定に苦心をしたものであった。自問自答しながら決断したのは,地元が力一杯奮発して頂き,残りを県外有志にお願いすることとし,その割合は科学的根拠はないが県内約8割,県外約2割程度としたのであった。
 結果は,目標が達成し,立派な博物館が建った。これは偏えに多数の方々の理解と教育に対する熱意の結果である。
 思い出のうち,募金に大きな力となったと思うことを若干紹介してみることとする。
 県行政最高責任者であった原菊太郎知事さんが最初から関係し,その上に建設期成同盟会長を引き受けて,腰を低くして,関係者に協力を頼んでくれたこと。
 東郷副知事さんが,知事さんの命を受けて積極的に協力をして下さって,東京,大阪方面へたびたび足を運んでくれたこと。
 更に,東京方面を県東京事務所が,大阪方面は県大阪物産斡旋所の職員の方々が最後まで世話をしてくれたこと。
 九州方面は,県議会議員であった森口幸夫先生(由岐町出身)が,九州出漁団として常に博多に在住していたので,知事さんの意を汲んで最後まで世話して下さったこと等,このように遠方の県外募金は,おお助かりであった。
 次に県下各地の多くの学校では,先生の指導よろしきを得,父兄からの直接の醵出ではなく,児童・生徒の廃品の回収,古切手あつめ,小遣いの節約のほか,いろいろと創意工夫をした教育的配慮の下に,実践活動によって得た尊い貴重な金が多くよせられたこと。このことが関係方面に広く波及効果をもたらしたこと。
 また,仁科教育長に髄行して東京での募金のとき,県人会の有志から,「これまでにいろいろの名目で寄附の要請があったが,われわれには地元以上に割当ての場合があったが,これは妥当ではない。しかし,この度の計画は,賛成できる妥当な案であるから郷里の教育発展のため協力したい」と力強い決意の程を伺い,また,今後県外にお願いする場合に心すべき点をあわせて伺うことができ,貴重な収穫であった。
 ところでこの建設の概要を銘板に刻み,後世へ伝えることとした。当時,県有産物で鉄骨コンクリート5階建・エレベーター付は,博物館以外には無かったと思う。この偉業を後世へ伝えるため,その概要と芳名を銅板に刻み,銘板として屋上の壁面に掲げて置いたこの銘板が,館とともに後世へ伝えられんことを念願するためである。なお,この銘文は,今は亡き飯田実先生の起案したものである。
 さて,いよいよ開館の日がやってきた。時は昭和34年12月10日であった。この日に向かって毎日準備を進めてきたが,前日の9日夜になっても終わらず,われわれ5人で準備が縫わったのは,10日の夜明け前であった。
 開館式は上司の意向もあり,派手なことは一切やめることになった。
 開館式の招待者には,通常,つきものの折詰とか記念品等は,何一つ出さない異例なもてなしであったが,何一つ不平不満はなく,祝福に満ちた厳粛盛大な式典で終始することができ,有難くうれしかった。
 また,われわれ職員一同は,今日までしった激励と厚情を賜った多くの関係有志に対するお応えとして,新装なった館とともに,今日のために努力して収集した資料を披露することができ,今日までの苦労は帳消しとなった。
 私にとっては,はじめからこの事業に関係したこともあって,この日は喜びと感激の日となり,更にこの事業が生涯忘れることのできない仕事の一つとなった。

 


 

博物館開館の頃

 

難  波  晴  二    

 私が徳島県博物館へ転勤の内示を受け,発令をまたずにすぐ勤務につくよう命ぜられたのは,開館を半月ばかり後にひかえた昭和34年11月末であったと思う。
 それまで私はほとんど庶務の仕事に経験がなかったうえに,新設される大規模な公共施設でありながら庶務担当者は1人しか配置されないと聞いて,正直なところこの責任ある仕事をうまくやっていく自信はないし,といって上司に不服を言っても解決の見込みはなく評価が下がるだけ,と途方にくれる思いだった。
 しかし,決ったからにはいろいろ思い悩んでも仕方がない,努力して仕事を覚え頑張るしか方法はない,力を尽くせばまた道も開けるだろうと半ば開き直った気持ちで赴任した。
 博物館には既に各展示室担当の学芸係の先生方やそのほか数名が出務しており,皆開館準備のため慌しく仕事をしていた。
 これから勤務することになる新しい事務室には,机などの事務用調度品は一応全部揃っているものの,驚いたことに3棹ある書類戸棚の中はほとんど何も入っておらず,隅の方に博物館建設費募金関係の書類が少し置いてあるだけであった。そして,引継ぎを受けたのは金庫の鍵とその他いろいろの鍵が入った箱だけであって,書類がなかったのには変な気がした。
 考えてみればそれもそのはずで,徳島県博物館という県教育委員会の出先機関は正式には未だ設置されておらず,関係書類などは作られていないのが当然と理屈では分かったものの参考にできる会計書類や往復文書類はなく,県例規集と会計事務提要だけが頼りとは何とも心もとない限りであった。
 ともあれ,開館すればすぐ観覧者があり,徴収する観覧料は翌日には県金庫へ納入しなければならないと言われても,どのような事務手続をすればよいか全くわからず,又,そのためのいろいろの用紙類や簿冊も整えておかなければならないので,県庁出納課へ何回も足を運び指導を受けた。
 なにしろ,指導を受けるにも会計事務の用語さえなかなか理解できず,「調定」,「定額戻入」,「雑部金」などの意味がわかるまで暫くかかり苦労の連続であった。今でも「調定」の字を見ると当時の苦い思いが甦ってくる。
 この新設なった建物は,以前から営業しているロープウェイの駅舎に隣接して県立物産斡旋所1,2階と博物館3階部分を建て,両方の建物の上に博物館の4階以上を積み上げたもので,外観にはスッキリした建物に見えるが内部は3つの事務所が分割同居という複雑なものとなっている。
 特に,後から増設した博物館と斡旋所の電気と水道は同一建物のためそれぞれに分離して引込みをすることができず,使用するメーターは共用となっていることや,エレベーターの保守,庁舎の清掃なども共同使用する部分があるため管理の分担と経費の負担割合を早急に決めておく必要があった。
 移転のため忙しくしているところではあったが,この取り決めは将来にわたり長く続くものであるため,十分話し合って納得の上で結論を出さなければ後で厄介なことになっても困る。それでいろいろ協議した結果,管理の区分は原則として物産斡旋所が1,2階の建物及び敷地全部と自転車置場を,博物館は3階以上の建物と共通使用している貯水槽や配電設備等の維持管理をそれぞれ受け持つことになった。
 経費負担については,同じ県の出先機関でありながら双方ともできるだけ負担を少なくしたいと思うのは当然で意見がなかなかまとまらない。負担額の目安として,それぞれ管理の部分にある電灯やコンセントの数から電気使用料を計算したり,清掃する面積と回数から比率を出すことも話題になったが,複雑でとうてい無理ということで最終的には面積割にすることにした。但し,面積割にすると現況から概ね8:2となるが,博物館側には集会室,会議室,収蔵庫など使用頻度の少ない部分がかなりあり,そのことを考慮に入れ,双方が歩みよって妥当な割合に落ちついた。
 また,エレベーターは建物の構造上,2階の乗降口だけが物産斡旋所の展示場にあり,他の1階から6階までが博物館となっていたため,自動で運転すると2階から自由に出入ができ都合が悪いので,物産斡旋所に了解してもらって2階は停止しないようエレベーターの操作盤を変更してもらった。
 博物館の建物は,当時としては非常に立派なものであったが,残念なことに冷房設備が完成しておらず,予算の関係からか空調用ダクトの配管と機械室のスペースの確保はできているが,肝心の冷房機,暖房ボイラーの設置がなく,中途半端なものとなっていた。
 そして,鉄筋コンクリート造りのため夏は暑さが厳しく,冬は底冷えがするという居住環境の悪さが影響してか,折角立地条件のよい位置にあって多くの人が利用できるようにと造られた集会室,会議室も,周辺によい設備をもった建物ができるにしたがい,次第に利用者が減少して淋しい思いをした。
 また,各展示室には監視と説明のため臨時職員を配置していたが,冬期の暖房は広々とした展示室に小型の電気ストーブ1台だけで寒さを凌いでおり,特に女性の中には足元に置いたストーブの熱が足の一か所に集中してあたり,そこに軽い火傷様のシミをつくっている人もいて痛々しく見るに耐えなかった。毎年予算要求のときには,この実情を財政当局に訴え,せめて暖房だけでも早期に整備できるよう要求を続けたが,なかなか理解してもらえず,私が転出した昭和41年3月までには遂に実現できなく心残りであった。
 開館後しばらくたってから,公用車としてその頃では高級車のイメージがあったセドリック・ライトバンの交付があった。県庁や出先機関には公用車が配備されているところも相当数あるが,それぞれに専任の運転手がついているので当然博物館にも運転手の配置があると思っていたところ,教育長から「新規に職員の配置はできない,職員は全員が運転できるよう免許を取得し,用件のある者が自分で運転するように」と指示があったということを聞かされた。
 現在では管財課の許可を得れば県有車両の貸出しを受け,自由に使用することもできるが,その頃は複数の職員が県車両を共用するなど思いもよらぬことであり,この発想に驚きながらも私はすぐ教習所に通って免許を取得した。
 その後しばらくは自分の仕事はもちろん,あい間をみてはよく運転をかってでたもので,それまで展示資料の運搬や各種の行事のときには,その都度業者のトラックやタクシーを借上げなければならず不便であったが,手近に自動車ができ必要に応じてすぐ使用できるようになりほんとうにありがたく思ったものである。
 私は開館のときから6年余り博物館で勤務したが,前半の数年は職員が少ないなかで,新しい任務を何とか無事にやり遂げようとひたすら頑張りだけの毎日であったと思う。
 しかし,後半は職員の増員もあり,また通常業務は一応軌道に乗ったこともあって少しは時間の余裕ができたため,いろいろの事業に参画して面白かったこと,楽しかったこともたくさんあると思うが,よかったことの記憶があまりないのはどうしたことか。

