部門展示(人文)

博物館の誕生

 

会期 2005.11.1(火)〜2006.1.15(日)

 文化の森に徳島県立博物館がオープンして15周年になる2005年は,眉山のふもとにあった徳島県博物館(旧館)の閉鎖から15年目でもあります。

 この節目にちなみ,戦前の博物館事情をあわせて,旧館の開設(1959年)に至るまでの徳島県の博物館史を紹介します。

解説  徳島県の博物館史覚書

 

1 博物館史への視線

 今回の部門展示(人文)「博物館の誕生」は,徳島県立博物館の開館15周年と,前身である徳島県博物館の閉鎖からの15周年が一致することから,徳島県博物館の設立期を紹介することが直接の目的である。ただ,徳島県博物館が,徳島県では最初の本格的な博物館でもあったことから,それ以前,とくに1945年の敗戦前における博物館に関する動向にも注意が必要であるという考えに基づいて構成した。
 ところで,徳島県内の自治体史や教育史を見る限り,戦前期における博物館について立項されたものは見られない
1)。現状では唯一の徳島県博物館史についての専論である,山川浩實「徳島県の博物館史」2)においても,博覧会や商品陳列所,図書館の博物館的機能について言及するほかは,わずかに博物館的な施設として個人の文庫に触れるにとどまっており,徳島県における博物館の展開は戦後を待たなくてはならなかったことが示唆されている。
 試みに,当該期における全国の博物館施設リストの類を通覧してみよう。文部省が刊行した資料(1929〜1940,1941年)
3)には,徳島県については商品陳列所(1929年)や動物園(1932〜1934年)を除くと,記載はない。また,日本博物館協会機関誌『博物館研究』6巻9号(1933年),同7巻9号(1934年)4)に掲載されたリストでは,徳島県の施設は商品陳列所のみである。
 このようなことからすれば,敗戦前の徳島県における博物館という課題設定自体が成り立たないかのような観があることは否めない。だが,そのような認識に立つとき,形をなさないままに終わった未完の博物館や,上記のような資料には現れない施設が存在したとしても,それらは博物館史に位置づけられることなく忘却の彼方へと追いやられてしまうことになるのである。
 この解説では,展示では触れることのできなかった点も含めて,戦前期の「忘れられた博物館」を紹介し,併せて徳島県博物館の開設に至るまでの戦後の動向に触れてみたい。

 

2 阿波郷土研究会と博物館構想

 まず注目しておきたいのは,『博物館研究』7巻1号(1934年)における「博物館ニュース」の記事5)である。全文を掲げておこう。

徳島に考古博物館 徳島郷土研究会では,城山公園貝塚の発掘品,県全体にわたる石器時代の遺物およびこれらの写真その他絵画,彫刻など,太古の時代を知るに足る貴重な資料の散逸を防ぐべく,今回これらの貴重品を収容する考古博物館を建設せんとする計画中である。工費は約一万円,この外五千円を基金とし,県内外の同好者の寄附を俟ち,徳島公園か眉山公園のいづれかに設置,混凝土二階建六十坪のものを建設し,階下を展覧室に,階上は小集合所に充てんとするものである。

