部門展示(人文)没後60年 笠井新也
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![]() 晩年の笠井新也 |
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笠井新也(1884-1956)は現在の美馬市脇町出身で、徳島県内外で教職に就く傍ら、全国レベルの考古学・古代史研究者として、また阿波の郷土史家として活躍しました。とくに邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和(奈良県)であり、最古の前方後円墳とされてきた全長272mの箸墓古墳(奈良県桜井市)が女王卑弥呼の墓であると、最初に考えたことで知られています。 1 歴史研究への道 笠井新也は、1884年(明治17)に脇町に生まれた。郷土史家として高名な笠井藍水(本名高三郎、1891-1974)は実弟である。 2 遊学時代 笠井は、1911年(明治44)長野県上田中学校に転じ、さらに翌年には大阪府池田師範学校に移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説をまとめるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。 3 帰 郷 笠井は、1917年(大正6)帰郷し、翌年には老齢の父から家督を相続した。これ以後、活動の舞台は徳島県内に移った。1919年(大正8)には母校である県立脇町中学校(現脇町高校)教諭となり、以後20年間、教壇に立ち続けた。その傍ら、1921年(大正10)には徳島県史蹟名勝天然記念物調査会委員となり、史跡等の調査や保存について指導的な役割を果たすようになった。1922年(大正11)、東京帝国大学助教授となった鳥居龍蔵の帰郷の際は調査に協力し、徳島市の城山貝塚調査にも委員の立場で参加した。 郷里での笠井は、本格的に邪馬台国研究に取り組むようになった。一方、民話・伝説を中心とした阿波の民俗研究も深めていった。 4 研究の集大成 帰郷後の笠井の研究の主対象は邪馬台国であった。魏志倭人伝や日本書紀などを考証し、大陸からのルートについて新説を出し、邪馬台国の所在を大和とした。女王卑弥呼については、崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫命に比定した。さらに、百襲姫命の墓であり、最古の前方後円墳とされてきた箸墓古墳について、形状や規模を分析し、初めて卑弥呼の墓と考えた。一連の考察は順次学会誌に発表され、400字詰め原稿用紙1,000枚を超える「邪馬台国及卑弥呼研究」に集約されたが、未刊である。 5 研究の基盤―蔵書の世界― 戦前までの歴史家には、文献史料による狭い意味での歴史学だけでなく、考古学や民俗学なども含めて、幅広く歴史を学び、とらえようとする姿勢があった。地域の総体に向きあう郷土史家の場合、関心を向ける地域の範囲が狭い場合が多いものの、対象分野の広がりという意味では幅広さが特徴であった。 |
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展示のようす |