 来年は文化の森に建設中の新しいテーマをもった博物館が完成し,移転することが決っているようであるが,これを楽しみにしている反面,開設のときからかかわってきた今の博物館も必然的に閉鎖されることになり,一抹の淋しさを覚えるものである。

 


 

開館前後の思い出

 

浜  元  順  吾    

 

設立資金の募金活動

 昭和34年2月に,社会教育課の中に設置されていた博物館開設準備室に,今日でいう学芸要員として,垣本館長,飯田実(考古),富永敏衛(生物)の両氏と私が配置されたときには,募金は目標の60〜70%程度は進捗していたが,難しい残りの最後の追い込みに,チーフの向井田実さん(博物館次長)の指示のもと,庶務の難波晴二氏らとわれわれ全員で取り組みながら,開館の準備を並行して行うという,目まぐるしい月日であった。
 募金申込書は出ているがまだ納入されてない所,分割納入で残っている所,全く新規開拓の所など,小柄ながらバイタリティー溢れる向井田さんが,毎日の訪問先をわれわれに割り当て,町内会や商店会を通して,個人のお宅や,お店,会社などを何回となく歩き回ったものである。
 募金事務は,開館後もしばらくかかったが,無事,目標の100%を超えて終了した。そして,募金で何回となく訪問する間に顔なじみになった方々から,思いもかけない,展示品についての貴重な情報も得ることがあった。

 

科学模型のメーカー依頼

 当時はまだ白黒テレビ時代で,それもNHKの受信契約数が100万台を突破したと大ニュースになったのが昭和33年であった。
 開館準備といっても,予算としては,館全体として展示ケースや棚などの備品で精一杯であり,展示品や模型などを購入することは不可能であった。手作りするにも開館までの期間は短く,大阪の電気科学館をヒントにし,各メーカーに模型を出品してもらうことを考えたのである。
 切断して内部構造の判るモーター,洗濯機や電気炊飯器など,また,外装が透明プラスティックのテレビ受像機やトランジスターラジオなど,その他原理の説明模型などの出品を,メーカー名を表示する条件で各社に依頼した。これらは,募金で顔なじみになったメーカーの代理店などのお店に,メーカーとの交渉など随分とお世話になった。
 商品やメーカー名のPRになるから,各社ともどしどし出品してくれるのではないかと期待したのであるが,完成品そのものならばともかく,模型をストックしているわけではなく,大都市での展示もまだ充分でなかった時代でもあり,四国の徳島の順番はまだまだ先だということで,予想を大幅に下回る出品数しか得られなかった。目玉は,ナショナルが出品してくれたステレオの音の高低・強弱を,豆ランプ盤に色別と光の強弱で点滅表示する模型であった。今でこそ噴水などで行っている所も多いのであるが,当時は全国でも数少なく,勿論四国では初めてで,話題を呼んだ。
 開館後も,展示品を増やすために,東京の科学博物館や大阪の電気科学館などの展示模型を写真にとり,同様模型の出品をメーカーに依頼するというやり方を続けたのである。

 

現代美術とのかかわりあい

 美術館のない徳島では,県内在住美術家については県展などで名前や作品を知ることが出来るのであるが,数少ない県出身県外在住の美術家については所蔵家とごく一部の人々しか作品を知る機会がなかった。
 博物館の新しい分野として,現代美術とのかかわりあいを是非とも開拓したいと考えた。しかし,古美術などのケース内展示と異なり,壁面に額をじかに掲示するということに所蔵家の方々が不安を覚えられ,出展承諾に苦労をした。少ない点数であったが,何とか小さい一室を作ることが出来た。
 この現代美術については,開館後,県外在住の新進作家の方々から出展の申し入れがあり,思わぬ効果があった。
 一方,県内第一級美術家を対象に,春に招待作品展である『博美展』を創設し,現代美術とのかかわりを深めていった。
 昭和36年春までの短い期間ではあったが,私にとっては,懐かしい,楽しい思い出の時代であった。

 


 

思い出すままに  生みの苦しみと喜び  

 

富  永  敏  衛    

 

初代職員の仲間入り

 昭和34年4月半ばすぎ,新学期がはじまったばかりの津田中学校で3年生を担任していた私に,森川信太郎校長先生から博物館建設事務局への転任の話がもちかけられた。教育委員会から早急に回答を求められているので明朝,意思を明らかにしてほしいと要請された。
 理科の教師としてまだまだ未熟ではあるが,大学時代に生物を専攻した私にとっては,6年間の現場教師の経験の上に理科の教材についてさらに研究を深める絶好の機会であると考えた。加えて,館長予定者として私の旧制徳島中学校での恩師である垣本光男先生がすでに事務局入りされているのを知っていたので,受け持ったばかりの生徒たちのことが気にかかりながら,事務局員として仲間入りさせていただくことにした。学校での旬日余のあわただしい整理と引きつぎをすませて,5月1日という半端な時に私は徳島県教育委員会社会教育課社会教育主事補の辞令をいただき,社会教育課分室の博物館建設事務局へ勤めることになった。

