四国遍路のはじまり

(徳島県立博物館ニュース17[1995年]の「レファレンスQ&A」欄を改題・改稿)

 

 四国の宗教文化を考えるとき、四国遍路を抜きにすることはできません。四国遍路とは、弘法大師ゆかりとされる霊場寺院(札所)88カ所を巡拝する習俗で、今日も根強く続けられています。

 ところが、そのはじまりについては、史料がほとんどなく、確かなことは分かっていません。弘法大師が始めたともいわれますが、事実ではありません。また今日まで、熊野信仰との関係、一宮信仰、山岳信仰、海の信仰など、多様な要素が指摘されてきてもいます。それほど、四国遍路の成立の背景は複雑だということなのでしょう。

 ここでは、四国遍路の成立につながっていくと考えられる宗教者や霊場の動向について、時代をおって紹介してみることにします。

 古代〜中世初頭には、聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動が目立つようになります(往生伝や仏教説話集をみればよく分かります)が、12世紀には、彼らの修行場として「四国辺地」がありました。これは四国の海岸部をめぐる修行の道でした(今昔物語集)。

 いっぽうで、11世紀に弘法大師信仰がさかんになり、大師が讃岐出身だったこともあり、四国はとくに重視されました。現在の88カ所霊場に含まれている太龍寺(21番)、金剛頂寺(26番)、曼荼羅寺(72番)、善通寺(75番)などは、史実の上からも大師とのつながりが分かっていますが、この頃には大師信仰の霊場として地位を固めたようです。しかし、「四国辺地」との関係はわかりません。

 中世には、山伏が「四国辺路」を行いました(醍醐寺文書)。これは、四国を旅する修行と思われます。山伏は聖の一種でもあり、霊場を渡り歩いて修行しました。同様の旅の宗教者として時衆聖や六十六部聖がありました。時衆聖の祖である一遍は、山中にある岩屋寺(現在は45番札所)で修行したり、熊野へ詣でたりしました。また、六十六部聖は、中世後期から近世にさかんでしたが、近世初頭の彼らの四国における霊場は、今日の札所寺院と一致しており、太龍寺(21番)、竹林寺(31番)、大宝寺(44番)、雲辺寺(66番)でした(奈良市中之庄経塚出土史料)。

 以上のことから、「四国辺地(辺路)」をベースに、さまざまな聖たちの活動や弘法大師信仰が連鎖的に複合し、88カ所をまわる四国遍路がはじまっていったと考えられます。

 なお、四国遍路が霊場寺院をつなぎ歩くことに基本があることから、霊場を結ぶ役割を果たした存在を考えておく必要があります。私はとくに、中世後期に各地で地域的な結合組織をつくる山伏の存在は、そのカギになると考えています。

 ところで、高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘(文明3年[1471])には、「村所八十八ケ所」とあります。これが88カ所のミニチュアを指すのなら、四国遍路のはじまりは、銘の年代以前ということになりますが、真偽のほどは謎です。

 
四国遍路絵図
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