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徳島県教育委員会文化財課が文化庁の補助事業として、1998年度から3年計画で「徳島県歴史の道調査」を行っています。この調査は、近世の主要街道(淡路街道、撫養街道、讃岐街道、伊予街道、土佐街道)と遍路道を踏査し、ルートの確定、沿道文化財の記録を行うものです。私も調査員として参加していますが、これは予想外に大変な仕事です。近世の道といっても、考えてみれば明治以来この方130年も過ぎており、しかも道の付け替えや改修が行われているため、もとのルートがわからないところさえあるのです。
ここでは、1998年度の調査記録(実施期間:1998.7〜1999.3)を掲載します(徳島県教育委員会から刊行された報告書用に執筆した原稿をもとにしています)。この年度には、根津寿夫氏(徳島市立徳島城博物館)、大柴せつ子氏(徳島県立城ノ内高校)とともに、伊予街道(徳島から吉野川南岸を通って、伊予へ抜ける道)の最西端区間を担当しました。夏の暑い時期から、雪が降る冬の寒い時期まで何度も調査に向かいましたが、わからないことも多いままでした。その一方で、今まで歩いたことのないところを訪ねる面白さがありました。
テキストと写真若干を掲載しただけなので、土地勘がない方にはわかりづらいものですが、ご容赦ください。歴史散歩の参考になれば幸いです。
●三加茂・井川町境から辻の一里松まで
町境付近から辻の一里松に至るまでの街道は、国道192号線よりも吉野川寄りを通っていたとされるが、詳細なルートは分からない。『辻風土記』によると、一里松付近では、現在のJR徳島本線が街道跡で、鉄道敷設(1914年[大正3]開通)の際に現国道へと付け替えられたというので、町境付近からも線路に一致していた可能性が高い。
町境から約370mの地点、線路よりも一段高いところにある四国電力変電所の北側に山下家墓地があり、光明真言・念仏供養塔が見られる。発願主の山下大蔵は、四国八十八か所巡拝の途中で即身仏になったといわれる。
ここから西南西に進み、美濃田大橋南詰め踏み切りに至る。辻の一里松は、ここの北東の断崖上にあった。1933年(昭和8)生まれの人が子供の頃には松があり、「一本松」とも呼んでいたという。『三好郡志』や『辻風土記』によれば、1878〜79年頃(明治11〜12)伐採されたらしいので、その後に改めて松が植えられていたのかもしれない。
●辻の一里松から岩鼻の一里松まで
『辻風土記』の記述や聞き取りなどから推定すると、辻の一里松から井川町西井川北内の竈神社付近まで、街道は吉野川の川原へと降り、竹藪沿いに続いていたようである。現在も竹藪は多いものの、街道の痕跡はわずかしかなく、ルートの確定は難しい。
辻の一里松跡の南西(美濃田大橋南詰め交差点)には、国道に面して楠神社がある。境内には猿田彦庚申塔、地神塔がある。ここは辻の町の入口にあたる。辻の町は、祖谷山・井内谷への渓口集落として江戸中期以降、刻み煙草製造や商業を中心に栄え、今も井川町の中心地である。町役場の南西にある今宮神社の下には、庚申塔3基、地蔵等の石造物、道路工事の際に発見された墓が集められている。神社南の蓬莱橋は道標を兼ねており、「池田町へ七、一一五粁」という銘がある。
楠神社から西に向かう。美濃田大橋南詰め西側の川原の岩場には、辻渡船場の跡が残っており、街道も近くを通っていたようである。渡船場跡へは、美濃田大橋南詰めから西160m地点の仁尾建具店前から国道・JR線路の下を通って川岸に出れば道があるが、かなり荒れている。ここの渡船は、近世から近代にかけて井川町辻と対岸の三好町昼間を結んでいた。1959年(昭和34)、美濃田大橋の開通に伴い廃止された。近代の設備ではあるが、階段や接岸具が残っている。また、美濃田大橋北詰め北西30mの段丘上にある工藤家の敷地内には、地蔵座像がある。渡船の安全祈願のために造立されたものと思われる。
