阿波の板碑

(1999.6.12 徳島県立博物館土曜講座「中世の民衆文化−板碑をめぐる信仰の世界−」の要旨)

 

はじめに
 板碑(いたび)は、阿波の代表的な中世文化の遺産です。道ばたや墓地、田んぼの中にたっているのを見かけることがありますし、当館の総合展示の「中世の阿波」コーナーに展示してあります。また、部門展示(人文)でも、徳島県石井町にお住まいだった故石川重平さんからご寄贈いただいた拓本を展示したことがあるので、ご覧になった方もあるでしょう。

 そうはいっても、一般的には板碑についてさほど知られているわけではないようで、展示室でも板碑を見て「お墓があるよ」という会話が交わされているのを何度となく聞いたことがあります。

 ここでは、阿波の板碑の特徴などをかいつまんでご紹介していくことにしましょう。

板碑とは何か

(1)板碑の定義
 「板碑」とは中世の石造供養塔の一種で、1個の石材でつくられていることに特徴があります。つまり、五輪塔や宝篋印塔などのように、いくつかの部材から構成されているのではないのです。

 下の写真は、関東、九州、徳島に残る板碑ですが、それぞれに特徴があることが分かるでしょう。もともと「板碑」という概念は、武蔵を中心とする関東地方のものを指標とし、石材(緑色片岩、通称「青石」)を板状に加工していたことに由来します。

 徳島県の板碑は、関東地方のものよりは概して小型で彫りも浅いのですが、形状が実によく似ています。材質の面からも、青石が使われたものがたくさんあります。そのため、徳島の板碑は関東のそれとの類似性ゆえに、古くから関心を持たれてきました。

 近年は、必ずしも板状の石材を使用していなくても板碑の概念が適用されています。図1などは、「板」とは似ても似つかぬ形状ですが、それでも図2と同じく「板碑」といわれるのです。

 
図1 九州(国東半島)の板碑
 図2 徳島の板碑

(2)残存状況と全国的分布
 徳島県における板碑は、総数1,500〜2,000基(有紀年銘板碑は約300基確認)が残存するといわれています。全国的な状況に目を転じてみると、関東地方はとくに多くて、全国の7割が集中しているともいわれます。また、残存数の多い順に県名を挙げると、埼玉県、東京都、宮城県、群馬県、大分県、徳島県となるようです。このことは、阿波が板碑文化の中心地のひとつだったことを物語るでしょう。

(3)有紀年銘板碑に見る造立時期
 徳島県において、現在知られているもののうち、もっとも古いのは、線刻弥勒菩薩座像板碑(阿南市福井町椿地)で、寿永4年(1185)の銘があります。また、もっとも新しいものは、阿弥陀三尊画像板碑(宍喰町宍喰)で、天正18年(1590)の銘が確認されています。阿波の板碑は、12世紀から16世紀にかけて造立されているわけで、まさに中世という時代の産物だったわけです。

 なお、有紀年銘板碑の約半数は、南北朝時代の14世紀後半に造立されたものです。なぜこの時期に造立がさかんになるのか検討が必要となるでしょう。

(4)形態
 阿波の板碑は、13世紀後半以降おおむね定型化し、山形に整形された頭部とその下に刻まれた2条の横線が特徴となります。さらに、塔身部には、仏像や種子などの標識、造立者名、造立趣旨、紀年銘などが刻まれており、これらを囲む枠線が見られるものが一般的です(図3)。こうした要素を備えた板碑を「阿波型板碑」といい、石井町下浦の阿弥陀三尊種子板碑(文永7年[1270]銘)が初見です。

 もちろん、これには例外もあります。図4に挙げた脇町相栗峠の碑のようなものは、上に述べた特徴を備えたものではありません。しかし、「1個の石材」でつくられたものであり、板碑の範疇に含めることができると考えられます。

図3 板碑の形状
図4 相栗峠の阿弥陀一尊種子板碑(文保2[1318])

