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文化の森に徳島県立博物館がオープンして15周年になる2005年は,眉山のふもとにあった徳島県博物館(旧館)の閉鎖から15年目でもあります。 この節目にちなみ,戦前の博物館事情をあわせて,旧館の開設(1959年)に至るまでの徳島県の博物館史を紹介します。 |
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1 博物館史への視線 今回の部門展示(人文)「博物館の誕生」は,徳島県立博物館の開館15周年と,前身である徳島県博物館の閉鎖からの15周年が一致することから,徳島県博物館の設立期を紹介することが直接の目的である。ただ,徳島県博物館が,徳島県では最初の本格的な博物館でもあったことから,それ以前,とくに1945年の敗戦前における博物館に関する動向にも注意が必要であるという考えに基づいて構成した。
2 阿波郷土研究会と博物館構想 まず注目しておきたいのは,『博物館研究』7巻1号(1934年)における「博物館ニュース」の記事5)である。全文を掲げておこう。 徳島に考古博物館 徳島郷土研究会では,城山公園貝塚の発掘品,県全体にわたる石器時代の遺物およびこれらの写真その他絵画,彫刻など,太古の時代を知るに足る貴重な資料の散逸を防ぐべく,今回これらの貴重品を収容する考古博物館を建設せんとする計画中である。工費は約一万円,この外五千円を基金とし,県内外の同好者の寄附を俟ち,徳島公園か眉山公園のいづれかに設置,混凝土二階建六十坪のものを建設し,階下を展覧室に,階上は小集合所に充てんとするものである。 城山貝塚は,1922年に徳島県出身の人類学者 鳥居龍蔵(1870〜1953)が調査を行ったことで著名な遺跡で,徳島城跡の徳島中央公園内に位置している。鳥居による調査の際の出土遺物は現在,東京大学総合研究博物館が所蔵している(一部は徳島県立鳥居記念博物館が借用・展示)。これらの資料を中心にした博物館を,徳島市のシンボル的な観光名所であった徳島公園か眉山公園というに建設しようという計画だったことが分かる。建築構想,資金計画等はかなり具体的であるが,以後『博物館研究』誌上にはこれに関連する記事は現れない6)。 ○第13回 8・10・29・ 雨 瑞巌寺 26名 通知坂本謄写版 司会坂本 ○協議会 8・11・2・ 晴 光慶図書館予備室 8名 通知小出ペン書 7.30−10.10 ○第15回 9・4・29・ 雨 蓮華寺 23名 通知坂本謄写版 司会坂本 1.20−5.00 これら「郷土資料館」「郷土博物館」が,先の考古博物館に該当するものと思われる。この件だけを議題とした協議会が開かれているほどだから,相当熱が入っていたのだろう。検討内容は不明ながら,当時の新聞によれば,第13回例会の発表は「郷土博物館につき其必要論を述べ」たものであったらしい。また,第15回例会についても記事に見えており,「郷土博物館として鷲門脇借用の場合使用料調達方法に就て」とあり11),具体的な立地を想定した議論が行われていたことが分かる。「鷲門」とは徳島城の門で,戦災で焼失している。現在徳島中央公園入り口の跡地に原寸大で復元されている。
3 博物館ふたたび―喜田貞吉の影 先に引いた「例会開催一覧」を見ると,1938年に至って次のような記載も見られる。 ○第31回 13・4・24・ 曇後晴 実相寺 16名 通知飯田謄写版 司会池上 2.20−6.00 「喜田博士の郷土博物館」が,徳島出身の歴史学者 喜田貞吉(1878〜1939)の業績を顕彰しようとするものだったのか,それとも喜田から博物館建設促進を求められたのかは分からない。また,この協議の状況や結論についても不明である。 私の方針としましては,各地方の研究資料は,出来ることなら,その地方に於いて保存し,研究者が其処へ行けば,いつでも自由にそれを閲覧調査することが出来るやうにしたいといふにあります。それで近頃流行の郷土博物館の完成を盛んに提唱したいのであります こうした発言が何らかの関係をもっているのかもしれないが,上の協議の時期とはあまりにもずれており,かすかな可能性というしかない。大阪在住の阿波郷土史家だった後藤捷一(1892〜1980)は,雑誌『郷土研究 上方』63号阿波特集(1936年)を編集しているが,喜田はこれに「阿波の考古学的瞥見」19)を寄稿している。阿波における考古学的な調査や研究成果の蓄積を促しているが,こうした趣旨と博物館の必要性がセットになってとらえられた可能性もある。とはいえ,確実な史料に恵まれない以上,憶測はここまでにしておこう。