渡船場跡の西方で井内谷川が吉野川に合流する。このあたりから、吉野川の川原は広くなり、竹藪が東西に続いている。街道はこれに沿っていたらしいが、痕跡はない。また、南側の山裾に沿う段丘上をJR線路や国道が通っており、JR辻駅北側にある県立辻高校グラウンド付近は南北朝〜戦国期の城郭である野津後城の跡といわれる。
竹藪沿いを西進したと考えられる街道は、井川町西井川女法寺において、JR佃駅北東400mの地点、川原より10m弱の高さのところにある地蔵堂前の道に名残を留めているが、わずかな区間が残るだけである。地蔵堂には地蔵座像がある。布屋渡船場(後述)の水難供養のために造られたと考えられている。この付近の道は、かつては牛車や馬車が行き交っていたという。また、宿屋や鍛冶屋、料理屋があり、町場になっていたが、南側の道や鉄道ができて寂れていった。
地蔵堂の西で、川岸に降る道に交わる。その道の終点には渡船場があったという話を聞いたが、詳細は不明である。また、この渡船場の西方50mの川原は布屋渡船場跡である。近世から近代にかけて、当地と対岸の三好町昼間との間を結ぶ渡船が運行された。渡船場の名称は、近世に徳島から昼間に進出した布屋という商人に由来するらしいが、地元では「布屋」は地名として理解されている。
地蔵堂の南南西70mには天神社がある。18世紀末〜19世紀初めの成立と推定される「阿波国大絵図」(以下「国絵図」、個人蔵、徳島城博物館保管)に見える「天神」が当社かと思われる。社地は、長宗我部元親の侵攻によって焼失したといわれる女法寺の跡地である。
地蔵堂付近から西へは、やはり竹藪沿いの道があったらしいが、跡を確認することはできない。街道跡ではないが、JR線路北側の道を進んでみる。佃駅の西100m地点の井川町公民館佃分館の庭には、内田弥八頌徳碑がある。内田弥八(1861〜1891)は、慶應義塾で英学を学び、末松謙澄(伊藤博文の女婿)の『ジンギスカンは源義経なり』(英文)を、自説を加えて翻訳し『義経再興記』として刊行した。さらに100mほど西進したあたりの線路の南側斜面には、庚申塔や小型の庚申碑2基、灯籠2基がある。もとは、吉野川沿いの街道の端にあったようである。
庚申塔の西北西約250mの地点、道の北側に竈神社がある。この付近から吉野川の川原は狭まっている。社地の北は断崖になっており、西は深い谷になっている。このような状況からすると、川原を通っていた街道は、当地付近では川原より南に入っており、おそらくは神社前の道に一致していたものと思われる。そして、この道と国道の合流点(西井川小学校の東200m付近)からは国道が街道にあたるものと考えてよいであろう。
道の合流点から国道を西へ300mほど進むと、トヨタカローラ徳島池田営業所真向かいに、1833年(天保4)の廻国塔がある。西井川村入倉の萬吉が願主、武州・作州の人が脇願主となって建立したもの。世話人には、羽州、越後、大坂の人が見える。また、カローラ営業所隣の西井川小学校の北西脇には、蛇岩大師がある。弘法大師が封じ込めた大蛇が巻き付いていたといわれる巨岩(蛇岩)に、弘法大師をまつる小堂が設けられている。
ここからさらに国道を100mほど進み、街道は西井川幼稚園前から北西方向に分岐する。住宅地を抜けると、三好大橋南詰めにあるガソリンスタンドの北側に出る。道の北の断崖上が岩鼻の一里松跡である。昭和初期まで松の大木が残っており、「天狗の腰掛け松」といわれていた。街道はさらに一里松の西側、三好大橋真下の平坦地に続いていた。ここには、大西頼武祠がある。もとは一里松の根本にあった。大西頼武は、大西覚養(池田町にあった白地城の最後の城主)の父である。長宗我部元親の侵攻を受けた1577年(天正5)自害した。覚養が讃岐に逃れる途中で父をこの祠の場所に葬ったという。
三好大橋南詰めの川岸は、大具渡船場跡でもある。対岸の池田町州津との間を結ぶ渡船の発着場であった。渡船ルートは、三好大橋の真下にあたる。近世の史料には記載がない。1958年(昭和33)、三好大橋開通に伴い廃止された。この渡船では、1914年(大正3)以来、川にワイヤーを張って舟とつなぐ岡田式渡船が用いられていた。