 城山貝塚は,1922年に徳島県出身の人類学者 鳥居龍蔵(1870〜1953)が調査を行ったことで著名な遺跡で,徳島城跡の徳島中央公園内に位置している。鳥居による調査の際の出土遺物は現在,東京大学総合研究博物館が所蔵している(一部は徳島県立鳥居記念博物館が借用・展示)。これらの資料を中心にした博物館を,徳島市のシンボル的な観光名所であった徳島公園か眉山公園というに建設しようという計画だったことが分かる。建築構想,資金計画等はかなり具体的であるが,以後『博物館研究』誌上にはこれに関連する記事は現れない6)
 ここで問題とすべきは,記事中の「徳島郷土研究会」である。当時の徳島県で活動していた団体に,このような名称のものは確認できない。名称の類似性から考えると,「阿波郷土研究会」(以下「郷土研究会)を指すものと思われる。
 郷土研究会は,1930年,徳島県立光慶図書館長 坂本章三の発案により,郷土史家が集まって発足した。1936年に阿波郷土教育研究会(1934年発足)と合併し,阿波郷土会と改称した。1944年1月まで例会活動を続けていたが,その後中絶した。戦後再建され,徳島県立図書館長を会長として存続してきたが,2001年に県立図書館との関係を解消し,その翌年には解散した
7)
 郷土研究会がどのような理由によって博物館建設を企てたのかは分からない。光慶図書館長の肝煎りで活動していたことから,光慶図書館の後進である現在の県立図書館に何らかの手がかりが残されていないかと思ったが,残念ながら関連する資料は見つからなかった
8)
 断片的ながら,戦前から戦後にかけて活躍した博覧強記の郷土史家であった飯田義資(1894〜1973)
9)がまとめた「例会開催一覧」10)によると,1933〜34年にかけて博物館建設計画について議論していたことは確かなようである。関係箇所を摘出してみよう。

  ○第13回 8・10・29・ 雨 瑞巌寺 26名 通知坂本謄写版 司会坂本 
   1.研究発表 (中略)(2)阿波郷土資料館建設に就て−小川(後略)

  ○協議会 8・11・2・ 晴 光慶図書館予備室 8名 通知小出ペン書 7.30−10.10
   郷土資料館建設の件

  ○第15回 9・4・29・ 雨 蓮華寺 23名 通知坂本謄写版 司会坂本 1.20−5.00
   1.研究発表 (1)千寿丸の墓・郷土博物館設置について−小川(後略)

 これら「郷土資料館」「郷土博物館」が,先の考古博物館に該当するものと思われる。この件だけを議題とした協議会が開かれているほどだから,相当熱が入っていたのだろう。検討内容は不明ながら,当時の新聞によれば,第13回例会の発表は「郷土博物館につき其必要論を述べ」たものであったらしい。また,第15回例会についても記事に見えており,「郷土博物館として鷲門脇借用の場合使用料調達方法に就て」とあり11),具体的な立地を想定した議論が行われていたことが分かる。「鷲門」とは徳島城の門で,戦災で焼失している。現在徳島中央公園入り口の跡地に原寸大で復元されている。
 こうした論議は,例会での発表を行っていた「小川」が主導していたものであろう。先の新聞記事によれば,これは創設以来のメンバー
12)であった小川国太郎(1876〜1944)を指している。やはり飯田が記すところによると,小川は元新聞記者で,「鳥居竜蔵博士の知遇を得て徳島人類学会の創立に参列し,人類学者を以て自ら任じ,また考古学に興味を抱」いたということである13)。こうした関心からすれば,その博物館構想も考古学的な方面に集中したであろうことは容易に想像できるし,先の『博物館研究』の記事に「考古博物館」とあったのもうなずける。
 また,郷土研究会員には,小川と関係の深い者もいた。同じく創立以来のメンバーでもある森敬介(1888〜1947)がそうである。森は「東京帝国大学理学部人類学教室の鳥居竜蔵博士の許で標本整理に従事し」た経験をもち,「考古学・人類学にも興味を持ち,(中略)徳島県人類学会の熱心な会員であった」という。そして,「小川国太郎氏を助けて『川内村史』・『名東郡史』の編集に関与」しており
14),小川との交流は密接であった15)。そうしたことからすると,森も小川とともに博物館建設をめぐる議論に関わったと思われる。事実,森は1927年,光慶図書館における「石器時代出土品」展を手がけたらしい16)ので,関係資料を常設した博物館を実現したいという考えを抱いていたとしても不思議ではないであろう。
 さて,結果的にはこのときの博物館計画は実現しなかった。おそらくこの事情を知っていたはずの飯田による回顧の類
17)には,まったく触れられていない。一時的な高揚はあったものの程なく収束してしまったのかもしれない。

 

