描かれた職人たち
−絵に見る中世−
1999年5月18日(火)〜8月1日(日)の間、部門展示室(人文)で、「描かれた職人たち−絵に見る中世−」という小さな展示を行いました。当館で収集してきた「職人歌合(しょくにんうたあわせ)」という資料をご覧いただき、絵の面白さを味わうと同時に、そこに投影された身分と差別の問題にも目を向けていただければということで企画したものです。いずれは職人絵をテーマに企画展をしてもいいなと考えているので、そのテストパターンとしての意味もありました。そんなわけで、6ページの手作りパンフレットを用意してみたりもしました。
展示内容をそっくり再現することはできませんが、ここにパンフレットの内容をほぼもとのまま掲載しておきます。展示を見ながらご利用いただくことを考えて作ったので、図版も少なく分かりにくい点も多々あると思いますが、ご容赦ください。
お断り
展示では被差別民の職能や差別的な身分呼称などについて取り上げました。そのため、以下の文中には、今日の人権感覚からは差別的と理解される用語が含まれています。これは、歴史上の事実に対する認識を深めるとともに、差別のもとにおかれた人々の社会的な役割を理解していただきたいという趣旨によるものです。その点、ご了解願いたいと思います。
中世の職人歌合絵巻を古いものから挙げると、「東北院職人歌合絵巻」「鶴岡放生会職人歌合絵巻」「三十二番職人歌合絵巻」「七十一番職人歌合絵巻」がある。描かれた職人は、順に11種、25種、33種、142種と、時代を降るにつれて増加・多様化している。こうした変化は、社会的分業の発展、すなわち躍動する社会の状況を反映したものといってよいだろう。
また、職人歌合絵巻には女性のすがたも見られる。とくに「七十一番職人歌合絵巻」には、豆腐売り、麹売りなど女性のすがたで描かれた職種が多数ある。中世における女性の活動の場の広がりをうかがい知ることができるだろう。
(1)職人歌合とは
歌合とは、人々を左右に分け、それぞれが詠んだ短歌を左右一首ずつ組み合せて判者が優劣を判定し、勝負する遊戯のことをいう。ここで取り上げる職人歌合は、種々の職人に仮託して歌を詠み、それを歌合の形式にしたものである。
(2)東北院職人歌合絵巻(複製)
祖本は鎌倉時代の成立。展示資料は、京都の曼殊院旧蔵本(現在は東京国立博物館所蔵)のモノクロ複製本。
建保2年(1214)9月に、京都の東北院の念仏会に集まった人々の中の「道々の者」(さまざまな職能の人々。南北朝時代以後、職人といわれるようになる)が歌合を催したという設定になっている。東北院は、平安時代に藤原道長が、娘の上東門院彰子の発願によって建立した寺院である。
(3)鶴岡放生会職人歌合絵巻(模本)
祖本は鎌倉時代の成立。展示資料は、江戸時代の模本。
「東北院職人歌合絵巻」にならって制作された。鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に際して行われた歌合という設定になっている。取り上げられている職人の中には、「七十一番職人歌合絵巻」と重複するものも多い。
(4)三十二番職人歌合絵巻(模本)
祖本は明応3年(1494)の成立。展示資料は、安永7年(1778)の模本。
「東北院職人歌合絵巻」「鶴岡放生会職人歌合絵巻」を意識してつくられたものだが、描かれた職人の大半は他の職人歌合絵巻と重複しない。動的な描写が多くなっていることも特徴である。
(5)七十一番職人歌合絵巻(模本)
祖本の成立は戦国時代。一説には明応9年(1500)の成立と指摘されている。展示資料は、江戸〜明治時代の模本。
中世の職人歌合絵巻のうちで最も多数の職人を描いており、当時の社会の躍動感がうかがえるものである。
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●「七十一番職人歌合絵巻」に描かれた職人(一部)
(岩崎・網野ほか校注『新日本古典文学大系』61、岩波書店、1993年より)
中世の社会では、観念的・流動的なものではあったが、人々は身分によって序列化されており、その最底辺には被差別民が位置づけられていた。
身分は、衣服や頭髪などを標識として、可視的に表示された。代表的な標識が烏帽子(えぼし)と覆面(ふくめん)である。烏帽子は成人男性のシンボルであり、それをかぶることは国家・社会の基本的な構成員として位置づけられることを意味した。また、覆面は、社会秩序からの離脱・排除を示すと考えられている。職人歌合絵巻にも、これらの身分標識を見出すことができ、職人たちが当時の身分制に組み込まれていたことが分かる。
また、職人歌合絵巻には、被差別民のすがたも見られる。彼らに対する卑賤観はあったが、「職人」として社会の中に不可欠の役割を占めていたことも確かな事実である。
(1)身分標識−烏帽子と覆面