4 徳島県教育会による博物館建設の建議 前節までに見た郷土研究会とは別に,教育者の団体である徳島県教育会(以下「教育会」)20)が博物館の建設を促す動きを見せたこともある。しかし,これらもまた実現していない。 輝かしき皇紀二六〇〇年の紀念として,その経典を銘記すべき事業として郷土館を建設し先人偉哲の遺品等を蒐集陳列し,郷土愛の精神を養ひ,県人将来の修養の中心点たらしめんとす この提案は「満堂拍手の裡に賛成可決」され,実際に建議が行われることになった。そして,同年7月5日,総会の議決を受けて教育会長が県知事に「皇紀二千六百年記念事業として県に於て郷土館を建設せられたし」と建議している23)。その理由説明を見ておこう。 八紘一宇の大理想の下に益信しつゝある我が皇国は昭和十五年を以て悠遠世界無比なる建国二千六百年を迎ふることゝなれり,之畢竟我が国体に発し歴史に培はれたる国民の燃ゆるが如き祖国愛の迸りの結晶に外ならず,而して此祖国愛の根源をなすものは実に郷土愛の至情なりとす,即ち郷土を理解し敬愛し先賢偉哲の業績に接して敬慕奮起の情を喚起するは国民精神振起の基調たり,然るに本県には其種施設の見るべきものはなく為に人材の育成上にも遺憾尠なしとせず ここに明らかなとおり,教育会が求めたのは,1940年における「皇紀2600年」を契機とした,愛国心の基盤たる郷土愛や先人への崇敬の念を涵養する施設の建設であった。建議を受けた県側の対応は不明だが,こうした建議と併行して教育会内部でも,総会における協議題「皇紀二千六百年記念トシテ行フベキ適切ナル教育事業如何」に対する委員会答申案で「教育会ニテ行フベキ適切ナル事業」のひとつとして「本県郷土館ノ建設」が掲げられている24)。
5 1930年代という時代―郷土博物館・郷土教育興隆の中で 以上に見てきた博物館建設に関わる動向は,教育会の1926年総会での建議案を除けば,いずれも1930年代のことであった。そこで,この時期に博物館が求められる固有の理由があったのか考えておく必要があるだろう。 大体の資料は郷土に於ける衣食住,生活全般に亘るもので,なほ内地新領土は勿論,世界の風俗,特産物,名所及び旧跡の絵葉書案内,地図等,あらゆる教育資料の蒐集陳列をなす 後者には「徳島師範の郷土博物館」と見出しが付き,徳島県男女両師範学校が文部省の郷土研究資金を得て資料収集にあたっていること,また,それが小学校の郷土研究・郷土教育に刺激を与えていることや男子師範附属小学校の博物館建設着手などが記されている。「昭和六年の教育界は郷土研究と郷土教育を以て華々しく展開されるであらうといはれてゐる」と結ばれており,文部省の補助金交付を契機として郷土教育が急速に興隆した様子が知られる。 昭和五年文部省は,各府県師範学校に対して郷土資料蒐集のための経費を交付したので,両師範学校の郷土研究が始まり,女子師範学校の郷土館が完備せられ,師範学校の郷土室が整備せられて,光慶図書館,女師郷土館,男師郷土室の三箇所を合すれば,県下の郷土関係の書籍は殆ど全部網羅せられて居たのであった。 飯田が文献史家であったことから,いきおいその関心は文献整備の様相へと向かうのであろうが,両校の郷土室・郷土館の充実ぶりが語られており,郷土研究・郷土教育の拠点が整っていたと認識されていたようである。
6 戦後へ―未完の憲法記念館構想と徳島県博物館の誕生 最後に,戦後において徳島県博物館が誕生するに至るまでの状況を,とくに徳島県憲法記念館(県立図書館)に注目しつつ,記しておきたい。 自ら教養を求めて自助自学する図書館。眼に訴え耳に訴え感覚に訴える等,環境に依ってする科学館,美術館,博物館,郷土館。常に討議し研究し,自己を主張すると共に他の説を聞いて反省し協力する会議場。衆と共に放送や講演や音楽を聞き,映画や演劇を観て文化を享受して行く集会場 ここには,博物館をも包含した複合文化施設の構想があったことが分かるのである。計画図を見ると,展示室として想定されていたものであろうか,美術博物室,郷土室,科学室が配置されている37)。
注 1)例えば,徳島県史編さん委員会編『徳島県史』5・6,徳島県,1966・67年,徳島県教育委員会編『徳島県教育八十年史』徳島県教育委員会,1955年,徳島県教育会編『徳島県教育沿革史』続編,徳島県教育会,1959年など。 2)『國學院大學博物館學紀要』21,1997年。 3)1929年は文部省普通学務局『常置観覧施設一覧』,他は文部省社会教育局『教育的観覧施設一覧』。いずれも伊藤寿朗監修『博物館基本文献集』9,大空社,1990年所収。 4)いずれも日本博物館協会編『博物館研究』2,日本博物館協会,1979年所収。 5)日本博物館協会編,前掲(注4)書による。 6)徳島県立図書館所蔵『徳島毎日新聞』,『徳島日日新報』,『大阪朝日新聞徳島版』(いずれもマイクロフィルム)も検索したが,別に記すような阿波郷土研究会例会における博物館についての記載以外は見あたらなかった。