3 博物館運営協力者の回顧文

 

徳島県博物館と私

 

阿  部  近  一    

 徳鳥県博物館は,昭和34年12月開館したが,私がこの博物館とかかわりをもつたのは,昭和35年8月,博物館が「採集物に名をつける会」を開いてからである。以来29年間に延ベ45回,これに参加した。
 近年は,小・中学校の夏季休暇の終わりに,各都市のいろいろな所で,植物や昆虫の標本鑑定会が催されているが,博物館がこの行事を始めた当時は,県下でただ一カ所しかなかった。したがって,この会を待ち受けていたように,子供達が博物館に押しかけ,植物部門だけでも1日に百何十名かが集まった。勿論毎日3,4名がその鑑定に当たったが,昼食時を除いて,全く一休みもできない状態であった。相手が小・中学生の採集品であるだけに,名をつけることに苦労はないようであるが,中には中部高山や他府県の採集品を持ち込む者もあり,軽率な鑑定で,誤った名前を教えては取り返しのつかぬことにもなりかねないので,いつも慎重を期した。わけても,小学1・2年生の「葉っぱ集め」では,僅か1枚の葉で,その木や草に名をつける訳で,可成り植物は見てきたものの,あれかこれか,とよく迷わされるとともに,常に自分の観察の足りなさを痛感し,却っていろいろ教えられる所があった。
 昭和43年には,博物館が小・中学生を対象に,上勝町灌頂滝で植物採集会を開いた。以来小松島市恩山寺,徳島市中津峰,美馬町竜王山など4カ所でこの採集会が開かれ,その採集指導に当たった。その後徳島市バスや徳島バスなどが,親子採集会とか,自然観察会の名のもとにそれが計画され,今日では,各地の少年自然の家や青少年の森などでも,そうした催しが行われつつある。
 また,昭和46年には,「植物採集と標本の作り方」講習会が企画されたが,以来これも15回その指導に当たらせてもらった。
 戦後,県内の動植物や地質等の調査研究が重要視されたが,昭和35年県教育会と博物同行会が共催して,第1回奥地調査(木頭村石立山・千本谷の原生林中心)を行ったのを受けて,博物館においても,第2回奥地調査(東祖谷山村矢筈山・三嶺原生林中心)からその共催に加わり,以来7回に亘って県内各地自然部門の綜合学術調査を行った。私は毎回団長としてその調査に当たるとともに,調査資料を整理して博物館で特別資料展示会を開き,またその調査報告書を公にした。
 東祖谷山村の調査では,三加茂町役場前で結団式を行い,テントや炊事用具,食糧品等をトラックで東祖谷山村深渕まで運んだが,さらに落合峠登山口のキャンプ地までは団員がこれをかついで運んだ。団員は,地質3名,動物6名,植物6名,観光,写真と記録報道(読売徳島支局)3名,地元案内者3名を加えて,総勢は21名であった。第1,2日は落合峠周辺と矢筈山原生林調査,3日日は,再びキャンプ用具や炊事用具,採集標本等をかついでの落合峠越が大へんであった。4日目は三嶺の頂上(当時は今日のような登山道や避難小屋はなかった)に立って,全員が万歳を唱えた痛快さはまた格別であった。所がその晩,案内者の母親が団長である私の所にやってきて「明日の不入谷膳棚調査を止めてくれ」という陳情があった。それは「昔から不入谷に行くと帰る人が滅多にない」ということであった。しかし,案内者は自信たっぶり,猟銃を肩にして案内,遂に膳棚の大岩壁上で,これまた大歓声を挙げることができた。
 読売徳島支局の川内満治氏は,この調査に参加して調査の苦労ぶりを痛感,翌年の第3回県南調査からは,本社と連絡をとり,善通寺陸上自衛隊に申請して,ジープ4台,キャリヤー1台と隊員5名の応援を求め,その輸送を引き受けてもらうことになった。以来県北,神山,那賀奥,剣山北面,剣山南と前後6回に亘って,陸上自衛隊の厄介になることになり,調査の能率が一段と高まったことは,誠にうれしいことであった。
 また,昭和40年の第6回那賀奥調査では,5日目の8月5日に台風15号が来襲,調査に困難を来した。また,その翌日の夕方,隊員のジープが他の自動車と対向中,道路の路肩がゆるんでいたため,道路脇に転落する事故があった。幸い人身に傷害がなく,ジープにも大きな損傷のなかったことは何よりであった。しかし,その引揚げ後のいろいろな後始末については,私(団長)として若干苦労がなかった訳ではない。
 県南に産するヤッコソウや那賀川筋のタヌキノショクダイは,世界的な珍稀植物で,しかもその北限に当たるため何れも天然記念物に指定せられている。したがって,その各種資料は,博物館にとっても,欠くことのできない重要な展示物となる。筆者は,その標本は勿論,写真等各種資料を全部提供したが,「タヌキノショクダイ発見万々歳」などと書いた牧野富太郎博士直筆の年賀状(2回にわたっていただいた,2枚中の1枚)が,いつしか展示場に見られなくなったので,返還要求をした所,展示替後紛失という事で,今日に至るも返していただけないことは遺憾である。今日迄の博物館は,専門の学芸員がいないので,展示物の大切さがわからず,止むを得ない事であったのかも知れぬ。
 昭和53年度私は,「徳島県陸・淡水産貝類の分類と分布」という標題のもとに,博物館の学術奨励金の交付を受け,翌昭和54年度の徳島県博物館紀要第11集に「徳島県陸産並びに淡水産貝類の分類と分布について−16新種の記載」を黒田徳米(日本貝類学会名誉会長・理学博士),阿部近一(日本貝類学会評議員)の2人で発表する機会を得たことを有難く思っている。これによって,私は,昭和56年6月「徳島県陸産ならびに淡水産貝類誌」の著書を発行するに至ったが,全く博物館の厚意によるものと,深い感謝を禁じ得ない。
 なおこの外,昭和47年発行の「徳島県の植物」植物編第1集や,昭和50年発行の「徳島県の植物シダ篇」同第5集への写真提供や,特に昭和62年3月発行の「植物標本目録野花植物編・シダ植物編」については,想像以上に苦心と労力の消費があったが,その編集方針や発行に至る苦心の内容については,稿の都合で省略させていただきたい。