 

展示の構想ねりと資料の収集

 私が担当することになった展示室は,当初,博物室と呼ばれていた。そして展示構想については,私が事務局入りする前,すでに社会教育課の先生方が苦心されて概ね作ってくださってあった。それに収集すべき資料についても県下全域に調査がなされ,提供していただく方々についてのリスト作成もほぼ終っていて,誠に有難いかぎりであった。私はそれらをさらに調査研究し,事務局として検討しながら具体化をはかればよいという状況になっていたのである。とは申しながら,同年12月10日の開館までの7か月はまさに生みの苦しみを味わったのである。しかし,同時に大ぜいのこの道にご理解ある権威者の方々,それに小・中・高校や児童・生徒の皆さんのご好意によって,どれだけ資料収集がはかどったか,枚挙にいとまなく,その間のこれらの人達との出会いは,私にとって勉強となったと同時に大きな喜びでもあったのである。
 さて,この仕事をすすめるうちに“博物室”という名称に若干ひっかかるものを感じていたのであった。“博物学”という学問体系がなくなったに等しい状況の中で,博物室という呼び名は改めようということになった。自然科学の四大領域,物理学・化学・生物学・地学のうち本室が担当する領域はまさに生物学と地学とである。よって生物・地学室はどうだろうと垣本先生からのご提案があり,衆議一決,生物・地学室の名称が誕生したのであった。
 生物・地学室の当初のメインとなる展示物は,徳島県を代表する日和佐のアカウミガメ,母川のオオウナギ,那賀奥での世界の珍種タヌキノショクダイ,それに藩政時代にお止め石と呼ばれ阿波藩が大切にしていた青石一緑色片岩,藍閃片岩そして紅簾片岩など,さらに阿讃山脈の和泉砂岩の中に産するコダイアマモをはじめとする県下各地に出る化石の数々であった。
 アカウミガメは日和佐中学校生徒の研究の成果のものであったが,同時に珍しいオサガメを同校から提供してもらった。アオウミガメを加えた三種のウミガメは生物室の中心に展示され,開館の当日,原菊太郎知事が嬉しそうにご覧くださったが,このようすが私の脳裏につよくやきついている。
 母川のオオウナギを標本にする時のことについては垣本先生が記されているが,私はこれをいかにうまく展示するかに腐心した。他の博物館で大きな魚類を展示してあるケースなどを参考にして,木枠の細長いガラスケースを作成してみたものの,観覧者から折角の珍しいものが見にくいとの声が出された。開館後しばらくして,現在の曲面ガラスを使った特製のケースにした。曲面ガラスケースということでかなりの予算をいただいたことを憶えている。
 開館当初はいろいろなご意見を寄せていただいたが,ある方から木の枝にとまっているキジの雌雄の剥製標本をいただき,展示してあったところ,キジは飛んでいないときは木の枝にはとまらず,地上に降りたつものだからこの標本はおかしい,との申し出を受けたのなどはその一つである。
 ところで,珍しい標本を多く蔵していたのは,徳島市内以外にある高校,それも旧制の古い中学校・女学校を受けついだ学校であった。富岡西高校からチョウザメの剥製,撫養高校(現鳴門商高)からは鳥類の剥製を数多くお借りした。チョウザメはそれまで私自身実物を見たことなく,もちろん標本ではあったが,はじめてのチョウザメに驚嘆の声を発したのであった。
 また,上那賀町臼ケ谷の橋本陰歳氏から提供していただいた数多くの化石はすべて典型的なもので,化石に関心ある者の垂涎の的であった。一度臼ケ谷のお宅をおたずねする機会があったが,きちんと整理された標本を見せていただき,お話を伺ったとき,氏の自然を愛する思いの深遠なることを知り,自ずと頭が下がったのである。

 

行事いろいろ

 生物・地学室の夏は,毎日のように児童・生徒たちであふれた。児童・生徒や保護者の要望にこたえてはじめたのが“夏休みの採集物に名をつける会”である。本来ならば“同定会”でよいのだが,同定という語は専門用語に近く,一般にはほとんど理解してもらえないということで,この長ったらしい名称となったのである。県下の動植物・岩石鉱物などの専門の先生方が子どもたちを相手に,何千点にも及ぶ標本に名前をつけてくださったのである。おかげでこの会は大へん好評をいただいた。
 昭和35年8月,阿部近一先生会長の博物同好会の石立山を中心とする那賀奥調査に私も加えていただき,3泊4日のキャンプ生活で,植物・昆虫・動物(昆虫以外)・岩石・鉱物・地質等の調査研究に当たった。その調査結果や採集物を展示する“那賀奥展”が,その年の秋,生物・地学室初の特別展示として華やかに開かれ,多くの生物・地学ファンに喜んでいただいたのであった。さらに,それらの採集物のほとんどのものを調査員の方々からご寄贈いただき,所蔵資料が一段と増加し,館員の喜びは大きいものがあった。

 

30年前の思い新た

 平成元年7月のある日,ラジオ“NHKジャーナル”の中のマイクコラムのコーナーで秋田市立美術館長井上房子女史のエッセイを聴いた。昭和35年11月,博物館調査に同館を訪ねた私に丁寧に応対くださったのは確かにこの方であると思った私は,8月1日,同館へ電話をかけお伺いに及んだところ,まさにその方であった。東京の大学をその春卒業したばかりの若くて美しい学芸員が,今はその館の館長さんとして活躍されていることをあらためて知り,約30年前の思いを新たにした次第である。

 


 

思いつくままに

 