3 博物館ふたたび―喜田貞吉の影 

 先に引いた「例会開催一覧」を見ると,1938年に至って次のような記載も見られる。

  ○第31回 13・4・24・ 曇後晴 実相寺 16名 通知飯田謄写版 司会池上 2.20−6.00
   (中略)
   2.協議 (中略)(3)喜田博士の郷土博物館の件−坂本

  「喜田博士の郷土博物館」が,徳島出身の歴史学者 喜田貞吉(1878〜1939)の業績を顕彰しようとするものだったのか,それとも喜田から博物館建設促進を求められたのかは分からない。また,この協議の状況や結論についても不明である。
 時期は遡るが,喜田は第4回全国博物館大会(1932年)の席上で次のような発言
18)をしており,興味深い。

私の方針としましては,各地方の研究資料は,出来ることなら,その地方に於いて保存し,研究者が其処へ行けば,いつでも自由にそれを閲覧調査することが出来るやうにしたいといふにあります。それで近頃流行の郷土博物館の完成を盛んに提唱したいのであります

 こうした発言が何らかの関係をもっているのかもしれないが,上の協議の時期とはあまりにもずれており,かすかな可能性というしかない。大阪在住の阿波郷土史家だった後藤捷一(1892〜1980)は,雑誌『郷土研究 上方』63号阿波特集(1936年)を編集しているが,喜田はこれに「阿波の考古学的瞥見」19)を寄稿している。阿波における考古学的な調査や研究成果の蓄積を促しているが,こうした趣旨と博物館の必要性がセットになってとらえられた可能性もある。とはいえ,確実な史料に恵まれない以上,憶測はここまでにしておこう。
 なお,郷土研究会(郷土会)に関わる博物館建設の動きはこれをもって最後となっている。

 

4 徳島県教育会による博物館建設の建議

 前節までに見た郷土研究会とは別に,教育者の団体である徳島県教育会(以下「教育会」)20)が博物館の建設を促す動きを見せたこともある。しかし,これらもまた実現していない。
 教育会の総会議事には次のようなものが見られる。まず,1926年5月30日開催の第35回総会では,建議案の34号として「郷土博物館建設ヲ県知事ニ建議スルノ件(脇町中学校提出)」とある
21)。ただし,具体的な動きをともなったかどうかは不明である。
 また,1938年6月5日の第47回総会では,建議案2号に「皇紀二六〇〇年ノ記念事業トシテ郷土館ヲ建設セラルヽ様筋ニ建議スルノ件(徳島市教育会提出)」が見える
22)。これについては,次のような説明が行われた。

輝かしき皇紀二六〇〇年の紀念として,その経典を銘記すべき事業として郷土館を建設し先人偉哲の遺品等を蒐集陳列し,郷土愛の精神を養ひ,県人将来の修養の中心点たらしめんとす

 この提案は「満堂拍手の裡に賛成可決」され,実際に建議が行われることになった。そして,同年7月5日,総会の議決を受けて教育会長が県知事に「皇紀二千六百年記念事業として県に於て郷土館を建設せられたし」と建議している23)。その理由説明を見ておこう。

 八紘一宇の大理想の下に益信しつゝある我が皇国は昭和十五年を以て悠遠世界無比なる建国二千六百年を迎ふることゝなれり,之畢竟我が国体に発し歴史に培はれたる国民の燃ゆるが如き祖国愛の迸りの結晶に外ならず,而して此祖国愛の根源をなすものは実に郷土愛の至情なりとす,即ち郷土を理解し敬愛し先賢偉哲の業績に接して敬慕奮起の情を喚起するは国民精神振起の基調たり,然るに本県には其種施設の見るべきものはなく為に人材の育成上にも遺憾尠なしとせず
 故に皇紀二千六百年の紀念すべき年に際し県の記念事業として郷土館を建設し光慶図書館,西ノ丸運動場と相並んで本県文化向上施設の完璧を期せられんことを要望するものなり