●岩鼻の一里松から池田の町場まで
大西頼武祠付近からの街道は国道に一致している。そして、井川・池田町境の東方からは、国道の北側の吉野川沿いを標高80mの等高線に沿っていた。町境から国道を約300m西進したところにある供養地バス停の北東の竹林の北側に街道跡がわずかであるが残っている。ここには、光明真言供養碑三基、地蔵像を納めた小堂が川に向かって並んで建っている。これらは1957年(昭和32)、別の場所にあった庵から移してきたものである。光明真言供養碑のうち、特に1877年(明治10)建立のものは高さが3.24mもある大きなものである。地蔵は、近くにあった渦の渡船場の水難供養や子どもの水遊びの安全祈願と関係するものと考えられている。
やや東の川原に降りると、渦の渡船場跡に着く。この地点は、両岸の河原が迫り出して、川幅が狭くなっており、船を渡すのに適地であったことがわかる。しかし、ほぼ200m西に、長径500m近くの中州が横たわっているので、州に遮られ分流した川の流れは、この渡船場付近で集まり、渦を巻き、一気に東流する。急流の渡しは、ときに事故を招くことも必至であった。
街道は石造物群の西300m、トウゲ谷が吉野川に流れ込む地点で、国道の池田第一橋の下を南にくぐるかたちで谷を越えて北西方向に転じ、橋の西詰めから国道の南側の一段低いところを西進していた。ただし、橋の西詰めまでは、かつての道は残っていない。
国道の南側に入り250m進むと、辻に大師堂が建つ。もとは猿田彦命を祭ってあったといい、村の入口で悪霊の侵入を防ぐ道祖神として始まったものかと思われる。境内の北西隅に大きな松がある。この松は「半里松」である。当地点は、岩鼻の一里松と細野の一里松の中間に当たる。松の下に庚申塔、地蔵堂、三界万霊塔などが建っている。庚申塔は、1670年(寛文10)の造立で、大変古い。地蔵や三界万霊塔は、吉野川の洪水の被害者や、近くにあった江口の渡船場の水難者を弔うために建てられたものではないかと思われる。
大師堂の西にある三好病院の真北の川原へ降りると、江口の渡船場跡に出る。嘉永年間(1848〜1853)までは、北岸の幹線道路と連絡する渡船として、通行も多い場所だったが、その後、川の流れが変わり、渡船場として不適当になったので、東の供養地に移った。これが、先の渦の渡船場だった。
三好病院から西へ250m進むと、南の山間部から流れ出した弥重良谷にかかる下町橋を渡り、池田の町場へと続く。橋を渡ると道の北側に徳島県食糧卸協同組合の倉庫が建つ。この付近が「分間図」に記載されている御蔵所の跡と推定できる。ここから西へ、急な坂道を登り、池田の町場に入る。町が高台になっていることがよくわかる。坂を登り切ると、道は平坦になり、本町を西進していく。
本町から北側を望むと、吉野川との間に、ウエノ台地が東西に一段と高く横たわる。吉野川は、この台地の北側を直角に回り込む形で方向を変えて東流する。台地東端の裾野部分は浅瀬になっている。ここが、江戸時代から大正期まで、池田の玄関口として栄えた千五百河原港(はまの港)跡である。ここの灯台としての役割を果たしたと思われる常夜燈が残されている。闇夜に荷を積んで川を上って来た平田舟を照らしていたであろう。また近くには、地蔵立像がある。港付近の水難者を弔って建立されたものであろう。
港跡の上には諏訪神社が鎮座する。1221年(承久3)、阿波国守護に任じられた信濃の小笠原長清が、池田大西城を築いたとき、信濃の諏訪大明神を勧請したことに始まるといわれる。千五百河原港の船頭衆の守護神としても信仰され、船の神である金毘羅大権現が境内に祭られた。なお、大西城は、台地上の池田幼稚園・小学校・中学校一帯にあった。現在、幼稚園の東側に、石垣の一部が残されている。
本町の北側を並行して谷町がある。この通りの入口は、千五百河原港からは谷をはさんですぐのところにあり、港が栄えた頃は、この通りに船頭衆や舟問屋が多く住んでいた。