(博物館資料収集展示委員会委員)


 

博物館とのささやかなおつき合い

 

生  田  信  皓    

 県博物館とのお付き合いは,もう随分長いことになる。私が徳島大学工業短期大学部(夜間3年制)で学生の面倒を見るようになった頃だから,昭和42,3年頃からであったろうか,科学機器展示室で展示品の説明,保守あるいは展覧会の準備などの仕事をするアルバイト学生の紹介を依頼された。それ以来,半年あるいは1年間のアルバイトの場を毎年2名の学生に与えて下さったその橋渡しの約を,ずっと続けてきたことになる。
 きまった勤務時間でアルバイトを終えて通学することができ,またあまり疲れることもない結構な環境で,その上他に遜色のないアルバイト料をいただけるとあって学生の間での人気は高かった。毎年3月頃になるとずっとお世話をして下さった博物館の吉岡先生から「また来年もよろしくお願いします」という依頼が来る。依頼を受けると,定職を持っていない学生の中から適当と思われる人を選んで声をかけ,学生がお願いしますと言えば推薦するという手続きが,ほぼ毎年の年中行事となって続いてきた。相応しい学生を推薦できた場合には,大変よくやってくれて助かるという讃辞が返ってくるが,適当な学生が居なかった場合には,欠勤が多い,交通事故を起こして,と苦情が聞えてくる。
 送る側としても気の休まらないことではあったが,とにかくこのようなお付き合いが20数年にもわたって続いてきたことには,やはりそれなりの理由があったように思われる。一つは仕事の性質上,多少とも電気の知識のある電気工学科・電子工学科の学生が適当である,という認識が続いてきたことによるように思われる。一般からも募集してみたが,やはり先生またお願いします,というようなこともあったように記憶している。もう一つは,博物館側の窓口になって下さった吉岡先生が,ずっと学生を暖かく見守っていて下さったからである思っている。受け入れた学生の挙動を常によく見守り,叱りまた指導して下さるという信頼感から,安心して学生を送りだして来た訳で,こういう信頼関係がなければこのような長いお付き合いは成立しなかったであろう。残念ながら,推薦した学生の勤め振りを見に行ったことは,わずかに1,2度だけで全く不十分という他ないが,学生の行動については率直に連絡下さる吉岡先生を全面的に信頼していたことによるものと,お許しをいただきたい次第である。
 20年にもなるので,あざやかに記憶に残っている学生は別として,お世話になった学生全部の顔を思い出すことはできず,心ならずもまた吉岡先生に,お世話になった学生のリストをいただけませんかとお願いしたら,快く勤務期間の入った詳細な名簿を用意して下さって恐縮した。これを眺めてみると,その当時の学生達の顔が浮かんでくる。私が関係する以前の学生は,多分牛田富之先生(現在徳島大学名誉教授)がお世話下さったものと思われる。それらの人々を加えて55人もの学生の名前が残っていることは,博物館の裏面史の一部を形成しているようにも思える。残念ながら,私は博物館の表向きの事業に寄与することはなかったが,せめて裏方として仕事を手伝った当時の学生達の現状を私の知る限り記して,お世話になった博物館の多くの方々への感謝のしるしとしたい。
 昭和41年までの人達には直接関係していなかったので,ここでは省略させてもらって,42年以降では,田村宏文君(42年)と原田寛信君(44年前半)は現在工学部の技術職員として勤務しており,工内良一君(43年後半)は医学部総合研究室に,美馬正幸君(43年)は富士宮市の富士カプセルMに勤務している。大野徹雄君(44年後半)は高知空港で航空管制官をしている。水口雅文君(45年)は香川県志度町のお寺のモダン住職で傍ら幼稚園を経営しており,同期の藤重昭仁君は松下寿電子工業Mでビデオレコーダの設計技術者として世界を駆け巡っている。46年の矢本賢君(工学部卒)は四国電力M電力課で,宮崎仁君は東洋紙業Mで活躍している。47年の加藤修君は山菱電機M,久岡悟君はMトクジム,48年の左海勇君はNTT丹生谷営業所,吉川公佳君は奥野電機でそれぞれ頑張っている。49年の玉田龍広君は残念ながら三浦工業Mを退社後連絡が絶えているが,裕田泰弘君は名古屋のM矢作電設で頑張っている。50年の隔山(旧岩朝)峰雄君は電子工学科卒業後土木工学も勉強して,エコー建設コンサルタントMで道路・橋梁の設計をしている。51年の谷崎秀樹君(工学部卒)はM日本電子機器で活躍しており,宮兼正二君は井原電機商会へずっと勤めている。52年の大越俊治君は四国管区警察局高知県通信部,安崎良次君は豊中のM湯山製作所で元気に働いている。53年の湯之上道雄君(機械工学科卒)は鹿児島県の中学校で技術の先生をしている。和田茂君(54年)近畿管区警察局で通信関係の仕事に携わっている。樋口精一君(57年)は医学部の手術部人工心肺の技術職員として張り切っており,東川君(57年)も印刷機械メーカーのM写研で頑張っている。松下耕造君(58年前半)はMティアックで開発担当の技術者としてアクティブに活躍しており,北江敏明君は国府で電気工事店を自営,新田広重君(59年)は日新製鋼M和歌山製鋼所で圧延機制御用計算機の仕事に打ち込んでいる。十川孝志君は現在工学部4年次で卒業研究に従事中,谷口康夫君(60年)は今春工学部を卒業して日亜化学勤務,田中宏典君(61年当初)も工学部を出て徳島工業高校で先生の卵となっており,引き継いだ工藤琢也君は現在工学部4年次在学中である。62年にお世話になった住友正治君・63年の柴田岩雄君と多田納尚之君は現在短大3年次在学中,多田納君は来春の工学部編入学を約束されて勉学に励んでいる。
 以上のように,博物館で半年あるいは1年を過ごさせていただいた面々は,それぞれ努力して所を得,また得ようとして頑張っている。あらためて温かいアルバイトの場を与えて下さった博物館,いろいろご配慮をいただいた歴代館長,吉岡先生,またお世話になった多くの方々に深く感謝してつたない筆をおきたい。