 ここに明らかなとおり,教育会が求めたのは,1940年における「皇紀2600年」を契機とした,愛国心の基盤たる郷土愛や先人への崇敬の念を涵養する施設の建設であった。建議を受けた県側の対応は不明だが,こうした建議と併行して教育会内部でも,総会における協議題「皇紀二千六百年記念トシテ行フベキ適切ナル教育事業如何」に対する委員会答申案で「教育会ニテ行フベキ適切ナル事業」のひとつとして「本県郷土館ノ建設」が掲げられている24)
 だが,実際には,1940年における事業概要
25)にも郷土館に関する記載は全くなく,建設準備への着手以前に頓挫したものかと思われる。すでに戦争に踏み込んでいる当時の状況としては,資金的にも無理があったのかもしれない。
 なお,「皇紀2600年」記念事業についての機運の高まる中,国立歴史博物館たる国史館建設の構想があった
26)が,徳島県教育会の郷土館計画も,そうしたものと関連する可能性があろう。また,時期からすれば,先の「喜田博士の郷土博物館」は,この動きと連動するものかもしれない。
 残念ながら,この時期の教育会の関係資料は,機関誌以外には残存しておらず,同会の博物館への関心のあり方を具体的に知ることはできない。ここでは,上述のような動向があったことを指摘するにとどめておきたい。

 

5 1930年代という時代―郷土博物館・郷土教育興隆の中で

 以上に見てきた博物館建設に関わる動向は,教育会の1926年総会での建議案を除けば,いずれも1930年代のことであった。そこで,この時期に博物館が求められる固有の理由があったのか考えておく必要があるだろう。
 これに関して注目されるのは,1930年代に全国的に進んだ郷土博物館の増加傾向である。とりわけ学校博物館の増加がその基軸をなしているが,その背景には,文部省による郷土教育振興政策,学校教育関係者による郷土教育運動の高揚,博物館界における博物館設立運動があったことが指摘されている
27)
 当時の博物館界における郷土博物館への関心は高く,『博物館研究』には頻繁に郷土博物館をテーマにした論文や記事が見られる
28)。その中での学校博物館の占めるウェイトは大きいものであった。例えば,第3回全国博物館大会(1931年)では,主催者である博物館事業促進会(日本博物館協会の前身)による提出題への答申に,「本邦郷土博物館施設促進ノ最適切ナル方策」があり,中には「各市町村ニ於テ博物館施設ヲナシ得ザル場合ニハ学校,図書館其ノ他公共ノ建設物等ニ附設スルコト」という項目が見える。さらに,同じ答申には「図書館学校等ニ附設セル郷土資料室ヲ博物館トシテ公開スル最善ノ方法」もある29)。このように,学校博物館は郷土博物館整備の一環に位置づけられ,独立の施設を用意できない場合の便法としては重要な位置を占めていたのである。
 徳島においても,こうした状況と直結する動きは進んでいた。『博物館研究』4巻1号,同4巻2号
30)には立て続けに徳島の動向が報じられている。前者においては,「徳島に教育博物館設置」という見出しのもと,徳島師範学校附属小学校における教育博物館設置に向けての状況が記され,次のとおり方針も具体的に見える。

大体の資料は郷土に於ける衣食住,生活全般に亘るもので,なほ内地新領土は勿論,世界の風俗,特産物,名所及び旧跡の絵葉書案内,地図等,あらゆる教育資料の蒐集陳列をなす

 後者には「徳島師範の郷土博物館」と見出しが付き,徳島県男女両師範学校が文部省の郷土研究資金を得て資料収集にあたっていること,また,それが小学校の郷土研究・郷土教育に刺激を与えていることや男子師範附属小学校の博物館建設着手などが記されている。「昭和六年の教育界は郷土研究と郷土教育を以て華々しく展開されるであらうといはれてゐる」と結ばれており,文部省の補助金交付を契機として郷土教育が急速に興隆した様子が知られる。
 ここで焦点となる男女両師範学校の動向は,先の飯田が次のように回顧している
31)