吉  岡  良  知    

 毎年,春と秋には県下の小中学校で遠足が行われ,幾つかの学校が博物館の見学にやってくる。その時,玄関に出迎えて,引率の先生と入館の方法や,見学時間の打ち合わせをする。何分にも当館は狭く,一室に大勢が入れないので事前にクラス毎の行先を配分することになる。各展示室には担当の学芸員がいて展示品の解説をしたり,質問に答えるのが通常のパターンである。
 団体見学の大部分は小学生であるが高・中・低学年それぞれに持味があり,理解度も異なる点を念頭において応対する必要がある。殆どの学校は指導が行き届き,児童・生徒は柔順な感じを受ける。そうした中で,1・2年生の児童が先生につれられて館内をもの珍しく見向っている姿は大へん微笑ましい情景である。一方上級の5・6年生ともなれば,これが小学生とか疑うような見事な体格の子も見かける。何れにせよ私達は,初めて来館した彼・彼女達に「面白かった」「また来たい」と感じて貰えたかどうか常に自分に問いたいものである。
 私は科学室の担当である。小学校低学年の児童を相手にいろんな機器を通して彼等と遊ぶのが好きである。科学室へ入った正面に「平衡感覚を検査しよう」という実験装置がある。要するに丸い台の上にあがって身体の重心が前後左右に移動すると下にある感知板に接触し,その回数をカウントする装置である。
 不安と興味をおりまぜた目で見守っている彼等の一人に声をかけ,台上へ誘導して検査を始める。殆ど問題なく,針は零を動かない。そこで「合格!優秀だ!」と大声で宣言してやる。その時の彼等の嬉しそうな顔は何とも表現し難い。「合格!」が余程嬉しかったのか再度挑戦にくる子もいる。私が魅かれるのは,最初機械に近寄ってきたときの不安をおびた好奇心あふれる目,これが私の心をとらえて放さない。この目の光りを大切にしたいと思う。小さい頃体験した閃きが将来の大発明,発見を生み出す動機となった科学者は多い。この閃きと彼等の好奇心は無縁と思えないのである。そこで小学校高学年,中学生はどうか。学校が休みとか早じまいすると必ずやってくる小学生,中学生のグループがある。人数は多くないが,よくよく電気,機械が好きと見えて長時間滞在し,あれこれ操作を楽しんでいる。こうした子ども達がどんどん増えていくと同時に,これ程強烈な興味・関心をもった才能をより伸展させる環境作りが強く望まれる。
 近年,全国各地に「子ども科学館」が新設されつつあることは21世紀に生きる若者を育成する意味において,極めて適切であり,喜ばしいことである。本県のように人口の少ない地方都市にあっては,独立した科学館を建て,維持運営することは大へんなことと思う。しかし,やり方次第で工夫の余地がないこともないだろう。私がこれまでに見学した施設の中で面白いと思ったものを紹介し,できればこれらをとり入れた「子どもなぞなぞ館」など考えてみては  
 新潟市の中心から3キロ程離れた,山がかった静かなところに新潟県立自然科学館がある(昭56.11.1開館)。この館の中央2階展示場に「不思議な広場」というコーナーがある。その案内文を転写すると,−科学的な遊具などを使って創造力を養う楽しいコーナーです。ここでは錯視や錯覚など私たちの感覚の意外なもろさを体験することができます。組木や知恵の輪,コンピューターを利用した科学ゲームなど,楽しい遊具や装置を使って皆さんの創造力を発揮してください。主な展示内容,判断テスト,記憶力テスト,音階テスト,オーディオルーム,暗黒の世界,エイムズの部屋,ピックリハウス,不思議なコマ,感覚テスト,知恵の輪,連珠ゲーム−文章で書くとこれだけのものであるが,実際はなかなかどうして,「不思議な広場」担当の方からいただいた資料の中の知恵の輪一つ取りあげても,情報を世界中から収集し種類の多いことに驚く。組木だけでも一日中楽しめるくらい揃っており,メビウスの輪,消える小人等ユニークな遊具にこと欠かない。このような学習と遊びの場に恵まれた新潟の人々が羨ましい限りである。
 この「不思議な広場」を拡充したものが私の作りたい「子どもなぞなぞ館」構想である。総人口84万の徳島県に,東京の科学技術館,名古屋市の科学館のように科学全般をカバーした大規模の科学館は存じないと思う。だからそうした施設がなくてもよいのではなくて,焦点を絞った科学への取り組みが考えられてもよいのでないか。因みに先の新潟県立自然科学館の総事業費は93億と聞く。わが「子どもなぞなぞ館」はいくら要るだろうか。仮りに100億要るとして,そこからノーベル賞を受ける人間が育つなら安いものだという人もいる。
 当館が建設された昭和30年初頭における全国博物館施設は500館に充たなかった(489館,昭32.8現在)ものが今では2.577館(昭63.3.31現在)を数える。そのうち科学(理工)系のものが125館を占め,今後も増加するものと思われる。最近新設されたものとして,浜松科学館(昭61.5.1),宮崎科学技術館(昭62.8.2),浦和市青少年宇宙科学館(昭63.5.1),八王字市こども科学館(平1.1.28)などがあり,機会を得て見学したいと思っている。
 多くの人々から親しまれた徳島県博物館科学室,産業・天文室もここ4,5年,すっかり衰えを見せ始め,新館移転を機に30年の歴史を閉じることとなった。老兵が消えていくのは仕方ないとしても,老兵に代わって新進気鋭の若武者が近い将来,必ず出現することを県民の一人とし切望してやまない。今を去る30年前,現博物館を建設したあのときの全県民の郷土愛,教育愛は永遠に不滅であることを信ずる。
 長い間,公私にわたり,ご指導,ご協力いただいた方々に心からお礼を申しあげる。有り難うございました。

 


 

「徳島県博物館」に赴任したころ

 

立  花     博    

 昭和39年度も終わろうとしていた40年の3月下旬のある日,校長に呼ばれた。時が時だけに異動のことかと思った。この頃,僻地校への転勤がささやかれていた時であったので,多分このことだろうと……校長室に入ると,校長から,案の定,転勤の内示であった。僻地校への転勤でもなく,他校への転勤でもなかった。「博物館への転勤」との主旨の話であった。思いもよらず,予期もしない唐突な話で,面喰らった話であったため,少なからず時間をかけ,適任でないことを説明し,固辞したが,「もう,決まったものだ」といわれ,承服せざるを得なかった。
 異動が決まったものの,今までの経験が全く通用しない職場で,職務が全うできるか,不安の連続であった。しかし,これまで,博物館と全く無関係ではなかった。開館が迫っていた頃,尊敬する先輩の飯田実先生が勤務されており,展示ケースの運搬や配置,展示品のディスプレーなど,一週間程,手伝いをさせてもらった程度の係わりがあったので,一抹の安堵感もなくはなく,「何とか成るであろう。」と思う気持ちもあった。さて,赴任したものの,喧騒で活動的な環境に永年馴れてきたものが,事務机に向かい,黙々として事務をする大人の静的な場への急激な変化に,何とない虚脱感を憶えたものであった。
 まず「何かを為さねば」と思い,博物館に関する認識を持たねばと…,法令をひもとくことにした。−赴任直前,校長から「行政機関は,法令で運営されるので勉強するように」といわれていた。−耳新しいものばかりで,博物館とはどういうものか,次第に判りかけたが,抽象的で漠然としたものが頭に描きかけたが,具体的に徳島県博物館は「施設設備で,資料の展示,保存,管理をどうすべきか」また「社会に対して,機能をどう果たすべきか」答えは全く五里霧中であった。唯,徳島県博物館の施設や設備がこんな状態でよいのかといった疑問は,開館当時見学したころに思っていたことではあったが,深くは考えもしなかったことであった。収蔵資料を確認するため,収蔵庫に入ったとき「ムッー」とした感じを今でも憶えている。温度調節,湿度調節器はと探したが見当たらず,ただ,小さな換気扇が一つあるだけだった。美術工芸品の保存に最低限必要な温度や湿度の調節器がないとは,おどろきの一つであった。
 博物館の指標に収蔵庫の「良し」「悪し」があげられる。このように,物置同然の収蔵庫で,資料の充分な保存,管理ができるのかと,全く自信を失ってしまった。展示室も同様な状態であった。私の力で,今更どうすることもできないことであった。博物館が建設されるようになった経緯を開いたり,その頃,赤字再建団体の指定をうけかけていた県の財政事情や社会情勢を考えると,近代的な博物館建設に程遠い建造物であっても,やむを得ないと一種の諦めをもった。しかし,与えられた場で最善を尽くすしか道がないとも思ったものであった。徳島県博物館も開館30年にして,ようやく「文化の森」に近代的施設・設備をもった博物館に変容しつつあることは,私にとって,25年前勤務したときを憶えば感慨深いものがある。
 また,博物館に赴任した頃,友人や元同僚から「2〜3年すれば,学校へ戻れよ」とたびたび聞かされ,私も容易にその言葉を受けいれていたものだった。ある時,那賀郡の山村で調査のため,一週間ほど滞在したことがあった。丁度この時,教員の異動があり,宿屋のおばさんとこのことが話題となり,「変わってくる先生も3年すれば,また,変わっていくので,顔を覚えた頃には,いなくなる。」と,転任してくる先生に「腰掛け」的な気持ちは全くなくても,地元の人たちには,「腰掛け」としか映らないような口ぶりであった。私も内心「腰掛け」的な気分が全くないとはいえなかった。博物館にたびたび出入りしていた郷土史家と呼ばれる人達も,私をみて,「腰掛け」として,映っているのだろうかと……,私は,教員として過ごしたい。教員として空白期間の長くなることを恐れていた。一方,博物館には,「学芸員」をおくことが義務づけられている。私は「学芸員」の資格を持っていない。長い年,博物館で勤務したくても,資格のない者が,博物館の業務に携わっていくことも変な話で,あたかも,教員の資格のないものが学校で,児童・生徒の教育に携わっているのと大差がないと思い,私の身の処し方に,こだわりをもち続け,機会あるごとに人事担当者に相談したこともあった。返事は,いつも「しっかりやれ,貴方でなければできん」と激励ともおだてともとれる言葉であった。一時は「学芸員」の資格取得を考えたこともあったが,その煩わしさを考えると,とうとう踏みきれなかったのも,私の性格の弱さであろうと反省している。ふっきれないこだわりをもっていたある年,人事担当者から「学芸員」の資格をもった者を人事配置するからと秘密裡に聞かされ,これまでのこだわりが,払拭した思いがしたものだった。これで,心ひそかに教員として,再出発できると思ったがすぐには,実現しなかった。
 博物館に勤めた6年間。私には,当初からいろいろなこだわり続けたこともあり,仕事のうえで,トラブルをおこしたこともあったり,行き詰ったこともあったが,その度に,上司や同僚,その他関係のあった人達の助けを得られたことは,今,憶えばなつかしい思い出である。