(科学・産業室運営協力者)


 

歴史博物館の観点より

 

沖  野  舜  二    

 私は,昭和36年徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会が創設された時,その委員の一人として就任して以来,昭和59年解散されるまで,歴史関係の運用に当たってきた関係からして,新しい博物館建設運用について感想の一端を申し述べたい。
 その第一は,徳島県の歴史を,陳列品を通して如実に理解できるような,すなわち,前人の生活に即した史料の生きた陳列に新しい工夫をこらされたい。例えば,阿波の歴史のはなばなしさは,中世の細川・三好・松永ら諸豪族の活動,また近世以来明治期にいたる阿波藍商人の全国的活動,さらに明治期以来の阿波漁民の北九州を中心とする飛躍的活動等々,見逃すことのできない歴史であるが,その活動の跡を具体的に,そして組織的に陳列品を通して体得できるような,史料の蒐集,陳列の工夫ができないものか。私たちが博物館を訪れるのは,陳列品を通して,わが郷土人先輩の活躍や生活の跡を見て,自己の将来の参考に資するのであって,それに添うよう感激する場面の陳列がなければ意味ないと思うのである。
 その第二は,将来の研究に耐えるような史料の蒐集と陳列に全力を注がれたいと思う。今までの本県博物館でも,現職の学校教員に対して毎年研究費を交付し,史料の蒐集と研究の成就を援助してきたのであって,その一部は徳島県博物館建設記念学術奨励金運用委員会研究記録として発刊されている。文化の森における新しい博物館でも,こうした方面への新しい事業を考えられたいと思う。でなければ十年一日の如き陳列に堕し易い。博物館は,単なる陳列館ではない。博物館は,ただ漠然と見るにとどまらず,何かを考え,それを表現するための資料を提供するための機関である。これは,一部の学者・研究者にとどまらず,ある一つのことに興味を持つ人であれば,誰でもできることであるから,私は,そうした素人の研究業績に強い興味関心を持つのである。
 以上は,博物館に関心を持つ人であれば,誰でも考える平凡なことに過ぎないが,言うは易く行うは難しい。博物館に深い造詣と先達としての自信を持つ館員諸君の参考にでもと敢て一言を。暴言多謝。

(学術奨励基金運用委員会委員)


 

徳島県博物館と私

 

喜  馬  邦  雄    

博物館創設の頃の追想

 終戦から,はや半世紀が訪れようとしている。豊かさにひたった現今,当時を知る人も次第に少なくなった。終戦の頃,人々は敗戦の要因を竹槍と原子爆弾の差だと評し,日本の科学力の貧困を嘆いた。私も科学教育の振興こそ祖国復興の鍵だと意欲を燃やした。戦後十年有余混乱の世相から復興の兆しが出始めた頃,本県にも博物館建設の計画が進む。だが私の博物館に対するイメージは暗く,後ろ向きの文化の発掘〜昔から今までの色々な珍しいモノ・学術研究の資料となるモノを集め,これを展示し人々に見せる所ぐらいに考えていた。
 しかし新設の博物館は,前向きの近代科学が学べる科学博物館的な色彩を強く出すとか。だが,当時の県財政は乏しくその建設資金にも事欠き,平面に投映出来るプラネタリウム(星座投影機以下プラネと略す)を購入して,これを県下の学校で巡回投影し,その資金の募集から始めた。当時私は20cmの反射望遠鏡(四国最大)を自作し,これをリヤカーに積み県下各地に持ち運び観測会(ボランティア)を催していた。明日の食事にも事欠く戦後の虚脱状態の暗い世相の中に“果てしなく広がる宇宙への夢・未来への希望を”と唯その一念に尽きるささやかな願いを込めて。プラネの巡回は私の願望と期せずして一致し,すばらしい発想だと敬意を表し,共感を深めた。博物館の建設の第一歩はこのプラネの巡回から始まり,県民の協力と大いなる期待の結晶により生まれたといえよう。
 戦後の我が国の教育の方向はアメリカの教育思潮の影響が極めて強く,宇宙の中にかけがえのない地球を考える天文学が義務教育の段階から導入され,小学校から太陽・月・星座と教材に入る。私が旧制中学の2年の頃,英語の先生がstarの単語が出たとき“星には恒星と惑星の二種類あるが,その違いを知っているか?”と理科的質問をされたが,私の外に誰一人答えられなかった。それも無理からぬことで,これまで教科書の片隅にも天文学に関する記述はなかった。(註)昭和生まれの方は国定教科書が改訂される。

 

