小杉榲邨と『徴古雑抄』

 

(徳島新聞2004.2.21付け朝刊に掲載された「最後の国学者 小杉榲邨を考える―徳島地方史研究会・公開大会に寄せて―[下] 阿波国徴古雑抄」を改題・改稿した)

 1913年(大正2)、徳島県出身の歴史学者・喜田貞吉が代表者である日本歴史地理学会から、1000ページを越す大部な書物『阿波国徴古雑抄』が刊行された。
 その編者として名前が掲げられているのが、 阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎ・すぎむら 1834〜1910年)である。刊行時、小杉の没後から3年が経っていた。喜田ら後続の学者たちが遺著としてまとめたものであった。
 本書は、古代から近世に至るまでの、古文書・古記録を中心に、絵図や棟札、金石文など、阿波に関する史料を幅広く収めた阿波関係総合史料集である。今でも、徳島県ではこれを越えるだけの質・量をもつ史料集は刊行されていない。したがって、阿波の歴史について調べる際には、必須の文献となっている。
 そのため、県内では、小杉の名は『阿波国徴古雑抄』と分かちがたく結びついて記憶されているし、人名辞典などでも、小杉は『阿波国徴古雑抄』を完成させたと紹介されることがあるほどだ。しかし、これは必ずしも正確ではない。小杉が作成したのは『徴古雑抄』であり、刊行された『阿波国徴古雑抄』は、その一部に過ぎないからである。
 『徴古雑抄』は現在、主に東京の国文学研究資料館に収蔵されている。1995年には県立文書館と県立博物館が共同でマイクロフィルム撮影を行った。
 同資料館本『徴古雑抄』は、正編138冊、続編51冊からなる。それに加え、同館には「小杉榲邨蒐集史料」に含まれる『徴古雑抄別本』11冊もある。
 これらには、東北から九州まで全国の旧家や寺社などが所蔵する古文書やその他の史料が筆写されている。国単位でまとめられたものと、「図画」や「制度」など、史料の性格によって分類されているものとがある。国別のものでは、阿波関係がひと際多いことが注目される。とくに続編のうち9割は阿波に充てられている。
 これほど膨大な史料集は無論、短期間にできあがったわけではない。『徴古雑抄』に収められた写本類は、若いころの阿波や江戸での生活、さらには維新後、教部省に仕官した一八七四年以降の東京での活動の中で蓄積されたものであり、小杉の生涯が集約されているといっても過言ではない。
 『徴古雑抄』の意義はいくつかある。その第一は、いうまでもなく史料集としての重要性である。例えば、阿波の史料では、祖谷の西山文書などのように、現物が所在不明となっているため、それを筆写した「徴古雑抄」が数少ない手がかりとなるものがある。考古資料のスケッチなども、往時の資料の状況を伝えるものとして意義深い。
 次いで、小杉榲邨という「国学者」の成果であることに留意すれば、彼の人物像や学問のあり方がうかがえる資料としての意義が見いだせる。彼自身が記すところによると、幼いころから阿波国の歴史に関心があり、古文書などを筆写するようになったのが、やがて『徴古雑抄』に結実する史料書写の起点であったという。結果として、全国規模の写本集となっているが、その核は阿波に関する史料の集成にあったということになる。
 そうだとすれば、『徴古雑抄』を通じて、小杉が古里・阿波に向けたまなざしがいかなるものであったか、また、急速な近代化へ向かう明治という時代の中で、歴史に対する関心をどのように広げていたのか、といったことが浮かび上がるはずである。
 それにしても、『徴古雑抄』は、あまりにも膨大である。その全容を簡単に知ることはできない。阿波国分に限っても、冒頭に触れた本で、正編と続編の一部が活字化されたほか、これに未収録の続編所収史料の一部が戦後、刊行されたにすぎない。
 小杉の没後から一世紀近くを経たが、未だに彼の偉業を正面からとらえることはできていない。『徴古雑抄』の調査・検討は、地域史研究者全体の課題ということができるだろう。

 
『阿波国徴古雑抄』

 

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