本町は、千五百河原港が池田の玄関口として栄えた時代には、商家、船宿、料亭が立ち並び、池田の町きってのにぎやかな通りであった。そして、明治初期には、谷町とともに手きざみの煙草製造で全盛期を迎える。しかし、煙草製造が官営に移って専売となり、機械化されていくと、業者にとっては大転換期となった。このときに手に入れた転廃業資金で豪華な家を新築し、その防火壁として卯建を飾り立てた。本町には、今もりっばな卯建をかかげた古い商家が並び、昔の面影を濃く残している。500m余りの通りの中ほどで庚申通りと交差する。四つ辻の南東に、光明真言供養碑一基、庚申塔一基、常夜燈二基、井戸などがまとまってあり、小さな霊場を形成している。
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千五百河原港跡 |
本町の卯建(うだつ) |
●池田の町場から細野の一里松まで
本町の西端に至ると、街道は県道観音寺池田線(大通)に合流する。そのまま北西へ200mほど進み、ジャスコの北東あたりで西向きになる。ここから、街道の跡を正確にたどることは難しくなる。
「分間図」など近世の絵図を見ると、西進して池(現在は大半が埋め立てられて池田工産社屋や池田町総合体育館が建っている)の北側、丸山南麓を抜けて細野の一里松に至ったことが分かる。1909年(明治42)発行地形図「池田」に見える、現県道が向きを変えるところで南西に分かれ、今では市街地になっている一帯を抜けて西に通じる道がこれに相当する。
現在、県道が向きを変える地点からさらに50m西へ行ったところから、西南西に分岐して池跡の北側を通り、丸山の麓を経て細野へ出る道がある。池跡に至るまでは、先の地形図の道とは分岐点やルートが一致しない。池跡の北側からは街道である可能性が高いが、ほぼ並行して南を通るJR線路も街道跡の可能性があり、確定することはできない。そして、線路がトンネルに入る丸山の東南麓から先は、道の大幅な変化は想定し難く、街道と一致すると思われる。
丸山南麓の緩い坂を登って行き、平坦になったところが細野峠である。一里松があったが、現在はその痕跡はなく、位置も不明である。また、細野大師があり、境内にたくさんの石造物が並び立つ。道をはさんで向かい側には、細野庵、新山八十八ケ所があり、峠一帯が霊場となっている。当地の南西の馬谷にあった観音堂の土地が狭いため、ここに移転して整備されていったものである。
●細野の一里松から板野渡船場まで
街道は細野峠から板野渡船場へと通じていたが、ルートには不明な点が多い。
細野大師前からそのまま400m進むと、馬谷という深い谷が道と直交する。谷に沿う細い道を少し降ると観音堂跡で、平坦地に光明真言供養碑や墓がある。街道はここを東西に通っていたらしいが、細野峠からどのように通じていたのかは分からない。
馬谷以西の街道も跡がほとんどないが、山腹を通り、国道32・192号線沿いの板野バス停北北東にある喜多家の南西に下りてきたようである。さらに南南西方向に延び、阿波池田観光ホテル前の道に合流していたと考えられる。この道は南南西に向かうゆるやかな下り坂になっている。点は国道の池田大橋東詰め下で、ここが板野の渡船場跡である。対岸の白地は伊予・土佐・阿波の交通の要衝であることから、板野−白地間の渡船は、1927年(昭和2)、上流に三好橋が架かるまで重要な交通機関であった。
江戸中期より、板野下島は開墾され、農地が広がった。この頃から、吉野川水運が盛んになり、板野と対岸の白地の渡船場は宿場町のようなにぎわいをみせるようになった。板野の宿場は、道の両側に商家が軒を並べ、活気に満ちていた。現在も観光ホテルから渡船場跡寄りには、家屋が軒を並べており、往時の名残がうかがえる。
板野宿場を通る伊予街道は、1886年(明治19)の現国道192号線の着工、数年後の完成や、また三好橋の完成により、改修され、大きく変貌した。
