部門展示(人文)

徳島水平社創立80周年記念

部落解放のあゆみ

 

会期 2004.12.7(火)〜2005.2.6(日)

 

はじめに

 部落問題(同和問題)は、日本における深刻な社会問題のひとつで、被差別部落の人たちは不当に社会的権利を奪われてきました。そして、部落差別は今も根強く続いています。
 しかし、差別を解消するために尽くした人たちがいたこと、その営みが今日の人権意識の基盤となってきたことは事実です。とりわけ、1922年に誕生した部落解放運動団体・全国水平社は、社会の差別意識を問い、日本の人権史上に一段階を画しました。1924年12月には、徳島にも水平社の灯がともされました。
 徳島水平社の創立から80年たつ今、部落解放への取り組みの歴史を顧み、改めて私たちの課題を考えてみたいものです。


1 部落問題の成立

 今日の被差別部落は、近世の被差別身分の人びとの居住地がもとになっていることが多いといわれます。近代以前の社会では、身分制に基づく差別が社会のしくみに組み込まれていました。
 これに対し、近代社会は、国民の「平等」を原理としました。しかし、社会の基盤となった共同体は旧来の秩序を引き継いだため、差別はなくなりませんでした。また、近代化の過程で新たな価値観(衛生、富、教育)が差別を正当化していきました。こうした社会の中で部落問題が成立します。

「解放令」

 1871年(明治4)、明治新政府は、被差別身分の呼称を廃止し、身分・職業とも「平民」同様とすべきであるという布告を発しました。この布告が「解放令」といわれます。身分制にもとづく差別が、公式に否定された意義は大きいものでした。しかし、政府の意図は「解放」にはなく、天皇のもとに平等な国民を結集させ、一元的に支配する体制をつくることにありました。
 また、地域社会にとっては、「平等」は秩序の混乱と受け取られ、差別意識が表面化することにもなりました。


2 部落解放の道程

 急速な資本主義化により社会矛盾が深刻化した20世紀初頭から、部落差別をなくすための取り組みが各地で見られました。これらは、被差別部落の生活改善により、差別をなくそうとするものでした。その流れは被差別部落内外の融和を図る方向へ展開します。
 民衆の権利意識が拡大した大正期、労働運動や各種の社会運動がさかんになりました。その中で、奈良県柏原の青年たちを中心に、全国水平社が創立されました。水平社は、社会の差別意識を正面から問う運動を進めました。
 やがて1924年12月には、徳島県でも水平社の組織が結成されました。

部落改善運動と融和運動

 資本主義化が進んだ19世紀末から20世紀初頭、被差別部落の貧困が鮮明になり、差別の原因を部落の生活環境の劣悪さや貧困に求める認識が生まれました。そこで、差別解消のために部落の内部から、生活環境の改善を図る部落改善運動が起こりました。
 その系譜を引きながら、差別の原因を社会一般にも求めて、部落の生活改善と社会との融和を掲げて始まったのが、融和運動です。
 部落改善運動、融和運動はともに、官民共同で行われ、一定の成果をあげました。それは水平社運動の母胎ともなり、また、対抗もしました。

徳島水平社の成立と展開

 全国水平社の創立以後、各地で相次いで水平社が結成され、運動の波が広がりました。1924年には、徳島市近郊でも水平社が誕生しました。この組織はやがて、徳島水平社と称し、事実上の県組織として活動します。
 徳島水平社は、大阪府水平社の栗須七郎らによる支援を受け、活発な糾弾闘争により、社会の差別意識と対決していきました。
 また、1933年(昭和8)の高松差別裁判糾弾闘争等を経て、県南の運動が高まっていきました。1937年には、那賀郡を中心に全国水平社徳島県連合会が組織されました。


3 喜田貞吉と部落史研究

 喜田貞吉(1871〜1939)は、現在の小松島市出身の日本史学者です。法隆寺再建論争、南北朝正閏問題で著名ですが、部落史研究の先駆者でもありました。また、多様な被差別民衆や、社会の中の排除にも目を向けました。
 とくに重要なのは、自ら主宰していた雑誌『民族と歴史』の1冊として刊行した「特殊部落研究号」です。実証主義的な部落史研究の道を開拓した名著といわれています。
 喜田は、水平社運動や融和運動とも関わり、さかんに講演活動も行いました。真摯に部落差別の解消を願っていたのでした。

展示のようす