四国遍路における札所制の源流・試論

 (『新世紀男女共生社会へのメッセージ いきいき絆リポート』5[2014年3月]掲載の「四国遍路における札所制の源流」を改題)

 

 

 2014年は、空海による四国霊場開創1200年の節目とされており、すでに各札所は例年以上のにぎわいを見せている。これにちなむわけではないが、かねてから考えている四国遍路成立史の問題に関して、札所巡拝というシステムの形成の背景原動力について検討する必要があるのではないかと思っている。

 四国遍路には、弘法大師信仰はもとより、熊野信仰や念仏信仰など多様な要素が混入しているが、金平糖のように明確な核があってできあがったものではない。確かに、現在の四国遍路は大師信仰を中核としているが、これを唯一絶対の基盤とし習俗ではないのだ

 このように、現代では「常識化」したことをあえて問い直すことが、とくに成立過程に不明な点の多い四国遍路の研究には必要だと思う。札所制の成立もそうした課題の一つということができる。今ではあって当たり前の札所という存在が、なぜ登場するのか。仮説的な見解を提示してみたい。

 

修行としての四国辺地・四国辺路

よく知られていることだが、四国遍路の淵源として、平安時代末期、聖(ひじり)が行った「四国辺地(へち)」の修行がある。聖とは、既存の寺院秩序から離脱し、都鄙を往来しつつ、山林修行や寺社造営などを行った僧である。12世紀の『梁塵秘抄』や『今昔物語集』から、海水を浴びながら四国の海岸を巡る過酷な修行だったことが知られるが、語音と四国を「巡る」という行動様式において、四国遍路の最古態ということができる。

ただ、海岸巡りだけで完結していたかどうかは定かではない。霊験所として広く知られた霊場が四国の海辺に成立していたからである。『梁塵秘抄』によれば、当時の著名な霊験所室戸や志度寺があった。これらへの参詣が辺地修行と一体的に行われたことは想像に難くない。ちなみに、今日、札所として、室戸には、最御崎寺(24番)、津照寺(25番)、金剛頂寺(26番)があり、志度寺は86番札所である。

鎌倉〜南北朝時代、四国辺地の修行は「四国辺路(へち)」と記されることが多くなり、山林修行を専門とする聖である山伏による修行の体系に位置づけられていた。

 

「原札所」としての宿

史料に四国辺路という言葉は見られても、その中身は定かではない。改めて「辺地」と「辺路」の違いに注目するなら、「路」が重要である。素直に考えれば、経路の定型化を示しているだろうし、併せて山伏の修行としての一般化をも念頭に置くと、道中における作法も一定のスタイルに集約されつつある状況を物語ると思うのである。といっても、今日の「遍路道」や八十八ヶ所と同義ではない。 なぜなら関係する史料から、山林修行や自然界の霊験地の巡礼と同質性があったこと、海岸巡りの系譜が続いていたことが分かるからである。言い換えれば、平安時代の聖の修行のあり方が継続していたということである。

ただし、単にダラダラと四国の外周部を巡るものとして行われていたのかというと、そうではないだろう。この点に関連し、大峰・葛城山系をはじめとする、山伏の行場となっていた霊山に多々見られた「宿(しゅく)」という場に注目したい。宿とは、山中における仏神の居所、行場としての峰、滝、川、洞窟などのことで、修行ルートの固定化の中で通過ポイントとして定着したものである。そこには寺社が整備されている場合もあった。入山拠点でもある一宿であれば、山伏が必ず通るという意味での重要性からであろうが、どの寺社が該当するかということをめぐって争いが起きることもあった。宿の成立はまちまちと思われるが、葛城山系の場合、かなり古く平安末期から鎌倉初期、山林修行における宿ができていた。

以上を踏まえ、四国辺路の修行においても、長い行程の中で、一定の区切りとして宿の設定があったと想定するのが妥当であろう。

 四国遍路の札所制は、先行していた西国巡礼における札所、熊野参詣路における九十九王子といわれるほど多数の王子社の配置をモデルとしているだろうが、これらにしても、聖・山伏の修行の影響を受けたもの、すなわち宿を取り入れたとみてよい。西国巡礼は熊野という山岳霊場と関係の深い園城寺の僧の修行とて始まったものであるし、熊野参詣者を導いた先達は一般的に山伏であったから、いずれも宿を導入する条件があったとみられるのである。

四国辺路の行程に宿があったとすれば、四国外周の海岸部及びそれに近い内陸に設定されたと考えてよかろう。そして、こうした修行行程のポイントとなる宿こそが、札所の原形、すなわち「原札所」であったと想定できる。具体的にどこが該当したかは分からないが、先に挙げた海辺の霊験所などには、宿に含まれていたものもあっただろう。

このように辺路をとらえていくと、八十八ヶ所成立への環境が整いつつある状況として理解できるだろう。私たちはこれまで、四国辺地・辺路の修行と四国八十八ヶ所の巡拝を結ぶ作業仮説を持たないまま、議論してきた。八十八ヶ所が突如かつ一斉に現れるはずはなく、その前提として宿=「原札所」という考え方を提起してみたのである。

 

宿から八十八ヶ所へ

戦国末期、四国辺路は、聖・山伏の旅から俗人の旅へと、言い換えればプロからアマチュアへと担い手が転換しつつあった。この点に注目すると、過酷な海岸巡りがそのまま継続したとは考えにくいだろう。辺地・辺路の本来のあり方としての海岸巡りに準拠しつつ、安全性の高い内陸寄りの経路を含む巡礼へと再編されていくのではないか。その過程で、弘法大師の聖跡巡礼としての性格が強くなっていったのではあろう。こうした動きが室町時代から江戸時代初期にかけてみられ、最終的に八十八ヶ所巡拝として定着したというのが、大きな流れではなかろうか。

もちろん、八十八ヶ所の成立は自然なものではなく、人為的な設定がなされていると考えざるを得ない。大師信仰にもとづく巡礼として八十八ヶ所の番号と札所が初めて一対一で対応させられたのは、高野聖ともいわれる大坂の真念が貞享4年(1687)に出版した『四国辺路道指南』においてである。真念は遍路屋の建設や道標の設置なども進めたから、四国遍路を八十八ヶ所巡拝として完成させた人物ということができる。そこで、この段階を一応のゴールと考えておく。

ゴールの状況から人為的だと感じられるのは、例えば、各国の国分寺、一宮が網羅されていることにもうかがえるように、国という領域を意識した札所の配置がされていることも理由である。「国」を意識した巡礼としては、日本の各国ごとに1か所ずつ法華経を奉納する六十六部廻国巡礼があるが、これの影響を強く受けているのだろう。

このように、山伏の修行の中で成立した宿=「原札所」が、他の聖の活動と混然としながら整理・再編された結果が、八十八ヶ所であったと考えるのである。

 

以上考え方妥当かどうかは、さらに検討を要するだろう。また、「なぜ八十八なのかという素朴でありながら、重要な問題の答えも得られてはいない。その意味で、ここに述べたことは、視点の提起のための試論にすぎないことをご了解願いたい。

 

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