昭和五年文部省は,各府県師範学校に対して郷土資料蒐集のための経費を交付したので,両師範学校の郷土研究が始まり,女子師範学校の郷土館が完備せられ,師範学校の郷土室が整備せられて,光慶図書館,女師郷土館,男師郷土室の三箇所を合すれば,県下の郷土関係の書籍は殆ど全部網羅せられて居たのであった。

 飯田が文献史家であったことから,いきおいその関心は文献整備の様相へと向かうのであろうが,両校の郷土室・郷土館の充実ぶりが語られており,郷土研究・郷土教育の拠点が整っていたと認識されていたようである。
 男子師範の1941年現在の教育方針
32)によれば,同校の郷土室は「本県ヲ中心トシテ郷土ノ資料ヲ蒐集陳列シテ之レガ研究ヲ行」うものであり,「別ニ附属国民学校ニモ施設ス」ともあるものの,実態は判然としない。一方の女子師範郷土館については,『郷土教育の概覧』(1934年)という詳細な要覧33)により,概略を知ることができる。これによれば,1930年,文部省による郷土研究施設費交付を受けて「模型,地図,図表,研究物の製作,標本,図書,絵葉書等の蒐集並に写真撮影等の作業」に取り組み,「地歴教室及び合同教室に整理陳列」したという。さらに,「当時の雨天体操場を修理改築して郷土博物館,郷土研究室及び郷土科の教室としての性質を具有する『郷土館』」が1932年に落成したのである。同書には詳細な「郷土研究資料蒐集目録」も掲載されており,郷土館の実相が彷彿とする。地理部,理科部,産業部,歴史部,文学部,美術工芸部,行政経済部,体育衛生部,教化修養部,風習娯楽部,一般図書に分類されており,全体としては膨大な量なので,ここでは逐一紹介しない。大まかにいうなら,飯田が評価した文献はもちろん,生物・地学関係標本や古瓦,刀剣,古文書,拓本,民具といった,まさに博物館的な実物資料を含む多様な資料が収蔵されていたことがうかがえるのである。
 本節で見たような情勢が,郷土研究会(郷土会)や教育会における郷土博物館待望論の触媒となり得たことは想像に難くない。とくに女子師範郷土館は学校博物館とはいえ,かなり本格的な博物館としてのスタイルをとったらしいことから,その影響は大きかったと思われる
34)

 

6 戦後へ―未完の憲法記念館構想と徳島県博物館の誕生

 最後に,戦後において徳島県博物館が誕生するに至るまでの状況を,とくに徳島県憲法記念館(県立図書館)に注目しつつ,記しておきたい。
 憲法記念館は,戦災で全焼した光慶図書館が再建されたものであるが,興味深いことに,再建にあたっては博物館としての機能を併せ持つことが意識されていた。館長岡島幹雄は徳島市長に宛てた文書(1945年)において,「図書館再興ニ関シテハ旧戦災跡ニ科学館(電気館モ含ム)郷土館,博物館ノ内容ヲ加味セル総合的ナ図書館」の建設を説いているのである
35)。後に具体化した再建計画は,「憲法記念館」として推進されたが,その趣意書には憲法記念館の持つべき機能について,次のような記載が見られる36)

自ら教養を求めて自助自学する図書館。眼に訴え耳に訴え感覚に訴える等,環境に依ってする科学館,美術館,博物館,郷土館。常に討議し研究し,自己を主張すると共に他の説を聞いて反省し協力する会議場。衆と共に放送や講演や音楽を聞き,映画や演劇を観て文化を享受して行く集会場

