忌部神社はなぜ徳島市にあるのか

(徳島県立博物館ニュース58[2005年]の「レファレンスQ&A」欄を改題・改稿)

 

 徳島市二軒屋町の眉山南東中腹に鎮座する忌部神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命を主祭神とすることで知られています。阿波の忌部神社の歴史は古代に遡るものの、現在地に神社がつくられたのは明治時代のことです。なぜそうなったかというと、複雑な経緯があります。ここでは、その概略を紹介しましょう。

 阿波忌部とは、古代の宮中祭祀を担当した忌部氏に従属した集団です。忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭に際して、麁服という布を献上しました。また、2004年10月に吉野川市が誕生したことによって消滅した「麻植郡」(古代・中世は麻殖郡と表記)という郡名も、阿波忌部が麻を栽培したことに由来するという神話があります(『古語拾遺』)。

 このような古代阿波忌部の紐帯だったのが、麻植郡にあった忌部神社でした。『延喜式』神名帳に登載された、いわゆる式内社で、その中でも阿波に三社あった大社のひとつでした。

 そうした位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが、時代が降るうちに所在が分からなくなり、複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜を主張するようになりました。そのため、近世から近代にかけて、所在地論争が続きます。所在不明となったのは、地震による崩落のためとか、戦国期に土佐から侵攻した長宗我部氏に焼かれたからなどと伝えられています。

 現在の場所に忌部神社が置かれた直接のきっかけは、明治初年の所在地論争です。1871年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足した際、古代の式内社である忌部神社が、所在不明のまま、神祇官所管の国幣中社に列格されます。そこで、神社の特定が急がれました。

 ここで重要な役割を果たしたのが、小杉榲邨(1834〜1910)でした。彼は、近世末から近代にかけて活躍した国学者として著名ですが、その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が、式内社の系譜を引くものと判断されました。

 これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、激しい争いとなりました。本来は麻植郡にあった忌部神社の系譜を、美馬郡の神社に見いだそうとするのは奇妙なことですが、すでに『阿陽記』など、近世に民間で流布した地誌では、忌部神社がある地域はもとは麻植郡で、後に美馬郡になったとされ、美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられています。西端山側の主張には、そうしたものが底流にあったのです。そして、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。

 このように、所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されるに至りました。あわせて、五所神社は新しい忌部神社の摂社に位置づけられました。この決定については、異論はなかったようです。

 ごく簡単に述べてきましたが、忌部神社論争の詳細については、まだ不明な点が多くあります。地域史研究のあり方や地域意識の推移を考える手がかりとして、追究が望まれる課題でもあります。

 
嘉禄本古語拾遺(複製)
阿波忌部に関する部分
忌部神社(徳島市二軒屋町)

 

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