 


 

埴 輪 の 目

 

先  川  露  江    

 「平成」となって早や半年余,異和感なく平成の文字に馴染み,あれほどに書きなれ言いなれていた「昭和」が遠くなろうとしている。
 私が博物館へ出向ということになった昭和41年から退職の47年まで,ロープウエイ横の狭い裏ロのコンクリ階段を朝毎に上って行った。その固い靴の音が自分の存在をたしかめるようにひびいたものである。
 3階から5階まで,郷土,天文,美術,科学,地学,生物の各展示室をはじめ,ホール,小会議室をもち各種の文化的な催し物を開催する博物館での勤務は,私が今まで勤めさしていただいたどの職場とも異なったうるおいを持っていた。
 時の流れの中に,私は自分自身をふり返るゆとりを見出すと共に,ただ目の前の形式美を整えることにしばられて,伸ばしようもなかった人間の内面をどこか温かく包んでくれるようなしみじみとした雰囲気が感じられたのである。
 日曜勤務が当たり,展示室の当番が当たることでさえも心ゆたかに楽しいことに思われた。展示室当番は主に3階の郷土室であり,郷土室には私達祖先の生活に直結する珍しい古代がぎっしりとつまっていて飽きることのない当番勤務の時間であった。
 古墳や遺跡から出土した瓦,銅鏡,銅鐸,勾玉,管宝,石釧,車輪石等々,すべてが遠い古代からのメッセージであり,そこに祖先の生活をまざまざと見せられるのである。勾玉,管玉の美しい色にふくよかな古代の女性を偲び,銅鏡に映ったであろう風貌を想像するだけでもつきませぬ思いが拡がるのは私だけではあるまい。
 特に私が魅せられたのは,人物埴輪の素朴さである。人物埴輪にも全国各所からではそれぞれに違いがあるようで,先日の新聞によると埴輪の目が空洞ではなくて目玉が入っているとか……。でも私の埴輪の目は空洞でないと困るのである。展示室に私を呼んでやまない埴輪は,小松鳥市前山遺跡より出土したもので70cmほどのもの。若い女性であろうか,スカートのように裾の広がったものをつけている。左腕は欠けて無く,右のこぶしは握ったまま,頭は小さく,額は狭く直ちに大きな空洞の目になっている。一寸つまんだような鼻が下の方についていて口は鼻のかげでよく分からない。空洞の日の表情が寂しくどこか諦めに似たようなものを漂わせている。子供を亡くした母親のようにも見え,何かを訴えているようで,この目をのぞいて中の思いを分析したい気持ちにかられてしまう。素朴さはこの上ない。一体どのような人がどのような思いで作ったものであろうか。古墳時代後期の作品ということである。
 この他にも形象埴輪として,直弧文を描いた盾形埴輪などもあり,馬をかたどったものもある。どれもどれも古代人の手になったものであり,そこに古代人の息吹きと温かい肌のぬくもりを感じさせられるのである。
 博物館見学で国立科学博物館に行ったとき,頭蓋骨ばかり年代順に幾百となく並べられていたり,また何かの草の汁で煮つめたという人間の小さいミイラがケースの人形のように寝かされてあるのを見たときの息づまるような驚きは今なお新しいものである。その学術的意義の重さもさることながら,驚きばかりが鮮明に残っている。
 ここでも私はやさしく,そしておそろしい時の流れの音を聞く思いである。水の流れのように逝きてとどまることなく,目に見えぬ早き故に毎日感じないままに流されて,気がつけば何千何万何億という数の朝を迎え日没を送っていることを痛感させられてしまうのである。それは恰も科学博物館に並ぶ頭蓋の声なき声とでもいえようか。
 私が出向した当時の日出武敏館長は植物学者であり,館の夏季行事「採集物に名をつける会」では集まってきた小学生を相手に楽しそうに教えていられたご様子がなつかしく印象に残っている。タヌキノショクダイ,ヤッコソウなどの名を知ったのもその頃のことである。
 林利秋館長も花を愛され,また文化活動に力を入れられ,絵画,文学のよき理解者でもあられた。
 香田直人館長は逝去され,凛たるそのご容貌に接する由もないが無言のうちに真摯なお教えをいただいたと思われる。
 当時,青年だった方々もそれぞれご立派に館活動に尽瘁されていられることは喜ばしい限りである。
 想い出はつきないが,私という微粒のいのちが博物舘の永遠の流れの中に一とき息づいていたという事を自分白身の得難い充実とすると共に,ここに謹んで新しい博物館の発足を祝福しその弥栄を祈念してやまぬものである。


 

開館10周年のころ

 