 ここには,博物館をも包含した複合文化施設の構想があったことが分かるのである。計画図を見ると,展示室として想定されていたものであろうか,美術博物室,郷土室,科学室が配置されている37)
 憲法記念館は1949年5月に開館したが,室配置は計画図とは異なっており,上に触れたような各室は置かれなかったようである。主催行事には浮世絵展や法隆寺文化展など博物館に通じる性格のものもあったが,日常的に博物館的な活動をした様子はない。そして,開館から1年もたたない1950年3月,書庫を除いて全焼した
38)。憲法記念館の構想は未完に終わったといってよいであろう。
 もちろん,こうした図書館再建に関わる構想が,敗戦前に断続的に現れた博物館構想と関連すると断言はできない。しかし,郷土研究会発足以来の会員であり,また教師として郷土教育にも熱意を見せていた岩村武勇(1908〜1984)が再建支援に尽力したことが伝えられている
39)ので,何らかの接点はあったのかもしれない。
 その後1959年,徳島県初の本格的な博物館である徳島県博物館が開館した。「産業および科学に重点を置く総合博物館を創設しようとする気運が,昭和30年ごろからしだいにたかまり」,やがて県民からの募金によって結実したのであった。その体制は県知事を筆頭にした県民運動のスタイルがとられており
40),募金への協力のために勤労奉仕を行った児童生徒の姿も写真41)に残されている。それほどまでに熱烈に期待された博物館には,郷土資料を展示する機能はあったし,郷土史家などの協力を得て資料の確保を行っていた42)が,博物館建設を促した価値観の核はそこにはなかった。その意味からすれば,徳島県博物館は空間としての郷土徳島県と県民に軸足を置いた「郷土博物館」ではあったものの,戦前の「忘れられた博物館」の系譜にはつながらなかった。博物館は時代の産物として誕生するということを物語ってもいるだろう。

 

1)例えば,徳島県史編さん委員会編『徳島県史』5・6,徳島県,1966・67年,徳島県教育委員会編『徳島県教育八十年史』徳島県教育委員会,1955年,徳島県教育会編『徳島県教育沿革史』続編,徳島県教育会,1959年など。

2)『國學院大學博物館學紀要』21,1997年。

3)1929年は文部省普通学務局『常置観覧施設一覧』,他は文部省社会教育局『教育的観覧施設一覧』。いずれも伊藤寿朗監修『博物館基本文献集』9,大空社,1990年所収。
  なお,これらは集計基準が一貫していない上,誤記も多いので注意が必要であることが指摘されている(伊藤寿朗「第九巻 『常置的観覧施設一覧』『教育的観覧施設一覧』解説」[伊藤寿朗監修『博物館基本文献集』別巻,大空社,1991年])。

4)いずれも日本博物館協会編『博物館研究』2,日本博物館協会,1979年所収。

5)日本博物館協会編,前掲(注4)書による。

6)徳島県立図書館所蔵『徳島毎日新聞』,『徳島日日新報』,『大阪朝日新聞徳島版』(いずれもマイクロフィルム)も検索したが,別に記すような阿波郷土研究会例会における博物館についての記載以外は見あたらなかった。ただし,『大阪朝日新聞徳島版』以外については欠紙分が多いので,注意が必要である。

7)飯田義資編『阿波郷土会創立三十年史』阿波郷土会,1961年。

8)新孝一氏(徳島県立図書館),故絹川元一氏のご協力・ご教示を得た。

9)飯田義資の略歴については,三好昭一郎「飯田義資」(『徳島県人名事典別冊 徳島県歴史人物鑑』徳島新聞社,1994年)参照。「つねに阿波郷土会の最高指導者として活躍」したと評されている。

10)飯田編,前掲(注7)書。末尾に「筆者(飯田―引用注)の備忘ノートから摘出して編成した」とある。

11)第13回例会については,『徳島毎日新聞』1933年10月31日付。第15回例会については同紙1934年5月2日付。

12)創立時のメンバーについては,『徳島日日新報』1930年5月27日付,飯田「阿波郷土会三十年の回顧[講演筆記]」(飯田編,前掲[注7]書)に見える。

13)飯田「物故先人録」(飯田編,前掲[注7]書)。

14)前掲(注13)稿。

15)小川や森の考古学的な業績については,天羽利夫「徳島県関係考古学文献目録」(『徳島県博物館紀要』2,1971年)参照。

16)飯田義資「光慶図書館の回想」(徳島県立図書館編『徳島県立図書館七十年史』徳島県立図書館,1987年)。これは,1966年に行われた県立図書館創立50周年記念講演の筆録を,飯田自身が校閲したものである。

