四国遍路の歴史

(日経マスターズ2005年4月号「江戸時代に大衆化した四国八十八カ所巡り」を一部修正)

 

 

四国遍路の源流―古代・中世

 四国遍路はどのように始まったのだろうか。空海が始めたとか、右衛門三郎が空海を追って四国を巡ったのが始まりだなどといわれるが、確かなことはわからない。

 四国遍路の歴史を考える上で、まず注目しなければならないのは、古代末期から中世初頭における聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動である。彼らは、人里離れた山や洞窟などで修行したが、なかには、四国の海岸沿いを歩む「四国辺地」の修行をする者がいた。これが四国遍路の祖型である。

 一方で、11世紀に弘法大師信仰がさかんになる。空海が讃岐出身だったことや、若き日に四国で修行した事実から、信仰の中では四国は重要な位置を占めた。現在の札所でもある太龍寺、金剛頂寺、曼荼羅寺、善通寺などは、この頃、大師信仰の霊場として地位を固めていった。ただし、「四国辺地」との関係は不明だ。
 中世には、聖の一種でもある山伏の修行として「四国辺路」が行われた(京都醍醐寺文書、神奈川県愛川町八菅神社所蔵碑伝)。「海岸大辺路」ともいわれたらしく(徳島県神山町勧善寺所蔵大般若経)、「四国辺地」の系譜が生きていたのである。山伏と同様の旅の宗教者である時衆聖や六十六部聖なども、四国遍路の形成に関わっていたと考えられる。

 以上のことから、「四国辺地(辺路)」をベースに、さまざまな聖たちの活動や弘法大師信仰が連鎖的に複合し、四国遍路が成立したのだろう。

 文明3年(1471)の高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘には、「村所八十八ケ所」と刻まれている。これが四国八十八カ所のミニチュアならば、八十八カ所という霊場群の起源は、15世紀にまでさかのぼることができる。ただ、そうだとしても、明確に札所が固定されたものであったかどうかはわからない。

 

八十八カ所巡拝の定着と大衆化―近世

 16世紀には、俗人による遍路が見られるようになる(土佐一宮落書など)。宗教者の修行である「四国辺路」とは性格が変わりつつあったのだろう。

 そして江戸時代になると、固定された八十八カ所の巡拝として四国遍路が定着し、大衆化した。とくに、17世紀後半、ガイドブックが出版され、不特定多数の読者に情報が伝えられるようになった意義は大きい。

 この大衆化に大きな貢献をしたのが、高野聖とも伝えられている真念である。彼は、初の四国遍路ガイドブック『四国辺路道指南』(1687年刊)を執筆した。この『四国辺路道指南』は、経路の明確化を意図して作られ、詳細な情報が記されている。初めて八十八の番号と札所が一対一で対応させられた点でも特筆される。以後、改訂・増補を重ねて150年以上にわたって利用されたロングセラーだった。

 真念は、『四国偏礼霊場記』(1689年刊。真念の情報をもとに、高野山の学僧寂本が札所の見取り図や由来などをまとめたもの)、『四国偏礼功徳記』(1689〜90年刊。真念によりまとめられた霊験記集成で、寂本の序をもつ)にもかかわっている。また、道標を建立するなど、遍路の行程に即した環境整備も行った。

 さらに遍路の大衆化に貢献したものとして注目すべき出版物が絵図である。宝暦13年(1763)、細田周英による『四国偏礼絵図』が刊行された。西国巡礼のような案内図がなかったので作られたものだという。ほかにも数種類の遍路絵図が知られているが、これらの絵図もガイドブックと相まって、遍路へと人々を誘ったであろう。

 では、遍路者はどんな人たちだったのだろうか。出身地は、四国や近畿、山陽を中心とし、東日本や九州は少なかった。遍路を行った人数は、18世紀後半から増加し、19世紀前半にとくに多くなっていた。また、近世を代表する遠隔参詣だった伊勢参りなどと比べると、個人参拝や女性、病人、困窮民の多さが特徴だった。

 

低迷から変貌、そして癒し―近代・現代 

 明治時代初頭、四国遍路は低迷期を迎えた。その原因として、まず神仏分離政策が挙げられる。札所には神仏習合色が濃厚な寺院が少なくないため、影響を蒙ったのだろう。また、急速な近代化のなかで、病人や困窮民が多数含まれる遍路者への忌避感もあった。

 しかしながら、遍路が途絶えたわけではなく、200基を超える道標を建てた中務茂兵衛のような人物もいた。

 やがて、新しいスタイルが生まれる。自動車や鉄道などの発達により、短期間での移動が可能になったため、知識人や裕福な都市住民による遍路が見られるようになったのである。ただし、多くの場合、実態は観光であった。

 太平洋戦争末期から敗戦直後の事実上の中断期を乗り越え、1950年代頃から遍路は復興する。さらに、高度経済成長期、モータリゼーションの進展する中、団体巡拝バスの運行やマイカーでの遍路行がさかんになった。観光的要素と同時に、物質的にめぐまれた時代のなかで欠落してきた精神の安穏を求める志向が相まって、長期的な遍路ブームが続いた。

 そして21世紀初頭の今、経済の低迷、社会不安のなか、「癒し」や自分探しの旅として四国遍路の人気は、世代を超えて高い。最近は徒歩による遍路も人気を集めている。休憩所の新設、遍路道の整備など、遍路の環境を改善する動きも盛んだ。四国遍路の歴史は、まさに「現在進行形」なのである。
 

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