移動天文教室

 科学室を持った博物館が開館して間もない昭和38年,館から移動天文教室の構想を知らされ,その講師の依嘱があり快諾した。何しろ集団での観察の不便な自作の望遠鏡をリヤカーで運んでの観測会が,15cm反射赤道儀(自動)をセドリックで運んでくれる。天と地の違いである。当時館長は垣本光男氏で,先生とは私設の観測会を開催した頃屡々応援を戴いた天文研究の大先輩である。担当職員として吉岡良知氏が当たられる。垣本先生は間もなく高校長に転出されるが永年巡回指導に当たられる。吉岡先生は,会の企画・運営・渉外全般を統轄され,現在に至るまで陰の推進力として尽力され,この催しと共に歩まれる。館の方も常に数人が同行され,機械操作等に当たられる。ここに歴代館長を始め,永年労苦を共にされた天羽利夫氏,山川浩実氏,中林英雄氏に深甚の謝意を表する。
 天文教室の概要は,機材を車に満載し,夕刻までに会場に出向き,プラネ,映写機,望遠鏡などをすばやくセット,薄暮の頃からプラネ投影が始まる。大自然の情景に併せ,夕日が西山に沈み,一番星が輝き出す。やがて当日の星座そっくりの星々がスクリーンに投影され,神秘なメロディに乗せて星座の見方の解説を中心に,太古のロマンを秘めた神話の世界へと誘う。プラネは,自然界で半日もかかって展開する星座の動きをわずか数十分でやってのける。神秘な宇宙への幻想に陶酔している間に薄明を迎え,ふと我に返る。この頃には,会場を覆う全天に実物の星座が展開している。先程プラネで見た星座解説とオーバーラップさせながら,現実の星座の見方・おぼえ方についての星座指導,これからが私の担当だ。望遠鏡による月面や惑星の観測もこれと並行して行われる。望遠鏡による観察は,1人30秒として100人いれば50分かかる。待つ時間が観察時間の何十倍と長い。両者の組み合わせにより時間の有効利用が図られる。星座の観察が終わる頃,宇宙に関する参会者からの質問を受ける。UFO・宇宙人パルサー・ブラックホールと宇宙への謎と夢は果てしなく広がる。
(註)これは晴天時のモデルコースで、プラネ投影中に雷雨に見舞われたり、星が全く見られないことも屡々おきる。この催しの最大のネックは天候に左右されることで,開催予定日を複数設定していても流れることも屡々発生した。

 

時代の変遷と共に

 昭和32年スプートニクが宇宙へ,このニュースはスプートニクショックとして,瞬時に全世界を震駭させ,連日新聞各紙の一面トップは宇宙関連記事。まさに宇宙時代の開幕を告げた。
 昭和44年7月20日,アポロ11号が人類を月に送り届けた。この日,那賀郡の中学校理科教育研究会の招きで平谷中学校を会場に天文教室が開かれていた。月面を食い入るように観察していたA君が,突然アポロが見えると叫ぶ。後ろにいたB君が兎は見えないかと冗句交じえ,いささか興奮気味。閉会後宿舎で休もうとした時,新聞社からアポロ成功の所感をと。翌日は三好郡の池田小学へと200H近くの旅,思えばこのアポロから今年は20周年記念の年である。
 この頃の会場は中学校・小学校が多く,郡市単位で先生方が自主研修という形で中心校へ集まり、生徒と共に学ぶ姿も多く,熱心にメモをしたり,録音をとったり意欲的な先生方の姿が今なお私の脳裏から消えない。
 館でも宇宙ブームに湧く県民へのサービスにと,吉岡先生の企画で科学室に宇宙コーナーを特設,大型天球儀モデル等を設置した。ヒューストンから直送された資料でアポロ11号写真展を開催した。私も,望遠鏡式天体観察装置・月の運行モデル等を創作展示し県民へ宇宙の夢を誘う。又,宇宙からの斬新な映像をスライドに転写し天文教室へ導入,行事の活性化に努めた。
 県都に位置する博物館が,日頃利用に不便な辺地まで出張し,館外活動として時代の流れを先取りした,移動天文教室の意義は極めて大きいと評したい。
 眉山山麓に建てられた県博物館はプラネの巡回により創設され,移動天文教室へと,まさに博物館その物の流れの中に活動を展開した。今,文化の森に新しい博物館が生まれようとしているが,その姿は本来の博物館へと変わりそう。
 天文教室開設以来四半世紀を越すこ交誼をいただいた博物館,プラネの巡回を通し,子らの胸に明るい希望と明日への夢を約して送られた科学館が今消えようとしている。これは去り行く物に対する郷愁ではなく,博物館の流れを回顧するとき,博物館が専門化するなら子供科学館の建設を当局へ訴えたい。それは,本県が文化の後進性から脱却する礎石ともなろう。

(科学室運営協力者)


 

博物館創立当時の世相から今日と将来を見て

 