17)飯田,前掲(注12)論文,羊我山人(飯田の筆名)『郷土研究と泉山先生』私家版,1957年。

18)喜田貞吉「郷土研究資料の蒐集と保存」(『博物館研究』5巻10号,1932年[日本博物館協会編,前掲[注4]書])。

19)『喜田貞吉著作集』1,平凡社,1981年。

20)教育会の沿革等については,吉見哲夫編『徳島県教育会百年誌』徳島県教育会,1988年参照。

21)『徳島県教育会雑誌』242号(1926年)。

22)『阿波教育』342号(1938年)。

23)『阿波教育』343号(1938年)。

24)『阿波教育』344号(1938年)。

25)「昭和十五年度徳島県教育会事業概要」(阿南市富岡小学校蔵)。

26)国史館計画については,金子淳『博物館の政治学』青弓社,2001年参照。

27)金子淳「学校教育と博物館『連携論』の系譜とその位相」(『くにたち郷土文化館研究紀要』1,1996年)による。伊藤寿朗「日本博物館発達史」(伊藤寿朗・森田恒之編『博物館概論』学苑社,1978年),内川隆志「郷土教育の変遷II」(『國學院大學博物館學紀要』19,1995年)なども参照した。博物館への関心は見られないが,郷土教育運動の具体相については,伊藤純郎『郷土教育運動の研究』思文閣出版,1998年が詳しい。

28)日本博物館協会編『博物館研究』1・2,日本博物館協会,1979年。

29)『博物館研究』4巻7号(日本博物館協会編『博物館研究』1,日本博物館協会,1979年)。

30)日本博物館協会編,前掲(注29)書。

31)飯田,前掲(注17)書。

32)徳島大学教育学部同窓会編『教学百年』徳島大学教育学部同窓会,1974年。

33)徳島県女子師範学校・徳島県立徳島高等女学校郷土研究部編・刊。徳島県立文書館蔵。

34)同校では,1937・38・40年,徳島県郷土教育研究会が開かれている(徳島大学教育学部同窓会編,前掲[注32]書)。当時の郷土教育の中核といってよいであろうから,そういう点からも影響力が考えられる。

35)徳島県立図書館編,前掲(注16)書。

36)徳島県立図書館編,前掲(注16)書掲載の写真による。

37)徳島県立図書館編,前掲(注16)書掲載の写真による。

38)開設された憲法記念館の実態については,徳島県立図書館編『徳島県立図書館50年史』徳島県立図書館,1966年参照。
  なお,焼失後の憲法記念館再建に向けての陳情書(1950年12月2日,徳島県立図書館蔵)には,「博物館」という語句は見られないが,このことも憲法記念館が博物館機能を持ち得なかったことの傍証になろう。

39)徳島県立図書館編,前掲(注16)書。岩村の郷土教育に関する取り組みの片鱗は,教育会機関誌『阿波教育』275・276号(いずれも1932年),279号(1933年)に分載された「徳島県郷土史教材略説」などにうかがえる。

40)徳島県教育委員会・徳島県博物館建設期成同盟会編『博物館建設のあゆみ』徳島県教育委員会・徳島県博物館建設期成同盟会,1959年(徳島県博物館編『徳島県博物館三十年史』徳島県博物館,1990年所収)。

41)徳島県博物館編,前掲(注40)書。

42)徳島県博物館編『郷土室資料目録』徳島県博物館,1961年。

 

(※)この解説は、長谷川賢二「戦前期徳島における博物館事情」(『博物館史研究』11,2001年)を改題・改稿したものである。原論文執筆時に不十分だった徳島県教育会の動向については,その後の調査に基づいて補ってある。

 

展示のようす