ただし,『大阪朝日新聞徳島版』以外については欠紙分が多いので,注意が必要である。 7)飯田義資編『阿波郷土会創立三十年史』阿波郷土会,1961年。 8)新孝一氏(徳島県立図書館),故絹川元一氏のご協力・ご教示を得た。 9)飯田義資の略歴については,三好昭一郎「飯田義資」(『徳島県人名事典別冊 徳島県歴史人物鑑』徳島新聞社,1994年)参照。「つねに阿波郷土会の最高指導者として活躍」したと評されている。 10)飯田編,前掲(注7)書。末尾に「筆者(飯田―引用注)の備忘ノートから摘出して編成した」とある。 11)第13回例会については,『徳島毎日新聞』1933年10月31日付。第15回例会については同紙1934年5月2日付。 12)創立時のメンバーについては,『徳島日日新報』1930年5月27日付,飯田「阿波郷土会三十年の回顧[講演筆記]」(飯田編,前掲[注7]書)に見える。 13)飯田「物故先人録」(飯田編,前掲[注7]書)。 14)前掲(注13)稿。 15)小川や森の考古学的な業績については,天羽利夫「徳島県関係考古学文献目録」(『徳島県博物館紀要』2,1971年)参照。 16)飯田義資「光慶図書館の回想」(徳島県立図書館編『徳島県立図書館七十年史』徳島県立図書館,1987年)。これは,1966年に行われた県立図書館創立50周年記念講演の筆録を,飯田自身が校閲したものである。 17)飯田,前掲(注12)論文,羊我山人(飯田の筆名)『郷土研究と泉山先生』私家版,1957年。 18)喜田貞吉「郷土研究資料の蒐集と保存」(『博物館研究』5巻10号,1932年[日本博物館協会編,前掲[注4]書])。 19)『喜田貞吉著作集』1,平凡社,1981年。 20)教育会の沿革等については,吉見哲夫編『徳島県教育会百年誌』徳島県教育会,1988年参照。 21)『徳島県教育会雑誌』242号(1926年)。 22)『阿波教育』342号(1938年)。 23)『阿波教育』343号(1938年)。 24)『阿波教育』344号(1938年)。 25)「昭和十五年度徳島県教育会事業概要」(阿南市富岡小学校蔵)。 26)国史館計画については,金子淳『博物館の政治学』青弓社,2001年参照。 27)金子淳「学校教育と博物館『連携論』の系譜とその位相」(『くにたち郷土文化館研究紀要』1,1996年)による。伊藤寿朗「日本博物館発達史」(伊藤寿朗・森田恒之編『博物館概論』学苑社,1978年),内川隆志「郷土教育の変遷II」(『國學院大學博物館學紀要』19,1995年)なども参照した。博物館への関心は見られないが,郷土教育運動の具体相については,伊藤純郎『郷土教育運動の研究』思文閣出版,1998年が詳しい。 28)日本博物館協会編『博物館研究』1・2,日本博物館協会,1979年。 29)『博物館研究』4巻7号(日本博物館協会編『博物館研究』1,日本博物館協会,1979年)。 30)日本博物館協会編,前掲(注29)書。 31)飯田,前掲(注17)書。 32)徳島大学教育学部同窓会編『教学百年』徳島大学教育学部同窓会,1974年。 33)徳島県女子師範学校・徳島県立徳島高等女学校郷土研究部編・刊。徳島県立文書館蔵。 34)同校では,1937・38・40年,徳島県郷土教育研究会が開かれている(徳島大学教育学部同窓会編,前掲[注32]書)。当時の郷土教育の中核といってよいであろうから,そういう点からも影響力が考えられる。 35)徳島県立図書館編,前掲(注16)書。 36)徳島県立図書館編,前掲(注16)書掲載の写真による。 37)徳島県立図書館編,前掲(注16)書掲載の写真による。 38)開設された憲法記念館の実態については,徳島県立図書館編『徳島県立図書館50年史』徳島県立図書館,1966年参照。 39)徳島県立図書館編,前掲(注16)書。岩村の郷土教育に関する取り組みの片鱗は,教育会機関誌『阿波教育』275・276号(いずれも1932年),279号(1933年)に分載された「徳島県郷土史教材略説」などにうかがえる。 40)徳島県教育委員会・徳島県博物館建設期成同盟会編『博物館建設のあゆみ』徳島県教育委員会・徳島県博物館建設期成同盟会,1959年(徳島県博物館編『徳島県博物館三十年史』徳島県博物館,1990年所収)。 41)徳島県博物館編,前掲(注40)書。 42)徳島県博物館編『郷土室資料目録』徳島県博物館,1961年。
(※)この解説は、長谷川賢二「戦前期徳島における博物館事情」(『博物館史研究』11,2001年)を改題・改稿したものである。原論文執筆時に不十分だった徳島県教育会の動向については,その後の調査に基づいて補ってある。 |
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