木  村  晴  夫    

 終戦をさかいに日本の教育や世相は一大転換をしたといえる。今昔の感とはこのようなことをいうのだろう。以下の文は私の目から見た私的な見解である。戦前の東洋思想を基礎とした国家主義(しまいには軍国主義)的な教育が,敗戦をさかいに打破られ,アメリカをお手本とする実用主義,自由主義的な教育が行われ,戦後40年の間に自由主義・民主主義教育の殿堂が築き上げられた。世界一の経済大国となり,米英などを抜く金持ちになったとは夢のようである。これひとえに教育のたまものであり,日本人の勤勉努力の結晶といっても過言でなかろう。しかしものには一長一短があり,禍福はあざなう縄の如しという。戦後の教育や世相は爛熟期を迎えたと考えられる点が多分にあり,教育界も経済面にも一大転換期がきたといえるのではないでしょうか。この功罪や成果をここでのべるつもりはないし,スペースもないが,博物館もこのような背景の中に生長発展してきたことはまちがいもない事実だと思う。
 創立の昭和34年当時を概観するため,当時の私の日記をよんでみた。今の天皇が皇太子であったおり美智子さんとご結婚なさった年であった。私は,その前の年(昭和33年4月),県立図書館整理課長から,板野郡柿原中学校長に転出していた。当時は「勤評」が行われ,校長は職員の,地教委は校長の勤務評定をし,教育界のとげとげしい空気ができて大問題になっていた。
 また終戦直後に社会党や共産党などが日本教職員組合を指導結成した日本教職員組合(日教組)ができ,アメリカなどの自由民主主義思想からなる民主教育と激しく対立した。昭和33年当時,校長などを中心とした高齢者グループと若い教員を中心としたグループにわかれ,老年組は日教組を脱退し,徳教団を結成,若ものは日教組の牙城を守り,徳島県は一大変革をしたまま現在に至る。
 一方,経済界ははなばなしい進展をした。敗戦直後の廃墟の中から立上った人々は,朝鮮動乱で息をつぎ,石油ショックをのりこえ,池田首相の「貧乏人は麦を喰え」から歴代首相の列島改造・所得倍増をなしとげ,神武景気・岩戸景気ととんとん拍子に発展した。この経済力にささえられ,文化施設は進展した。
 まず一番に復興されたのが光慶図書館(徳島県立図書館)であった。戦後のバラック造りが,昭和25年昭和天皇が国体においでになる直前火災で焼けおちた。当時の蒲池館長の必死の努力や県当局の協力のおかげで,鉄筋コンクリートの日本有数のモデル図書館が出来上がった。その建設にふさわしい内容の充実した図書館活動・公民館活動・社会活動・生涯教育などが行われた。県文化活動はめざましい発展をとげ,県文化水準のレベルアップに貢献した。
 この図書館と並行して,県立博物館・科学会館・教育研修センターなど各種文化施設の設立を陳情し要望した。他府県でもきそって各種文化施設が作られ,国は国庫補助を地方に配当した。四国の他の県では続々と文化施設が出来上がるのに,本県ではなかなかしてもらえない。現場の教職員たちは是非ともというので,小・中・高の児童生徒や教職員から零細な寄付をつのり,県予算のさそい水とした。この熱意がやっとみのり,天神下,ロープェイ横に現在の博物館が新築されたのである。ところが出来上がった博物館は二戸一の相ずまいである。1・2階のメイン部分は商工観光の物産陳列場であり,3階以上が博物館というあわれさで,この時ほど貧乏県の悲哀さを感じたことはなく,新築博物館をながめて唖然となったものである。しかし県財政部局はあれでせいいっぱいであったらしい。
 待望の初代館長は,建設の功労者仁科義之県教育長が兼任した。県教育長は激務であり,館長としてその職務に専念し成果を上げられるとは思えない。これも貧乏県のせつないやりくりだろう。2年半ほどして仁科館長は退職,かわって垣本光男館長となり専任館長とし,また専門職館長有資格者として職についたが1年足らずで高校長として転出した。その後任館長は日出武敏氏で,専任館長,専門職有資格者として5年間も博物館のレベルアップに尽力された。このあとは有資格で専任館長もあったが,高校校長人事の一環として短期的なたらいまわし人事と見られるものもあり,県行政職の館長もあり,兼任の館長や臨時の館長も配置され,私たちが要望する理想的な館長人事とはいい難い。とくに館長在職年数は少なくても5年〜10年が望ましく,専門職館長としては腰をすえた勤務年限であってほしい。昭和34年12月から現在まで約30年の間に,12人の館長が就任している。平均勤務年数は2年半ほどであり,これでは立派な成果はあげ難い(ちなみに蒲池図書館長の勤務年数は定年退職まで13年)。
 今回本県は文化の森に博物館・図書館・美術館などをはりつけ,膨大な予算をもり,日本にほこる文化ゾーンを建設したことは,本県文化向上発展のためまことによろこびにたえない。ただ惜しむらくは交通不便の地にあり,その利用観覧の上に少なからざる障害がある。これも貧乏県のなせるわざとあきらめざるる得ないがちょっと残念である。以上県人事や行政の重要事項や苦労を知りながら,さし出がましいことを申し上げ,甚だ僭越のことと思うがあえて申し上げ,改善の一資料ともなれば幸甚である。
 私は博物館の創立当初から生まれ育ってきた一人として,また県民の一人として館の向上発展や県文化の振興を要望している。私の専攻分野が植物であった関係上博物館とは深いつながりをもってきた。開館建設をはじめとして,その運営,資料収集,毎年行われた名をつける会,館の調査研究などの行事に貢献努力してきたつもりである。反面館からは無料入場の優待券をいただき,厚い待遇を受け感謝している。
 このたび博物館は,狭隘な二個一的存在から大きく飛躍し,県文化発展の基礎をきずいたことはよろこびに堪えない。この上は唯一の短所である交通の不便を解消し,南環状線の一日も早い完成と,できうれば市バスか専用バスの導入をはかり,貴重な施設設備の有効利用が図られるよう希望したい。
 本県は,かつて阿波公方と称する足利将軍の子孫が那賀郡平島に居住し,また藩政時代阿波の藍大尽は日本を風靡したこともあり,日本屈指の県勢をもったこともある。今は県勢地におち,文化さいはての地とか,文化果つる所といわれることもあって残念なことである。しかし瀬戸大橋,大鳴門橋は完成し近く明石大橋が出来上がれば,近畿文化圏の一員として,経済・文化ともに発展の夢を見ることもできよう。県勢百年の大計として,この博物館や文化の森が生成発展して本県文化振興発展の礎となるよう切望して止まない。

(生物室運営協力者)


 

研究団体と博物館の役割

 

小  林  勝  美    

徳島考古学研究グループと博物館

 博物館郷土室が,徳島県内の文化財の基礎的調査と展示資料充実を図ることを目的に,県内の代表的古墳の実測調査や発掘調査を実施したが,この事業推進にあたって徳島考古学研究グループは全面的な協力をした。考古学の調査・研究は専門家のチーム編成が不可欠であり,研究グループ員の献身的協力は,博物館事業推進に大きな役割をはたしたものと自負している。
 具体的事業としては,学術奨励金事業,古墳実測調査事業,学術的発掘調査事業,その他の事業に選別される。

(1)学術奨励金による事業
 昭和45年度,県指定渋野丸山古墳実測調査を手はじめにし,気延山周辺の考古学的研究(分布調査,奥谷古墳,宮谷古墳の実測調査),昭和50年度の三島古墳群の研究へと継続していった。この中で,現在,渋野丸山古墳の保存問題が論じられているが,その争点となっている前方後円墳の範囲について,この時の実測図が基礎的資料となって大いに役立っている。