●白地渡船場から馬路の一里松まで
板野渡船場からの船は、吉野川を渡り白地渡船場に着いた。国道の池田大橋西詰め下付近が跡地であるが、かつての痕跡は見られない。現在では池田ダムにせき止められて吉野川の水が満々とあるが、ダムができる以前、平常時には、白地側の川原は砂浜が広がり、実質の川幅は現在の半分程度だったという。
白地から阿波・伊予国境に至る伊予街道は、明治期に数回にわたり改修・付け替え工事が行われている。1873年(明治6)の工事が最初で、1880年(明治13)に始まる工事(とくに規模の大きい工事だったようである)や1899年(明治32)に始まる工事があった。また、1913〜14年(大正2〜3)には、西浦平造(1856〜1933)によって馬路天神橋付近の馬路川付け替えが行われ、これに伴い、道路改修もなされた。現在の国道192号線は、戦後の工事により完成したものである。
さて、白地渡船場付近の街道は、国道の南側、白地小学校北からJA白地支所前に至る道である。小学校北西交差点の北西角にある生田家付近は番所跡である。本館、倉庫、年貢米貯蔵庫等からなる施設だったというが、1869年(明治2)廃止された。『阿波志』によると白地村には巡見所も設置されていたらしいが、所在等は不明である。
交差点の西南西100mの山上には、八幡神社と八幡寺がある。前者は大西氏が白地城を築いた際、鎮護のため伊予八幡浜より勧請したと伝えられる。後者は前者と地続きで、大西氏が前者を勧請したときに、報恩寺と称した寺院を移転し、別当寺として八幡寺に改称させたという。境内には、庚申塔、大西氏縁故者の墓とされる三層の石塔(五輪塔の空輪・水輪を集めたものか)がある。天正年間(1573〜1592)頃まで、これら寺社のある付近から尾根伝いに伊予へ抜ける道(八幡街道、京街道)が用いられていたといわれる。八幡神社の石段下には、常夜燈がある。もとは番所前にあったが、池田ダムの建設に伴い、現在地に移転されたものである。白地渡船場の夜間照明として用いられたと考えられる。
小学校の南西の小高い丘は、白地城跡で、かんぽの宿や大西神社などがある。大西神社には大西頼武・覚養父子が祀られている(覚養は白地城の最後の城主)。境内には「白地城址」の石碑が建てられている。白地城は、大西氏の居城として築かれた城である。1577年(天正5)に土佐の長宗我部元親の軍勢が攻略した後、元親はここを根拠地として四国統一を進めた。元親が豊臣秀吉に敗れ土佐に退いた後、廃城となった。
さて、番所前を通った街道は、JA白地支所前で国道に合流した後、JAより西150mの白地郵便局のやや東で馬路川を渡った。ここには、1873年(明治6)の街道改修に伴い、永徳橋が架けられた。近世の街道に常設の橋があったかどうかは不明である。現在は、郵便局西に白地橋がある。
街道は馬路川を越えるとすぐに西に向かっていた。白地橋の北詰めから西に向かって75m進んだところに道標がある。白地青年西北組が1925年(大正14)に造立したもので、箸蔵寺、雲辺寺、境目峠への距離が刻まれている。ここで北へ分岐する登り坂に入る。やがて西に転じ、そのまま進むと先に分かれた道に合流する。ここから約300m進んだところにある柏木家付近で北側に分かれる小道に入る。庚申坂といわれ、途中、道の北側に庚申塔や灯篭がある。道をはさんで塔の向かいには、かつて茶屋があった。ここを過ぎて坂を登り切るとすぐに、猪森家の宅地を経て山道に入る。馬路の境宮神社から勧請された三社神社の東側を回り込んで田村家南西に出る。ここから馬路へ向けてゆるやかに下るが、もとの路面は現在よりも高い位置にあったらしい。
三社神社から南西600m地点にある池田鉄工北側の尾根上には地蔵堂があり、専用の階段で登ることができる。「芋地蔵さん」といわれ、参詣人が多く、向かい側には数軒の茶屋があったともいう。この場所は千田峠といわれ、馬路・佐野の盆地を見渡せる場所だった。街道は本来、庚申坂からここまで登り道となっていたらしい。現在も地蔵堂前を通る山道があり、三社神社方面から馬路の一里松跡の手前まで通じている。ただし、街道に相当するのは千田峠の直前から一里松方面だけである。