浜  松  満 里 子    

 徳島県博物館が30周年を迎える記念の年と聞いて心からお喜びを申し上げる。寄稿の依頼を受けた時には一瞬とまどいを感じたが,考えてみると博物館との御縁はずい分長く,強く記憶に残っていることもあって縁の深い一人なのだなという観点でまとめてみたので,お許しをいただきたい。
 その御縁の第一は,私が徳島県教育委員会管理課に勤務していた時に始まる。昭和32年に徳島県博物館期成同盟会が結成され,教育委員会の看板の横に大きな看板を立ててその建物の一階に事務局が出来た。管理課の部屋は一番奥にあったので私はこの前を一日に何回も往復したものである。そして大規模な寄付行為が展開されて,教員や県教委職員は毎月の給料から定額の寄付積立をし,児童生徒をはじめ市町村や民間企業のすべてに大々的に働きかけて資金を集め,博物館は建設された。この会の組織は,県内政財界教育界の全役職者を網羅した県民あげての陣容で,本部長,顧問,監事,評議員,会長,副会長,参与,理事を合わせると2.000名を超えるという超特級の会であり,博物館にかける県民の期待がいかに大きかったかを物語っている。文化施設を建設するのにこれほど大々的な寄付を集めるということは,現在ではとうてい考えられない情熱というか一途なものがあったと思える。そしてこの寄付者の氏名は,銅板に刻んで今なお博物館の屋上に保存されている筈である。
 昭和44年4月,はからずもこの博物館に勤務することになった。それはちょうど開館10周年の年で,特別展として電気科学展開催の年であった。それから4年間を過ごして古巣の県教委に帰ったのであるが,年齢が38歳から42歳のころで,末っ子が小学校に入った年であったのも博物館業務をじっくり考える年ごろであったと思っている。もともと裏千家茶道の影響から美術館などを見学するのは好きで,よく友人と旅行しては美術鑑賞にひたったものだが,博物館職員としてその経費執行を担当してからは,他の展覧会を見た時にその企画とか編成の素晴らしさや学芸員諸氏の研究の数々とか,展示の工夫や配慮がじーんと伝わってくるようになり,展覧会の奥深さをしみじみ味わうという副次的な産物を得たものである。それからというものは,展覧会を観ると必ず図録を買って帰って落ち着いてひもといてみる習慣になり,頁と頁の間にひそむ主催者の抱負とか執念というようなものを見る思いでいよいよ肌身に深く感ずるようになった。
 県教委に帰って指導課から社会教育課に転任し,三たび博物館と出合ったのである。それは県の組織として博物館・図書館は県教委の出先機関であり,こういった社会教育施設をまとめるのが社会教育課である。そして,もう一つの博物館が鳴門市妙見山の山頂に鳥居記念博物館として設置されており,私はこの館の担当という立場になったため,社会教育課の10年間は常に博物館の先生方との諸連絡が多かった。また昭和55年から59年にかけて阿波陶磁会会長豊田進氏の厚意により庸八焼の一括購入がなされた際は,予算編成から最終納品の検収まで本課執行という立て前から一連の手続きがあって,ここでも深い御縁があったと思っている。お陰で庸八焼は一点一点をつぶさに拝見することができ,またその集大成ともいわれる図録もいただいて今なお書棚にその面影を残している。
 さて,開館10周年記念の特別展「電気科学展」をふり返ってみたい。といってもくわしい記録を持っていなくて,先日博物館をたずねて吉岡良知先生に当時の資料を見せていただいた。そのパンフレットの序文を見ると当時の博物館の姿が一目にして伺われるので掲載してみる。

1 はじめに……当館では毎年夏休み期間にはなにかの特別展を開催してきました。今年は電気科学展を開催することになりその準備を着々進めています。徳島県博物館も開館されて今年で10周年を迎えました。開館前から県下の小中高校の児童,生徒及び教育関係の方々のど支援をいただいてきました。そのお礼の意味も含めて,小中高校生に楽しく電気の学習をしてもらうとともに,日常教育実践の立場にたたれている先生方の教育の一助ともなればと思い,この電気科学展を計画しました。

とあるように,その設立が寄付という大きな援助の後に生まれたので,その名称も徳島県(立という字が入らない)博物館となっていて,職員一同ひたすら低姿勢の面がぬぐえなかったのはまことに珍しい存在であった。
 当時学芸係には吉岡良知係長と立花博先生が活躍中で,学芸員としては天羽利夫先生,山川浩実先生が採用されて2年目という年で,若い2人の先生は少ない予算をいかにうまく消化して効果を高めるかという現場運営に意欲的に取り組んでいた。私もそれまでの事務は数千人の人件費を積算してもいわゆる机上の計算であったため,一つの事業を仕上げて行く会計執行は初めてで,少なからぬ苦労があったが,行事の都度成功裡に終了する展覧会等をふりかえると,文化遺産や美術・芸術とのふれ合い等得がたいものとの出合いが今もなおぬくもりとなって残っている。展覧会の準備の時はかなりな労働もあり,クタクタに疲れて夜は冷たいビールで喉をうるおしながら,博物館の将来像,先進県の博物館,国立博物館のことなどもろもろの話を語り合ったなつかしい思い出も浮かんでくる。
 博物館所蔵品の目録が発刊されたのもちょうどこのころである。昭和45年,生物室担当の田中正陽先生が提唱し,何回も予算要望を重ねて先ず植物の目録が第1号として発刊された。次いで昆虫,鉱物という順序だったと記憶している。私の書棚には第8号現代美術資料,第13号守住家資料,第14号豊田コレクション図録,昭和58年の蜂須賀侯御用絵師展図録などがその歴史を物語っている。
 昭和55年置県百年の年,知事の年頭初感に文化の森構想が発表され,明年いよいよ開館の運びとなっている。建設地は私の住む八万町の一画であり,毎日の散策の中に趣味を楽しんだりゆとりの広場で憩うこともできる。またよくいわれる生涯教育とか婦人の生きがいや高齢者の生きがいのため,講演会や研修会にも参加して文化の森の散策はそれらが全身に行きわたる日光浴となる日が来ることを願っている。そして多くの方々との交流も持ち続け,その方達が私宅にも足を留めていただけるなら,一服のお茶でしばしの語らいを楽しんでいただきたい。このように博物館との出合いが,美しい余生を送るために役立つことを願っている一人である。

 


 

博物館勤務の思い出

 

