部門展示(人文)

没後60年 笠井新也

 

会期 2006.5.31(火)〜7.31(日)

晩年の笠井新也
はじめに

 笠井新也(1884-1956)は現在の美馬市脇町出身で、徳島県内外で教職に就く傍ら、全国レベルの考古学・古代史研究者として、また阿波の郷土史家として活躍しました。とくに邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和(奈良県)であり、最古の前方後円墳とされてきた全長272mの箸墓古墳(奈良県桜井市)が女王卑弥呼の墓であると、最初に考えたことで知られています。
 この展示は、今年が没後60年の節目にあたることから、改めて郷土の先覚者の一人として笠井に注目するものです。遺稿、筆写史料、ノート、蔵書などを通じ、彼の学問の世界に触れていただきたいと思います。
 最後になりますが、貴重な資料をご寄贈いただきました、ご子息笠井倭人氏に心からお礼申し上げます。


1 歴史研究への道

 笠井新也は、1884年(明治17)に脇町に生まれた。郷土史家として高名な笠井藍水(本名高三郎、1891-1974)は実弟である。 
 少年期の笠井は父のもとで読書に励み、地元の小学校・中学校を経て国学院に進学した。特待生に選ばれ、1906年(明治39)には師範部国語漢文歴史科を首席で卒業した。
 卒業後、帰郷した笠井は、県立高等女学校(現城東高校)や県女子師範学校に教師として勤めながら、歴史・民俗の研究、論文執筆に取り組んだ。高等女学校の校友会が発行する校誌『済美会誌』、発起人の一人でもあった阿波国史談会の会誌のほか、東京人類学会や考古学会といった全国規模の学会機関誌に投稿し、旺盛な研究活動を続けた。
 


2 遊学時代

 笠井は、1911年(明治44)長野県上田中学校に転じ、さらに翌年には大阪府池田師範学校に移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説をまとめるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。
 1915年(大正4)に退職した後、日本各地を巡りながら、また阿波の歴史にも関心を持ち、研究を続けた。阿波の古墳や「漢委奴国王」の金印の出土地をめぐる論争を行っており、研究に対する熱い思いがうかがえる。
 1916年(大正5)から翌年には、郷土の先輩である鳥居龍蔵のもとで学ぶため、東京帝国大学理科大学の聴講生となった。この時期に関東・東北地方を旅したり、京都帝国大学夏期講習会に参加したりすることもあった。

 


3 帰 郷

 笠井は、1917年(大正6)帰郷し、翌年には老齢の父から家督を相続した。これ以後、活動の舞台は徳島県内に移った。1919年(大正8)には母校である県立脇町中学校(現脇町高校)教諭となり、以後20年間、教壇に立ち続けた。その傍ら、1921年(大正10)には徳島県史蹟名勝天然記念物調査会委員となり、史跡等の調査や保存について指導的な役割を果たすようになった。1922年(大正11)、東京帝国大学助教授となった鳥居龍蔵の帰郷の際は調査に協力し、徳島市の城山貝塚調査にも委員の立場で参加した。
 郷里での笠井は、本格的に邪馬台国研究に取り組むようになった。一方、民話・伝説を中心とした阿波の民俗研究も深めていった。
 

4 研究の集大成

 帰郷後の笠井の研究の主対象は邪馬台国であった。魏志倭人伝や日本書紀などを考証し、大陸からのルートについて新説を出し、邪馬台国の所在を大和とした。女王卑弥呼については、崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫命に比定した。さらに、百襲姫命の墓であり、最古の前方後円墳とされてきた箸墓古墳について、形状や規模を分析し、初めて卑弥呼の墓と考えた。一連の考察は順次学会誌に発表され、400字詰め原稿用紙1,000枚を超える「邪馬台国及卑弥呼研究」に集約されたが、未刊である。
 また、郷土史の分野では、民俗研究の集大成として『阿波の狸の話』を刊行した。ほかに、原稿用紙約1,000枚に及ぶ大部な「阿波伝説誌」があるが、これも未刊である。
 


5 研究の基盤―蔵書の世界―

 戦前までの歴史家には、文献史料による狭い意味での歴史学だけでなく、考古学や民俗学なども含めて、幅広く歴史を学び、とらえようとする姿勢があった。地域の総体に向きあう郷土史家の場合、関心を向ける地域の範囲が狭い場合が多いものの、対象分野の広がりという意味では幅広さが特徴であった。
 笠井は、日本考古学・古代史研究者で、郷土史家でもあり、そのような特徴を体現していた一人でもあった。それゆえ、現在知られる膨大な蔵書は、郷土史や日本史はもちろんだが、人類学や民俗学、文芸などに関するものも含んでおり、彼の関心の所在を物語っている。また、筆写史料もあり、研究活動の一端がうかがえる。
 

 
 
展示のようす