阿波の足利家とまじない

(徳島県立博物館ニュース33[1998年]の「レファレンスQ&A」欄を改題・改稿)

 

 足利家といえば、室町幕府の将軍としてよく知られていることでしょう。中世には社会の隅々まで呪術信仰が行き渡っており、もちろん将軍家も無関係ではなかったわけですが、ここでのお話は将軍家とまじないの関係についてというわけではありません。阿波に住んだ足利将軍の一族とマムシよけのまじないのお話です。

 徳島県南の那賀郡那賀川町には、かつて足利将軍家の一族が住んでいました。その始まりは、室町幕府11代将軍足利義澄の子であった足利義維(後に義冬に改名、1509〜1573)で、彼は阿波国守護細川之持に養育されました。大永7年(1527)堺に上陸し、京都に入りますが、後見人だった三好元長が自害したため、淡路に逃れました。その後、天文3年(1534)、阿波国守護細川持隆によって阿波に迎えられ、那賀郡平島郷(現 那賀川町)に住むことになりました。その後、義冬はいったん周防(現 山口県)に移り、さらに阿波に戻って生涯を終えています。長男義栄(1538〜1568)は14代将軍になりましたが、次男義助(1541〜1592)とその子孫は、平島に留まりました。このように平島に住んだ足利氏の当主を阿波公方(平島公方)といい、義冬を初代と数え、9代義根(1747〜1826)が文化2年(1805)に京都に移るまで続きました。1)

 さて、この阿波公方とまじないの関係は次のように伝えられています。阿波公方4代の義次(1596〜1680)のとき、館のすす払いをしていると、床下にマムシなどの死骸がたくさん死んでいたことから、足利将軍家の威光を恐れて毒蛇が死んだといううわさが立ったといいます。この話を聞いて、マムシよけの守札を求める人々が相次いだため、公方家では「阿州足利家」と紙に書き、「清和源氏之後」という朱印を押した札を発行するようになり、義根の代まで続いたそうです。

 阿波公方が配ったという守札は、徳島県内各地に伝わり、また、大きさもさまざまです。札を懐に入れて野山に出るとマムシにかまれないとか、ヘビに見せれば追い払えるなどと信じられていました。一般に見られるのは、写真のような形式で書かれたもので、阿波公方の館跡にたつ那賀川町立歴史民俗資料館に展示されている札も同様の形式のものです。なかには、鴨島町の冨樫栄一氏宅に伝わっていた札(当館保管)のように、横書きで「足利家」と大書された珍しいものもあります。

 ちなみに、平島では「くちなわ咬まず、はみ咬まず、平島生まれの戌の年の男」と3度唱えれば、マムシに咬まれないという言い伝えがあるそうです。戌年は足利義栄が生まれた天文7年(1538)のことを指しているようです。

 ところで、阿波公方とマムシよけの信仰がなぜ結びついたのかは分かりません。少なくとも、足利将軍の一族であれば、名門であり、その貴種性ゆえに信望を集めたことは容易に考えられます。そうした足利家に対する意識が、特異な呪力をもつというイメージを植え付けることになったのかも知れません。あるいは、人々の徳島藩への反抗意識が、足利氏をことさらに「公方」と呼ばせ、特殊な能力が期待されることになったとも考えられます。いずれにせよ、なぜマムシなのかは、やはり謎です。

注1)今日、当たり前のように「阿波公方」ということばが使われており、那賀川町へ行くと、郷土菓子の銘柄にも「阿波公方」とあったりします。しかし、いつ頃からあった呼称なのか、また、どのような実態から「公方」と称したのかという基本的な問題が意外に問われていないのです。もちろん、私も答えを持ち合わせているわけではありません。今後の課題です。

 
「阿州足利家」銘呪符
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