田  中  正  陽    

 昭和46年4月1日,「徳島県公立博物館事務職員に任命する 主事に補する 徳島県博物館勤務を命ずる」との辞令を県教育長より戴き,林利秋館長より学芸係自然史部門を担当するように命ぜられた。そして,昭和52年3月31日,「願いにより本職を免ずる」の辞令を戴くまで6年間,私は博物館に勤務した。その間自然界の事物・現象を求め,展示に,教育活動に,収集活動に一生懸命に努力した。
 まず,印象的な思い出は,日博協の自然史部門担当者の研修会である。勤務してはじめての年,埼玉県立自然史博物館で2泊3日の研修があった。自己紹介の時,「私は中学校の理科の教師で,教頭から博物館勤務をするようになりました。どうかご指導をお願い致します」と,あいさつをした。当時,全国の自然史部門のリーダー的な存在として,日浦勇(大阪市立自然史博物館),柴田敏隆(横須賀市自然博物館),太田正道(秋吉台科学博物館)の三氏がおり,主にその人たちが運営にたずさわっていた。
 その時の雰囲気は,教員からの博物館勤務は無理だ,教員と学芸員とは根本的に異なるものがある,余程頭の切り換えをしなければ,といった仲間はずれのような1日目の印象であった。私は,大学ノートに討議及び発表の内容を記録し,分からない時は分かるまで質問し,他の博物館・動物園の現状・隘路について意見をかわしながら,自然史における活動のあり方についての指針を得ると同時に,学芸員に負けない業績をあげる決意をした。この時の記録が中心となって,日本博物館協会から「自然史部門のあり方」が刊行されたことが思い起こされる。その後山形県立博物館,鳥取県立博物館と,出席する毎に意見も求められ,中心的な存在にさえなってきた。教員出身とはいわれなくなり,早く学芸員の資格をとって欲しいといわれるまでになった。
 自然史部門の運営を私ひとりでやっていくには分野が広すぎると考えていた折,愛知県北設楽郡東栄町で自然史部門の研修会があった。参加して驚いたのは,豊橋市にあった向山天文台がそっくり移転していたことであった。豊橋市は工場も多く,煙突が立ち並び,天体観測も出来にくいとして,東栄町の山中に移転したとのことだった。町長のあいさつの中に,1町3村の合併で,立町の目標を「自然との対話」とし,「天文台」も出来たので自然を皆さんの目で見て,町を指導して欲しい。町は過疎が進み,学校も休校が多くなったので,天文台,宿舎,研究室をよく利用しているとのことだった。2泊3日間,昼はあちらの山,こちらの山と時間の許す限り動物・植物・地質の調査をした。天文台には,金子先生がおられた。工専出身のエンジニアの先生は,ご自身でプラネタリウムを製作され,山のあちこちに金星・木星など多数の観測所を独自で設置されていた。この金子先生の行動力,自分で考案し製作をする工場まで建設し,頑張られている姿に深く感動させられた。夜明けまで,真剣に討論したことが,忘れられない思い出となっている。
 つぎに思いだすのは,特別展のことである。平常展は,県内外の観覧者が来館されるので,徳島県として,知ってもらいたいものを展示していたが,年に1回は特別な展示をすることにしていた。
 特別展は,やはり一連の流れが必要だと考え,先ず第一に徳島県の大地はどうやって出来たか,これについて県人の正しい理解がなされているだろうかと思い,昭和47年「徳島県の地質の変遷」というテーマ展を開催した。徳島県の地質は,日本列島の歴史であり,徳島県の地質を研究することは日本列島の探究でもあった。何度も行きづまったが,徳島大学の中川衷三教授・岩崎正夫教授・須鎗和巳教授のご指導と地団研の剣山グループ,吉野川グループの方々のご協力をいただき,学術的にも価値高い評価が得られた。
 ついで,昭和48年,「進化展」を開催した。地質変遷の次は,生物及び宇宙などの進化である。生物は,どのような進化をして来たか,をテーマにした。香川大学の板東祐司教授から多数の貴重な資料をお借り出来たことは幸いであった。昭和49年には,昆虫同好会の方々の協力を得て,「徳島県の昆虫展」を開催し,昭和50年には「徳島県の動物展」を開催した。このように,テーマを地質から動物までとする一連の流れとして行った。特に徳島県の立体模型(4m×4m)の製作者岩井清三郎氏にはお礼の言葉も見当たらぬほどである。その後も特別展には欠かせないものとしてたびたび使用させてもらった。
 資料収集にまつわる思い出も多い。県下にある資料,例えば勝浦・那賀郡方面の化石を採集に行き,標本をよく作った。高知県横倉山の古代サンゴなどは平田茂留氏の案内で採集にでかけた。県下各地,植物も含めて,よく採集に行ったが,同行の方々の人生観などよく分かり,教わることが多かった。
 ある時突然,東祖谷山村名頃営林署から電話があり,「『ツキノワグマ』が獲れたが,必要ではないか」とのことであった。私は生命の尊重を考え,動物園へ連絡してはと返事をしたが,再度,電話があって,四国中の動物園では檻がないので断られたとのこと,直ちに刈谷昭氏と公用車で名頃に行った。その後,刈谷昭氏が剥製にした標本が,今,館に展示されている。
 他府県の博物館との資料交換も行い,資料の充実をはかった。本県では比較的産出されることの多いコダイアマモ,トリゴニア,アンモナイトなどは交換の格好の材料であった。
 毎年,夏休みに入るとまず「野外採集と標本の作り方の講習会と自習室」,そして終わり頃には「夏休み採集物の名をつける会」を実施するのが恒例となっていた。暑中にかかわらず毎年大盛況である。少しでも涼しくと氷柱を立てたことが思いだされる。クーラーが完備される以前の話である。
 「シラタマモ」は,天然記念物として貴重なものである。そこで,レプリカを特別に注文して,作成してもらったが,感じがでない。いっそ培養をと思いたち,生育地である出羽島へ何度も行き,池の水の分析やら水温などの調査を行った。大きな水槽を購入し,池から泥を運んで人工培養に成功した。博物館に勤務してこそできた調査研究である。
 色々と思い出は尽きないが,博物館の貴重な体験で学んだ「自然を大切にすること。探究心を持ってお互いに協力すること。」を今後も守っていきたいと思っている。

 


 

博物館の思い出

 

平  岡     健    

 昭和55年4月から博物館に勤務した。30年間の教員生活で学校のことは理解しているが,博物館は初めてなので何の知識もなく,そのうえ館では職員朝会が毎日ないこともあって,全体の動きや職員の様子,指示事項が分からず最初はとまどうことが多かった。しかし,学芸係長さんや学芸員,事務の方に親切にご指導していただき,楽しい充実した毎日を送ることができた。特に3時の休憩時間には,お茶を飲みながら世間話にも花を咲かせ,田舎者の私も幅広い知識を得ることができ,良い人生勉強ともなった。
 私は,5階生物・地学室の担当になったが,蜂や蟻などの昆虫や魚類・動物・化石等について,電話や来館者からの質問が数多くあり,図鑑を調べたり,県職員の吉田正隆氏や県教育研修センターの東明省三先生(現館長)に指導を受け解答したこともあった。
 この年に,伊延敏行氏が寄贈して下さった植物標本を整理し,『収蔵資料目録 自然史部門植物編 第十輯 顕花植物編氈xを発行した。目録作成にあたっては,『牧野植物図鑑』や大井次三郎著の『FLORA OF JAPAN』を何度となく開き,属や学名・和名を調べ,採集地の確認や和名索引をつくった。また,阿部近一先生の指導も受けた。本を出版するということは,ほんとに大変だなあということを痛感した。
 『徳島の天然記念物』展も良き思い出の一つである。この特別展は,昭和55年10月17日から11月16日までの1カ月間実施し,3.779人の入館者があった。この時は,県内にある国指定天然記念物を主とする19点の実物・模型・写真を展示した。準備中,特に印象に強く残っていることがいくつかある。

 昭和57年10月3日(日),日本モンキーセンター学芸部長広瀬鎮先生を講師にお迎えして,「サル・ヒトに出会う」という演題で講演会を開催したことも思い出の一つである。講演会は,スライドを使い,“サルたちのみごとな一生”など話し方がとても上手で,面白かったと好評であった。私の同窓生も多数聴講してくれ,128名がサルに出会い感銘を深くし,良い講演会であった。
 毎年夏休みの終わり頃に開催している「夏休み採集物に名をつける会」では,いろいろな準備をしながら,私自身も標本の作り方が学べて嬉しく思っている。
 こんなこともあった。ある日,「数年前に,化石の同定を依頼したが資料を返してくれない。」との話があった。金属製の引き出しで開かないものがあり,この中にあるのではと苦労してやっと鍵を開けて,化石を返却した。
 また,展示室の北側が暗かったので,私が蛍光燈を増設して明るくしたり,5階ホールの蛍光燈が数カ所点燈していなかったので,展示用のつい立て5枚を組み合わせ,その上に板を敷いて足場にし,蛍光燈のチョークとコンデンサーを取り替えて点燈させ,皆さんに喜んでいただいたこともあった。
 それから,展示資料の説明書のためレタリングを練習し,まずいながらも説明文も書けるようになり,良い技術が身についたと思っている。
 わずか3年間であったが,館の皆様の温かいご指導のお陰で,大変多くの良き思い出を残すことができ感謝している。
 博物館が文化の森へ移転し,益々発展することと館職員の皆様のご多幸を祈念している。