中世には、烏帽子は社会の構成員としての成人男性であることを示す標識だった。烏帽子の下には、髪を頭頂部で結んで髻にしたが、これも同様の標識の意味があった。したがって、烏帽子や髻のない者は、いくら成人男性であっても社会的には正規の構成員とは認められていなかった。
また、社会からの離脱・排除のシンボルのひとつが覆面だった。職人歌合絵巻にも覆面が描かれているが、何らかの意味で社会から疎外された人たちと考えられる。
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「七十一番職人歌合(模本)」に見える覆面 |
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※今回あわせて展示中の「一遍上人絵伝(複製)」には、寺社の門前や河原に集まる乞食の中に覆面の人物が描かれている。彼らは、癩病患者であり、中世社会ではもっとも卑賤視されていた。中世の癩病とは、ハンセン病やその他の皮膚の疾患を総称していう。今日ではハンセン病の伝染力の弱さは明らかとなっており、治療法も確立しているが、当時は不治の病と考えられ、深刻な差別を生み出したのである。絵画資料には、そうした社会の残酷な一面も描き込まれていることがある。
(2)職人としての被差別民
「七十一番職人歌合絵巻」には、弦売り(「つるめそ」とも。京都祇園社に従属する被差別民である犬神人[いぬじにん]が弓弦を販売していた)やいたか(経を読んで銭を乞い、板の卒塔婆に追善の文字を書いて流す流れ灌頂[かんじょう」を勧め歩いた下層宗教者)、鉢たたき(時宗系下層宗教者。鉄鉢[かなはち]かヒョウタンをたたきながら念仏を唱えた)など、商業、芸能、宗教、手工業に携わる被差別民のすがたも見られる。
とりわけ注意が引かれるのは、皮なめし職人として描かれている「えた」である。近世の被差別身分の呼称としてよく知られているが、中世にすでに存在していた。穢れ意識に基づく差別的な呼称だが、固定的な名称ではなく、河原者・清目と称されることが多かった。
これら被差別民の職能も、当時の社会的分業の一端を担うものとして描かれているのである。
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※「えた」呼称の起源は、鎌倉時代の百科全書「塵袋」で餌取(律令制下の主鷹司に属した官奴婢)が転じたものとされた。これは、以後「埃嚢鈔」(文安3年[1446])、「塵添埃嚢鈔」(天文元年[1532])に受け継がれ、近世には有力な説だった。しかし、事実として裏付けられるものではない。今回「埃嚢鈔」「塵添埃嚢鈔」の近世の版本をあわせて展示した。歴史のなかでの差別のあり方を考える材料となろう。
中世の職人概念は幅の広いものだったが、戦国期には手工業者を指すことが一般化していった。そして、近世にかけて、大名の政策により城下町に集住する職人たちも多くなった。
「職人」をめぐる環境は大きく変わっていったが、近世になっても、中世の職人歌合絵巻の影響を受けながら、各種の職人尽絵が制作された。狭義の職人である手工業者はもちろん、商人や民間芸能者なども描かれているが、中世の職人歌合絵巻にはなかった職人も多く興味深い。なかには、被差別民が担った職能も少なくなく、その社会的分業における位置づけを知る手がかりにもなる。同時に、中世の身分標識だった烏帽子などがあまり見られなくなっていることも注目される。そこには、中世と近世の身分制の違いが反映されていると考えられる。
「今様職人尽歌合」に描かれた職人
「今様職人尽歌合」は文政8年(1825)刊。72種の職人が描かれている。全体的に、動きのある描写が多い。万歳(年頭に家々をめぐり歌い舞いつつ祝言を述べた門付芸)、鳥追い(女性芸人が年頭に祝歌を歌いながら家々をまわった門付芸)など、被差別民が担った職能も見られる。
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主要参考文献
●職人歌合に関するもの
石田尚豊編『日本の美術132 職人尽絵』至文堂、1977年
網野善彦『日本中世の民衆像』岩波書店、1980年
網野善彦『職人歌合』岩波書店、1992年
岩崎佳枝・網野善彦ほか校注『新日本古典文学大系』61、岩波書店、1993年
●中世の身分制や被差別民に関するもの
横井清『中世民衆の生活文化』東京大学出版会、1975年
渋澤敬三ほか編『新版 絵巻物による日本常民生活絵引』全5巻、平凡社、1984年
小林茂・芳賀登ほか編『部落史用語辞典』柏書房、1985年
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』東京大学出版会、1986年
部落問題研究所編『部落史史料選集』1、部落問題研究所、1988年
黒田俊雄『黒田俊雄著作集』6、法蔵館、1995年
高橋昌明『中世史の理論と方法』校倉書房、1997年