はじめに
阿波忌部とは、古代の朝廷祭祀を担当した忌部氏に奉仕した集団です。吉野川市の発足に伴って消えた「麻植(おえ)郡」の名称は、阿波忌部にちなんだものとして知られているように、阿波の古代史を語る上で忌部の存在は重要です。
この展示では、館蔵の考古・歴史資料により、阿波忌部の世界を紹介します。
1 阿波忌部とは何か
古代の史料には「忌部」が多く見られますが、これらは2種類に分けられます。(1)中臣氏と並んで朝廷の祭祀を担当した忌部氏、(2)忌部氏に従属して王権に奉仕した職能集団である地方忌部です。阿波忌部は後者の一例です。地方忌部は阿波のほかにも、讃岐、紀伊、出雲などに置かれました。また、阿波忌部の一部が、房総半島に移住したともいわれています。
阿波忌部は東遷したか
『古語拾遺』には、次のような伝承が記されています。阿波忌部の一部が東国に移住し、彼らの居住したところを阿波から分かれたということで「安房(あわ)郡」と名付けたというのです。安房郡は、8世紀以後、安房国(千葉県)となっています。
このような、阿波から安房への移住伝承は、黒潮の流れを踏まえたものである可能性があります。すなわち、黒潮に乗って移住した人たちがいたことを示唆するものといえるでしょう。
しかし、現在知られている史料では、安房地方に忌部の分布は確認できません。したがって、阿波忌部の東遷伝承が事実だと断定することはできません。
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2 文献に見る阿波忌部
阿波忌部の存在は、8世紀以降の文献史料などから知られます。具体的な人名が記されたものもありますが、とくに、平安時代の『古語拾遺』や『延喜式』には、阿波忌部の役割などが詳しく記されています。これらから、阿波忌部が天皇の即位儀礼である大嘗祭に奉仕したことや、本拠地である麻植郡に、祖神である天日鷲命を祭った忌部神社があったことなどがわかります。
「おえ」の表記
阿波忌部に由来するといわれる「おえ」の郡名表記は、時代によって異なっています。古代には「麻殖」と記され、中世でも「麻殖」が一般的でしたが、一部では「麻植」が見られるようになります。近世以降には「麻植」と表記されています。
この展示では、解説等で郡名を記す場合は便宜的に「麻植」に統一しました。
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3 忌部山古墳群
吉野川市山川町忌部山の標高約230〜240mの山腹に立地し、古墳が5基あります。6世紀後半につくられ、7世紀前半まで追葬されていたと考えられています。すべて円墳で、管玉、勾玉などの玉類や耳環、蓋坏、高坏などの須恵器が多数発見されています。忌部山型石室と呼ばれる横穴式石室が特徴的で、玄室が胴張り、天井がドーム状で、奥の壁が湾曲しています。
横穴式石室 ―忌部山型石室と段の塚穴型石室―
徳島の古墳の横穴式石室は、玄室が胴張りでドーム状の天井を持つタイプと、側壁、奥壁、天井ともに平坦で、玄室の空間が直方体となるタイプにおおきく分けられます。前者のうち、側壁と奥壁に角度を持つものを段の塚穴型石室、隅が丸くなっているものを忌部山型石室と呼んでおり、段の塚穴型石室には奥壁に大きな棚をもつものもあります。段の塚穴型石室は美馬市を中心に分布し、忌部山型石室は吉野川市に分布していますが、阿波市や板野郡にも忌部山型石室と思われるものがあります。
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4 阿波忌部の系譜意識─中世から近代へ─
中世以降、麻植郡山間部を中心に、阿波忌部の子孫とされる人々が広がっていました。代表的なのは、種野山(旧木屋平村・美郷村一帯)の三木名に居住した三木氏です。近世には、古代以来の忌部神社の所在がわからなくなったほか、古代阿波忌部の拠点から離れた美馬郡でも、忌部の伝承が記録されました。そして明治初年には、忌部神社の所在をめぐって激しい論争が起こりました。
忌部神社論争
古代以来の忌部神社の所在地をめぐる論争。すでに近世から神官らの間で論争が行われていましたが、明治4年(1871)、忌部神社が所在不明のまま国幣中社とされたことから、神社の特定が急がれました。明治7年、徳島出身の国学者・小杉榲邨の考証に基づき、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が古代以来の系譜を引くと判断されました。これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社が該当するという見解が出され、激しい争いとなりました。そして、明治14年、五所(御所)神社が忌部神社と決定されました。所在比定が難航したことから、徳島市の眉山中腹に社地が求められ、明治20年に遷座祭を行って新たな忌部神社が発足しました。五所(御所)神社は新しい忌部神社の摂社となりました。
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