(2)実測調査による事業
 昭和44年度,天王の森古墳実測調査を最初に,穴不動古墳,矢野の横穴古墳,弁慶の岩屋,観音寺山古墳,段ノ塚穴,北岡東・西古墳,山の神古墳,土成丸山古墳,昭和63年度の渋野丸山古墳,段ノ塚穴再調査へと続き,今日に至っている。但し,昭和63年度の事業は,文化の森建設事務局が新館開設準備のため,模型製作の資料を得ようと実施したものである。

(3)学術的発掘調査の事業
 昭和43年度,石井町農業試験場緊急発掘調査をはじめとして,山川町の忌部山古墳発掘1〜3次調査,神山町の長谷古墳発掘調査,昭和58年〜62年度,阿南市の若杉山遺跡発掘1〜4次調査には,徳島考古学研究グループの総力を結集して協力をし,大きな成果と評価を得ている。

(4)その他の事業
 昭和46年度,シンポジウム「文化財の集い」を実施し,昭和55年度にはシンポジウム「四国の前方後円墳」を開催した。この二つのシンポジウムには,四国四県はもとより,西日本一円より研究者が集い,大きな意義をもたらせたし,文化材保護活動への指針ともなっている。その他,博物館の各々の特別展示に関しては,展示準備などに,各人がそれぞれに縁の下の力を発揮している。

私と博物館

 私は徳島考古学研究グループ代表(昭和47〜62年度,但し49〜53年度は代役)として,会員への連絡,参加体制等の計画及び実施では全面的に協力をおしまなかった。また,個人的にも考古学の調査,研究は,博物館の事業とともに研鑽してきたと言っても過言ではないと思っている。

(1)親子遺跡めぐり(現在,親子歴史教室)
 昭和47年より実施されている普及事業の中で,第2回の遺跡めぐりから何度か講師を担当している。小学6年生とその親たちをバス2台で県内の代表的な古墳・遺跡・寺院跡等を見学する案内役である。事業の第1回・2回に参加した小学生の中には,現在は考古学専門家として立派に成長している人もいれば,現に私が奉職している城東高校3学年に在学している生徒もいて,この種の事業への関心の高さを痛感するとともに,新館での継続を強く願う次第である。

(2)夏休み歴史相談室
 昭和59年度,夏休みに小・中学生を対象に歴史相談室が開かれ,考古学分野の講師を担当した。この事業は,児童・生徒の夏休み中の自由研究の課題の手助けである。しかし,参加した児童・生徒の中には考古学への関心が強く,遺物を採集したり,親子で遺跡探訪をしている子供もいる。また,この歴史教室に参加する生徒と対話していると,その学校に奉職されている先生が,地域史に関心があり,自ら調査・研究をしている先生がいる事に気づき,「教育は人なり」の言葉とともに,日常生活の中で,児童・生徒のよき手本となっていることがよく理解できたのある。

新館・博物館への要望

(1)現在の博物館の展示には,徳島県通史を理解したり,原始・古代史を構造的に把握するには,あまりにも展示品目が少ない。今後は地域の研究機関の中心になって,調査研究を企画し,実施するとともに,若い研究学徒の養成にも力を傾注させていただくことを願望している。

(2)博物館の性格上,保存科学の施設の充実である。現在,急ピッチで進行している四国縦貫道に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査は,徳島県の埋蔵文化財の宝庫の地域である。この緊急調査よりの出土品への保存科学の対応策は不可欠の問題であり,そのためにも施設機関の充実と人員の配置を強く要望する次第である。

(郷土室運営協力者)


 

博美展に思うこと

 

清  水     博    

 寒い冬が去って,暖かい風の匂いが春の到来をつげることを知るようになると博美展が必ず思い出されるのである。
 昭和35年以降毎年4月から6月の間に,博物館を会場として博物館と県美術家協会の共催により開催してきた博美展も,博物館が文化の森へ新館を建設して,移転するための準備をすすめるため手狭となり,第29回(昭和63年度)展をもって閉じることになった。
 文化の森には新しい美術館ができるので,博物館の性格も美術に関しては,江戸時代までを取扱うことになり,事実上,博美展は別のかたちで行われるのをまつ以外に方法はなくなったのである。
 美術年報(1989)の中でも「今回展は現在の博物館での展覧会は最後の開催となった。……長い年月,春の県展の性格のあるこの博美展の存続を祈りたい」(荻野日本画部会長),「春の県展として親しまれ,又新人の作家の登龍門として期待をあつめてきた博美展が第29回展をもって,博物館主催の開催は最後となった。……新しい形で再開されることを祈念してやまない」(佐野洋画部会長)と述べられている。
 思えば,第1回(昭和35年度)展が開催された当時は,戦後10数年はたっていたとはいえ,今から考えると生活はまだまだ豊かではなかった。文化には程遠い日常生活であったと言っても過言ではない。一方,戦争体験からの反省にたって,平和と文化を大切にしていかなくてはならない気運もでてきていた。
 しかし,当時は美術館は本県にはなかったし,他に展覧会を行う会場も少なかったので,何とかよい創作作品を鑑賞できるようにということで,博物館が開館した記念として,翌年の昭和35年の4月に博美展が始められた。
 博美展の歴史をたぐってみると,最初は県内の美術家の優れた作品を県民に理解してもらい,県内の美術振興に役立てようと100点前後の作品を6日間展示し鑑賞に供した。こうした県内の代表作家展としての開催は第4回展まで続けられた。
 第5回(昭和39年度)展からは,もっと県民の参加をということで公募制をとりいれて2期制(各期5日間)を実施し,部門も日本画、洋画,写真,彫塑,美術工芸,書道として,県展と同じような形式をとった。このために小型県展とか春の県展とか呼ばれるようになり,春から初夏にかけての県内における最大の美術展となっていった。
 さらに,内容を充実しようということで,公募と委嘱作品を展示するようにし,第14回(昭和48年度)展からはデザイン部門も加わり,第15回(昭和49年度)展を記念展とし,公募作品が多くなったので3期制をとることとし,第20回(昭和54年度)記念展からは700点以上の出品作品をみるようになり,美術人口が増加しているのを機会に,一般公募の入選を多くして登龍門的性格を強くだした。
 博美展の内容をみてみると,新進気鋭の人が多く出品するようになり,非常に多様な作品内容となり,さまざまな美に接することができ,しらずしらずのうちに美感を養う機会がつくられるようになり,底辺を拡げる重要な役割を果たした。年月が過ぎて,県展とか中央展において出品されている人々の中に,博美展で出品していた人の名前を見ることができると,博美展もそれなりの必要性があったものと考えることができるのである。
 このように長い歴史の中で育ってきた博美展は県民の中に定着していった。春になると「博美展はいつあるのですか!」と電話による問い合わせも多くなってきたが,平成元年度からは止むなく休止の説明しかできないと「せっかく作品を創ったのですから他に出品する展覧会はありませんか!」と聞かれると心の痛む思いがした。
 最近は作品を発表する会場も大分ととのってきたので,グループ展とか個展も多くなってきたが,やはり春には博美展で作品を競ってみて,作者自身が力量を知るチャンスをつかむ意味で博美展も大切な展覧会であったのだろうかと思うのである。昭和も終り新しい平成という時代の流れの中で,県民が求めている展覧会が今後新しく生みだされることを祈りたい。

