修験道とは、日本古来の山岳信仰をベースに、仏教や神祇信仰、陰陽道が習合して形成された宗教である。
古代に実在した役小角(役行者)が開祖とされ、今年が1200年忌といわれる。しかし、実際には特定の開祖はおらず、中世から近世にかけて教団や教義が整っていった。
修験道を担ったのは山岳修行によって霊力を身につける山伏である。彼らの活動は山に限らず、里における庶民の信仰とも深く関わった。したがって、修験道は、日本文化に不可欠の要素といえる。
ここでは、各地の霊山の様子、山伏の姿や活動などについて紹介していく。
日本列島の山々の多くは、何らかの意味で信仰の対象となっていた。恵みのもとであったり、祖霊の帰るところであったりと観念の内容は様々だが、「霊山」は身近なところに見出されていたのである。
それらのなかには宗教者の行場となったり、やがて寺社が整備されたりと発展する場合も少なくなかった。そうした霊山は、修験道の世界の核でもある。
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霊山には、女性の登頂を拒む風習(女人禁制)をもつところがある。奈良県大峰山などは、今も女性の入山を拒んでいることで有名である。
女人禁制の成立は、10〜11世紀におけるケガレ観念の発達と仏教的な罪業観の浸透による女性不浄観の成立によるところが大きいといわれる。一方で、宗教的戒律(男僧の修行の妨げゆえ排除)からその成立をとらえる観点もある。
いずれにせよ、「女人禁制」習俗は、女性をめぐる価値観のひとつの表現であることには違いなく、その歴史的な性格を考えてみる必要があろう。
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(かつての女人結果の目印) |
山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。
その始まりは明らかではないが、古代の伝説的な宗教者である役小角が開祖とされ、近世には「神変大菩薩」といわれて崇拝された。
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山伏は、修行によって自らの能力を高めるだけでなく、庶民信仰とも深く関わった。中世には、各地で熊野信仰をはじめ、霊山信仰がさかんだったが、そうした信仰を広めるとともに、霊山への引導をする先達の大半は山伏だった。
また、山伏たちは、祈祷など呪術的能力を発揮して、庶民の生活に入り込んでいた。近世の阿波の場合、どの村にも山伏がくらしており、その存在は日常生活と切り離せないものだったのである。
※光永家は、近世以来真言系山伏の家だった。山伏の道具や、護摩札、護符版木、各種護符などが残されていた。主要なものは、1996年、当館に寄贈された。
中世後期から近世にかけて、山伏の集団化と寺社による組織化が進行した。その過程とあわせて入峰修行による即身成仏を本旨として密教に基調をおく教義も整えられた。
近世には、真言系の当山派(醍醐三宝院門跡配下)と天台系の本山派(聖護院門跡配下)を基本とする組織体制が確立した。さまざまな教義書が流布したのも、組織が定型化したこの時代の特徴である。
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