 


 

充実の一年  人との出会いのなかで  

 

山  本  安  信    

はじめての仕事 −八幡一郎氏との出会い−

 昭和57年4月1日付で「博物館専門職員・主幹」の辞令をもらったが,その“特命”が新博物館建設の基本構想の企画立案であることはそれまで知らなかった。2か月後の5月27日,館内に「新館建設構想職員協議会」を設けて初会合をもったのが仕事の皮切りみたいなものだったが,博物館知識の未熟さを自覚し,その翌日から年休をとって急拠上京した。いまにして思えばつけ焼き刃的勉強だったが,とにかく真剣ではあった。
 上京中,井の頭線の電車の中で,ふとことばをかけた赤ら顔の老人との出会いは奇遇であった。「最近は各地で博物館とか美術館を建てる計画があるのは結構なことです。が,どうも無理して西洋の名画名品を高価に買い入れる傾向があります。それよりまず日本のもの,それも郷土にゆかりのある絵師や陶工の作品を収集し,展示することが大切です」−ハチマン・タロウと名乗って下車したその老人が,鳥居龍蔵博士の高弟で,考古学の大先達・八幡一郎先生であったことは,帰徳してはじめてわかったことだが,老考古学者のことばは,新博物館の構想を練る上での貴重な助言となった。
 6月に入り,連続の職員協議会がもたれ,中旬には学芸員による新館の平面図案も作成されるまでになった。館職員の意気もあがってきて仕事もはかどった。
 新館構想の概要も,職員間での共通理解はほぼ囲まってきていて,(1)建設位置は,徳島市八万町の文化の森とする。(2)総合博物館とし,その内容は人文系(考古・歴史・民俗・美術)と自然系(動物・植物・地学)とする。(3)郷土徳島に密着した地方博物館とし,「徳島の顔」としての活動を展開する。(4)学習活動・教育活動を重視し,動的で開かれた博物館とする。−などであった。

 

阿波蜂須賀侯御用絵師展 −豊円進氏らとの出会い−

 阿波蜂須賀侯の御用絵師の秀れた作品を紹介して,その価値を見直したいとのねらいをもった特別展を開くことになった。
 その作品の所在や知識を得るために,知人の美術商を訪ねて意見を交わしたことがある。「徳島にだって,後世に残る芸術家が多数います。立派な収集家もいます。郷土に根ざした作品にスポットをあてた展覧会をどしどしやってほしいのです」と熱っぽく語り,特別展にも期待を寄せた。阿波の陶工・庸八の研究・収集家として知られる豊田進氏とのめぐり会いも,それが機縁になった。
 8月も終わりかけたころ,豊田氏の招待で3人が小料理屋で懇談したことがあるが,その時の両人の会話は,まことに味のあるシブいものだった。
「作品は銘にふらふらしていてはダメ。お茶ならお茶を,どちらの茶碗で飲みたいか,こちらの方でぜひに,と思えば,それがいい茶碗。にせものにつかまされることはない。いいものは,とにかく素人でもわかるもの」。
「美術商は,買うても売らなきゃならん。売る時は自分の娘を手離す気持ちがする。収集家が羨ましい。美術商は寂しいときがある」。
 階段をあがる時は足が痛くても,博物館や美術館に一歩入っていくと,足がピンと伸びてくること,収集している庸八の作品は,なんとしても他県にゆずりたくない,ぜひ徳島に残したい,などの話も,美術品への並々ならぬ愛着がかい聞見られ,わが身の非力と情熱の乏しさにムチ打たれる思いがしたものだった。
 9月の未に,御用絵師の作品を借用に大阪八尾市,奈良生駒市を,職員と共に行脚したことも忘れられない。本来なら徳島にあるべき蜂須賀家ゆかりの作品が,これはど散逸しているのかと,改めて豊田氏のことばの重さを感じとったことであった。「御用絵師展」は10月15日から3週間,多くの人たちの協力で,特別展にふさわしく開催され,好評を博した。

 

新館建設構想の推進 −館職員の積極的な対応−

 特別展と並行して,新館建設のための立案作業は着々とすすめられていた。10月21日には,新館の基本的内容について館としての最終合意がなされ,月末にはそれをまとめた「新博物館建設の基本的考え方」が,県教委事務局案として正式に決定された。
 それを受けて,審議機関として新しく発足させる「基本構想検討委員会」のメンバーの人選にかかる一方,知事部局との調整のための「建設連絡会」もスタートさせた。実務者レベルでの連絡調整を図ることがそのねらいで,11月5日には第1回会議が開かれるというスピードぶりであった。
 館のスタッフは総勢10人ほどだったし,それぞれが日常的な館業務を担当するなかでの新館構想推進の業務は,必ずしも容易とはいえなかった。が,職員はよくまとまり,それっという時には,全員が心を一にして協力し合ったし,学芸員の専門的知識と経験をフルに生かした積極的な対応もさすがであった。新館構想のスムーズな推進も,こうした館職員あってのことである。
 明けて58年1月28日,県内外12名の検討委員会委員の最終原案がまとまった。少時の空白はあったものの,2月16日には知事決裁も得られ,ぎりぎり年度内には基本構想検討委員会が開かれる見通しが立ち,ほっとしたことをおもいだす。

 

企画展と構想検討委の開催 −小坂奇石氏との出会い一

 本県の生んだ書家・小坂奇石氏の作品を展示する企画展を開くことが決まり,その準備がすすめられていた。
 資料の借入れ依頼もあり,2月末に大阪にある氏のご自宅を訪問した。氏とはじめての出会いであった。書を語るすべもなく、庭のしつらえや樹木などに興をおぼえ,そのことを話題にした。庭木一本にも愛着を寄せる氏の心が伝わってきたものだ。
 「小坂奇石館蔵品展」は3月11日,予定どおり開幕され,氏も初日に来徳し,会場に顔を見せられた。夕刻からの懇親の会では,庭の話にまた花が咲いた。
「庭の木一本一本を見て手入れしてもダメです。全体の雰囲気をきちんとつかんで,しかもそれぞれの庭木が生きるようにしなくては−。書も同じです」
「春に花が咲いても,それが冬にどれほど苦しんできたか,その奥を見なければ,ほんとうの良さはわからない。作品の評価も同様です」と。『黙語子』・小坂先生の生きた哲学がかい間見られた。原安三郎氏のすぐれた遺品をぜひ徳島の美術館に入れたいとも力説されていたが,郷土の偉人やゆかりの深い芸術品を大切にする姿勢は,その道を極めた人には共通であるようだ。
 57年度もおし迫った3月22日,待望の第1回「新博物館基本構想検討委員会」が開催された。建設センター「菊の間」だった。新しい博物館建設の船出ともいえるこの日は,私にとって“特命”の終結の日でもあった。
 文化の森はいま,博物館をはじめ,美術館,図書館など,徳島の文化の殿堂として着々と建設がすすめられている。それぞれの館が独自性を発揮することはもちろん大切だが,館相互の調和を図り,総合的な相乗効果をどのように高めていくかも,大事な課題として残されている。
 多くの人たちとの出会いのなかで,充実した一年は過ぎた。一期一会ともいうべき人たちとのおもいは忘れがたい。3月のいつだったか出張の帰途,京都大原の三千院と寂光院をたずねたが思いもかけず冷たく,白い風花が舞っていたのも脳裡にいまもある。


徳島県博物館30年史もくじ