(県美術家協会事務局)


 

徳島県博物館と私

 

永  井  洋  三    

 私が徳島に来てから四半世紀が経ってしまった。昭和38年,はじめて徳島に住みついて間もなく,徳島県博物館とのお付きあいが始まったのである。
 前任地の静岡県で10年間ガ類を採集してきた私は,新たに住居となった徳島市南蔵本町の市営アパートが,ガ類の採集にたいへんよい場所であることを知った。勤め先で博物館の建設記念学術奨励研究の募集を知った私は,早速これに応募してみた。奨励金をいただくことになり,南蔵本町や県内各地で採集した標本を4箱にまとめて,翌年博物館に納めた。この間,博物館の佐藤博先生にはたいへんお世話になり,小谷知福氏やその著書「徳島県産蛾類仮目録」についても教えていただいた。また,この奨励研究がきっかけで,徳島県博物同好会の皆様とも面識ができ,早速その年の脇町学術調査にも参加させていただくことになった。
 夏休みの博物館恒例の行事の一つ,「採集物に名をつける会」にも,毎年のように参加させていただいている。昆虫の標本をこの会に持ってくる人は,植物に比べるとはるかに少ないのだが,多数の微小な甲虫を標本にして毎年持ち込んでくる中学生があり,チョウやセミ,トンボの標本を持ってくる人が多い中で,私の乏しい採集デ−タを補ってくれるようなガの標本を持ち込む人もあって,メモを取って記録することもある。私にとっても楽しみな年中行事の一つである。
 昭和38年に徳島県博物館建設記念学術奨励研究に応募したことはすでに記したが,昭和50年にも私の趣味のエレクトロニクスを応用した展示物ができないものだろうかと考えて,「ICのいろいろ」と題して見学者が手を触れて操作できる展示の製作を計画し応募した。デジタル回路について,トランジスターなどの個別素子によるゲート回路とICとを比較対照させる装置,ICの集積化が進むと装置の構成がどのように簡単になるかを示す装置を作製したもので,後者は20個以上のICで構成したデジタル時計と,1個のLSIでそれ以上の性能のものが構成できたことを示したものであった。
 このほど出版された『徳島県博物館建設記念学術奨励基金運用委員会研究記録』の昭和38年「徳島県のガ類」P.35の写真は,このとき提出した標本ではなく,昭和42年に行われた剣山・県民の森総合学術調査の成果として博物館に納めた標本の一部である。昭和39年春に提出した当時の標本は配列を変えたりして撮影できなかったのだろうか。写真にある標本はほぼ同じものが二通り作られ,一つ博物館に,もう一つは剣山夫婦池に当時建設中だった県民の森資料館に展示するため林業試験場に保管された。林業試験場では資料館に移すまでの約半年間,日光の差しこむ明るい部屋でこれらの標本を展示したのである。強い光線にさらされた標本は,モノクロの写真のように褪色してしまったのだ。博物館の標本は良好な管理により無事だった。
 さて,新しく生まれ変わる博物館に私は次のように希望し,期待している。一つは広く県民の知識向上と自然への理解を深める教育的なセンターの役割を果たしてほしいこと。一つは徳島県の文化水準の向上のためにも,県に関係のある学術標本などの資料の収集・保存・管理など,学術研究をサポートする施設であってほしいことである。私も微力ではあるがお役に立ちたいと思っている。

(生物室運営協力者)


 

30年の思い出

 

平  井  雅  男    

 私が博物館とかかわりをもったのは,昆虫分野のことである。開館当初,展示するものをどうして集めるのかが大きな課題であった。手っ取り早い方法はもちろん寄贈してもらうことである。毎年,教育会館において,徳島県教育会主催の児童・生徒の科学作品展が開かれていた。この科学作品展には,子供たちが採集して標本に仕上げた昆虫がたくさん出品されていた。私は,当時この科学作品展の審査員の一員だったので,作品展の展示終了後,出品者にお願いして寄贈していただくことを思いつき,審査時にお願いするものをチェックしておくことにした。
 やがて,寄贈された標本箱は山と積まれた。数年後には,珍しい昆虫だけをピックアップして寄贈していただくようになった。しかし,その後,科学作品展の標本の寄贈をお願いすることは止まった。
 こうして,児童・生徒諸君からいただいた標本は,現在どうなっているのであろうか。私の心に残る2・3の昆虫について書いてみよう。

(1)マダラチョウ科の迷蝶   県南で1959年採集か
(2)ミナミヤンマ♀      大歩危で1959年採集 下名少児採集
(3)アカエゾゼミ       麻植郡で採集か