峠から西に向かって山道を下りきり西進すると、福助池田工場が正面に見えるあたりで道は南に転じる。この角にある山口家脇の駐車場が馬路の一里松の跡地である。
●馬路の一里松から佐野の一里松まで
一里松跡の脇を抜けると、街道は谷商店前から現在の福助工場敷地内を通って西に通じていた。工場西方の大上家横から国道を横切り、馬路川を渡る。かつてここには、朝日橋があった。近代に架設されたものと思われる。いったん川の南岸に移った街道は150mほど進んで、再び川を渡ったが、現在は道はない。やはり近代のものと思われるが、かつては堂面橋があった。現在、佐馬地橋がかかる付近らしい。
橋を渡ると国道に合流するが、すぐに南側に分岐する。道沿いの集落入口には、海住神社があり、境内には、庚申塔、光明真言供養碑、灯籠二基がある。神社から200m行くと、道の北側の大久保家前に1899年(明治22)の道標が立っている。箸蔵寺、雲辺寺、上分への距離が刻まれている。
ここを過ぎると間もなく交差点があり、国道の北側へと入る。1km余り進むと境宮神社がある。もと堺宮三社大明神と称した。蜂須賀氏の入国以来明治維新まで、西部の鎮守神、藩の崇敬社とされた。1822年(文政5)の馬頭観音供養碑などの石造物がある。境内にある神宮寺では、馬路地区全体の行事として「常念仏供養」(町指定無形民俗文化財)が行われる。悪病がはやったとき、神仏に願をかけ、悪病よけ、五穀豊穣、平和幸福を祈念したことにはじまるといわれる。2夜3日徹夜で行い、旧暦8月1日をもって満願成就となる。
神社から200mほど西に行くと、金岡家の前に三叉路があり、光明真言供養碑が、墓2基とともに立っている。また、同家の西側には、木の根本に庚申塔がある。これより馬路小学校前を経て200m進むと国道に出る。そこから、西に向かうと、加藤家西方の国道側壁上に庚申塔と灯籠がある。さらに1km余り行くと、竜王橋があり、馬路川を渡る。ここに橋がかかったのは近代のことと思われる。橋の東詰め、国道の南側には竜王祠がある。西詰めからは国道の北側へ迂回する道に入るが、橋の250m西で国道に合流し、そこから50mほど行くと、一里松バス停に至る。この付近に佐野の一里松があったが、地名が残るほかは痕跡をとどめていない。
●佐野の一里松から国境まで
一里松バス停の北側に見える丘には佐野氏の居館があった。佐野氏は、細川氏の命によって佐野に入部した播磨の赤松越後守頼則の子孫といわれる。近世には、佐野四郎兵衛が佐野村初代政所となった。
続けて国道をたどるが、もとの街道は国道と馬路川にはさまれるかたちとなっていたらしい。150mほど行くと、浮世橋で馬路川と交差する。橋がかかったのは近代のことであろう。橋の北側100m付近には、松寿庵がある。佐野氏一族の菩提寺で、近隣住民の信仰を集めている。西には墓地があり、武州、肥後、江戸の人の墓も見られる。東には庚申塔などがある。また、雲辺寺への遍路道の入口にもあたり、近くに道標なども見られる。
バス停から300m進んだあたりで、国道から北寄りに分岐する道を進み、佐野の集落に入る。分岐点のやや西寄り「雲辺寺口」バス停近くには、「雲邊寺口」の道標が立つ。和歌山市圓蔵院後藤信教が造立したものである。
集落の道を500mほど行くと、佐野神社への参道入口がある。佐野氏が当地に入部した際、鎮守として祀ったといわれ、もと妙見神社と称した。1878年(明治11)、馬路の境宮神社を分霊・合祀し、佐野神社と改称した。境内には庚申塔などがある。さらに西へ200m行くと、青色寺への進入口がある。この寺は、近世の阿波に独特の制度として置かれた駅路寺の一つである。駅路寺は、1598年(慶長3)に蜂須賀家政によって制度化され、藩内の真言宗寺院八か寺が指定された。旅行者への宿泊の便宜付与、治安対策などがその目的とされている。『阿波志』には、「青色寺 在佐野村、修真言、山称駅路、旧名往還寺、慶長三年六月賜采地十石、命為路室以恵行人無糧者、而禁姦民聚訟及投宿、(後略)」と見える。なお、本堂は現在地の後方の墓地の付近にあったが、火災により焼失し、現在地に移転したという。