(5)分布範囲
 現存する板碑の分布範囲は、徳島県全域に広がっています。とくに石井町と神山町をはじめとする吉野川流域および鮎喰川流域には、青石を石材とする形態の整った板碑が集中しています(図5)。

図5 板碑の分布(COMETで提供している画面)

板碑に見る信仰とその周辺

(1)信仰の特色
 板碑に投影された信仰の特色は、表面に刻まれた信仰標識からうかがうことができます。結論からいうと、阿弥陀信仰に関するものが圧倒的に多いようです。有紀年銘板碑の、実に74%までが阿弥陀信仰に関するものなのです。無紀年銘のものでも、阿弥陀三尊種子板碑を見かけることが多いので、実際には、阿弥陀信仰に関わる板碑の割合は、もっと高いのかもしれません。

(2)造立の背景を探る
 では、阿弥陀信仰に関わる板碑の多さをどう考えればよいのでしょうか。従来、阿弥陀信仰といえば、浄土教系の鎌倉「新仏教」(浄土宗、浄土真宗、時宗)との関連で理解しようとする向きが多かったように思います。

 しかし、中世社会に根を張った阿弥陀信仰は、必ずしも「新仏教」系だけではありません。事実、院政期の歌謡集「『梁塵秘抄』には、「弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず」という今様が見え、「新仏教」以前の阿弥陀信仰(念仏)の定着を物語っているのです。板碑の阿弥陀信仰を理解しようとするとき、教科書的な中世宗教史像にとらわれず、視野を広げていく必要があることは間違いないでしょう。

 ここで、ひとつの事例を見ておきましょう。高野山奥の院には、「南無阿弥陀仏」と刻まれた康永3年(1344)の阿波型板碑があります(図6)。板碑を運びあげた労力に驚嘆すると同時に、高野山−阿波−阿弥陀信仰をつないだものは何なのかが気になるところです。高野山奧の院は、11世紀初頭から形成された弘法大師入定伝説の舞台であり、高野山に生き続ける弘法大師の居所とされてきた場所です。したがって、霊場としての高野山の信仰拠点として重要な場所であったといえるのです。

 こうした高野山の信仰と阿弥陀信仰を結びつけたのは、おそらく高野聖(図7)ではなかったかと思われます。高野聖といえば、泉鏡花の作品で名前を聞いたことがあるでしょうか。彼らは、高野山に拠点を置く勧進と唱道の念仏聖(半僧半俗の宗教者)であり、その活動は全国に広がっていたといわれます。四国は弘法大師生誕の地であり、かつ、大師の初期の修行場所でもありましたから、高野聖の活動舞台だったことは想像に難くありません。そうであるなら、高野山のものに限らず、阿波の板碑における阿弥陀信仰を流布した主体として(もちろんすべてというわけではありません)、高野聖の存在を措定することができるのではないかと考えられます。ただ、残念ながら、四国、ことに阿波における彼らの活動に関する史料はなく、憶測の域を出るものではありません。

図6 高野山奥の院の阿波型板碑拓本(天沼、1926より)
図7 「三十二番職人歌合」に描かれた高野聖

おわりに
 以上、阿波の板碑をめぐるお話をしてきました。謎に満ちた部分も多く、また、多くの無紀年銘板碑をも含めた研究はまだまだ進んでいません。これを機会に阿波の中世文化に興味をお持ちいただければ幸いです。

 

おもな参考文献(順不同)

坂詰秀一編『板碑の総合研究』1、柏書房、1983年

千々和到『板碑とその時代』平凡社、1988年

播磨定男『中世の板碑文化』東京美術、1988年

沖野舜二『阿波板碑の研究』小宮山書店、1957年

徳島県教育委員会編『徳島県文化財基礎調査報告1 石造文化財』徳島県教育委員会、1977年

岡山真知子「北島町の板碑」『阿波学会紀要』42、1996年

岡山真知子「日和佐町の板碑」『阿波学会紀要』43、1997年

天沼俊一「阿波の板碑其他」仏教美術7、1926年

五来 重『増補 高野聖』角川書店、1975年


「歴史漫遊録」TOP] [長谷川賢二のページTOP