 これらは保存されたいるが,残念ながら採集札(採集地・採集年月日・採集者)の記入がないようである。標本の保存は大切なことである。得がたいものは,破損したものでも,翅(はね)一枚でも大切に保管し,採集札等のラベルは付して置きたいものである。
 トンボ類については,勝浦郡正木小学校・那賀郡鷲敷中学校・鳴門市原田雅美氏(故人)等の寄贈品があった。県下各地で,毎年総合学術調査が行われ,私も同行したくさんの昆虫を採集した。館蔵の徳島県産昆虫標本のほとんどはこの総合学術調査の収集品であると思う。
 現在は,高価なもの(標本)も購入し展示していて,ずいぶん立派になった。文化の森へ博物館が移れば,さらに立派なものになるであろうと期待している。しかし,徳島県産の標本は,できるだけ多く集めておきたいものである。
 ところで,毎年夏になると,「採集と標本の作り方の講習会」と「採集物に名をつける会」が開かれた。私も毎年講師をつとめたが,とりわけ「名をつける会」で子供たちの採集した標本を拝見するのがとても楽しみであった。珍しいものがあれば,「貴重品だから大切に保存するように」とか,「用がすんだら博物館に寄贈するように」とか言うことを忘れなかった。
 また,講習会でも熱心に参加した子供たちの生き生きとした目が今でも忘れられない。
 徳島県博物館が行った昆虫展が,過去2回ある。一つは,昭和49年に開催したテーマ展「徳島県の昆虫」と,もう一つは昭和58年に開催した特別展「徳島の昆虫」である。
 第1回目の時にも,吉野川遊園地で「世界の昆虫展」が開かれており,第2回の時にも丸新百貨店で「世界の昆虫展」がちょうど開かれていた。博物館の昆虫展と業者の昆虫展では,目的も内容も違うが,これからも博物館らしい特別展を心がけてほしいものである。

(生物室運営協力者)


 

さりげないことが

 

湯  浅  良  幸    

 県博物館ができて30年になるという。30年というともうそんなにもなるのかという気持と,まだそれだけにしかならないのかという気持ちがある。それらは矛盾するわけだが正直いって私の実感だ。私たち歴史を研究している者にとって県博物館は自然科学系の博物館だ,という印象が強かった。歴代館長にその分野の人たちが多かったせいかも知れない。そんなわけでどうしても足は県立図書館や徳島市立図書館の方へ向いたものだ。もちろん,そうはいっても本県唯一の博物館であるため催し物や陳列品にはずいぶんと世話になった。しかし,研究者と館員が個人的に親しくなるとか互いに協力しあって館蔵品の充実や研究を深める,という関係に立ちいたらなかったことは双方にとって不幸だったと思っている。
 もう時効になっていようが,こんなこともあった。私が世話をしている徳島史学会が美馬郡立光廃寺(郡里廃寺)の価値に目をつけて調査をはじめた。地元の津田快洞師のご協力を得たのはもちろんのことである。古瓦や数少ない出土品によって「阿波三国説」や「瀬戸内文化圏」構想をマスコミ等でさかんにPRしたため,県民や地元の人たちの関心もいちだんと高まってきた。そして,これは発掘しか究明の方法はないと判断して関係当局へも働きかけた。そのころ県博物館に研究奨励費の制度があることを知り,立光廃寺発掘調査助成の申請を行った。町長も県博物館の奨励費がつ付けば議会の了承を得やすいので町費を出しましょう,と約束してくれた。ところが奨励費の方はあっさりとけられてしまった。そのため,町費支出は実現しなかった。わずかの金額でもつけば立光廃寺の破壊はそれだけ防げたのに,と思ったが,館とわれわれの価値観の相違だからどうしようもなかった。しかし,この遺跡は千葉乗隆師らの協力を得て正規の機関によって発掘調査され,郡里廃寺の名のもとに国の重要文化財に指定されたことは周知のとおりである。このような事件があってわれわれ会員の館への出入りはおのずから遠のいていった。それから10年ほど奨励金の趣意書と申請書は送られてきたが,応募する会員はなかった。
 歳月も経過し館員の多くも入れかわった。もちろん社会情勢も変わってきた。こんないきさつの中でいつとはなく私たちも館へ出入りするようになった。それがいつごろだったか私自身ほとんど記憶がない。そのうち展示会企画委員や親子歴史教室講師などを引き受け,館への出入りはふえていった。が,これがどの時点であったのかこれまた覚えていない。天羽次長との交友の深まりと無関係ではなかったようだ。文化の森に出来る県立博物館資料収集展示委員も再三にわたり辞退したが,天羽氏の熱心な説得に説き伏せられたかっこうである。
 さて,館の行事の中で,今なおつづいている親子歴史教室は思い出が多い。小学校6年生と保護者をセットにして郷土の勉強をしてもらおう,という趣旨は地域に開かれた博物館としてよいアイデアだった。好評のため新館への移転準備で閉館中であるにかかわらず中止していないのは,実績が認められているからだろう。その親子教室のうち私は「徳島公園」と「民芸を訪ねて」の2回の現地研修を受け持っている。何年もやっていると受講生に兄弟,姉妹が来ることも珍しくない。わずか2回きりの出会いだが,こちらのさりげないことばが幼ない魂に強い印象を刻むこともある。
 ある年,徳島公園での見学をおえて2組の母親と子どもたちと話し合いをしたことがあった。そのうちの一少年,仮にT君としておこう。T君は歴史や考古学好きの少年である。それが好きなどという生やさしいものではない。ずいぶん勉強していたこと専門分野になると親や先生などとうていかなわない。しかし,他の教科には関心を示さない。それが,私の3時間のガイドとあと2時間ほど話しただけでその日からの生活態度が変わった。「研究者になろうとおもえば他の学問をしなければだめだよ」としごくあたりまえのことを言っただけなのに。これが教室だけの学習だったらどうだろうか。猛暑の中,先生が流れる汗もふかずに3時間も熱心に説明する姿を見,親しくことばを交わしただけだ。後日,母親の話によるとそれ以来,T君の学習態度が見違えるようになったとのことである。

(博物館資料収集展示委員会委員)


徳島県博物館30年史もくじ