ここから150m進むと佐野郵便局西側の交差点に至る。伊予街道と曼陀道(香川県大野原町と池田町の境にある曼陀峠を越えて讃岐へ抜ける道で、概ね現在の県道観音寺佐野線に相当する)の結節点であり、南には国道と県道の交差点がある。
このように、阿波と伊予・讃岐間の交通の要衝であったため、佐野には番所や分一所がおかれ、国境警備の要となっていた。国道沿い(国道・県道交差点の東150m)の青色寺を正面に臨む場所に、番所跡の標柱が建てられているが、各種の絵図の記載を対比すると断定は難しい。この番所は、蜂須賀氏に国境警備を命じられた石川氏が私設し、寛文年間(1661〜1673年)頃から藩の公的な番所とされたという。石川氏の邸宅に続いて建物が設けられ、街道には木戸と柵があったという。分一所は番所に付設され、石川氏が所管した。米穀、藍、楮など禁制品の通り抜けの監視、その他の品物の関税(運上銀)の徴収を行った。「国絵図」などに従うと、郵便局西の交差点北東角付近に比定されるが、名残はない。
交差点の南西角、池田町公民館佐野分館には宿場跡の標柱がある。ここから西方へ200m進むと、佐野小学校の西で馬路川に架かる土井ノ門橋を渡る。近世からここには橋があったともいわれるが、実際のところは不明である。そのまま進んで国道に合流し、さらに100m行くと、街道は国道より南に分岐する。上組藤ノ岡庵周辺を迂回し、大宗谷バス停で国道に戻る。庵の東側には、庚申塔のほか、滋賀県出身の誓浄の供養のために建てられた光明真言供養碑と墓がある。庵から70mほど西の国道南側には、遍路供養のためにつくられたらしい地蔵像が安置された小堂がある。
さらに国道を西に向かい、400mほど行くと南側に分岐する道がある。この道は境目峠を経て伊予に通じている。明治時代に行われた街道の改修・付け替え工事により造られたものと思われ、1899年(明治32)に始まる工事のときに境目峠まで全線車道化された。これに対し、近世の街道は分岐点より600m余り先、境目トンネル入口手前の境谷バス停付近から谷筋を通って国境へと通じていたようである。現在も谷に沿う形で道があるが、これが街道に一致するかどうかは分からない。
街道が谷に沿って進んだとすれば、国境付近では、境目峠の100m手前、南西に分岐する道の入口に至ったと考えられる。この分岐道を100m登ると日の岡峠で、阿波・伊予国境にあたる。地元では「太政官道路」と呼んでいたということなどからすると、近世の街道に比定できるものと思われる。この峠からは、愛媛県川之江市七田方面への山道が続いている。「国絵図」には、国境に巡見所、境木が記されているが、この峠にはその痕跡はない。境目峠南西ピークにある淡島神社への登り道の入口に地蔵堂がある。内部には、新旧セットになった地蔵像、庚申塔が各一組、別の地蔵像が一基ある。
境目峠に向かう道もたどってみる。国道から分かれて登っていくと、道沿いにある境谷集会所の東(境目トンネル入口の南西約900mの地点)に中津山道の碑がある。1883年(明治16)に建てられたもので、西祖谷山村と池田町の境界にある中津山までの距離を示す。もとは下の道にあったものを移転させたらしい。
道標から先へ700mほど進み、登りきると境目峠である。石積みの側壁をもつ切り通しの峠で、1934(昭和9)からはバスが運行された。料理屋や旅籠が軒を並べていたといい、先述した境目峠手前から日の岡峠への道の分岐点には、料理屋や煙草屋があった。峠には、1917年(大正6)に建てられた県境碑があり、正面に「従是東徳島縣三好郡」とあり、左右には愛媛県川之江、徳島県庁、三好郡役所への距離が刻まれている。この碑の南には1901年(明治34)の遍路道標が立っている。