神山町勧善寺旧蔵大般若経巻521
  

 
(徳島県立博物館ニュース67[2007年]の「館蔵品紹介」欄を改題・改稿)

 

 大般若経とは、大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)の略称で、全600巻からなる膨大なものです。日本では、8世紀に読まれたのを最初として、以後、宮中や各地の寺社で読まれたり、書写・奉納されたりしました。
 今もいろいろなところに大般若経が伝えられていますが、長い歴史の過程で、一部が欠巻になったり、料紙がはがれて原状をとどめなくなったりしていることが少なくありません。しかし、大般若経には、書写の日にちや場所、書写者の名前などが書かれていることが多いので、完全な形ではないにしても、史料として活用できる場合が少なくありません。
 さて、今回紹介する大般若経は、2003年11月、徳島県内の個人宅で同僚学芸員数名による調査をしていた際に発見したものです。関連のない写経の断簡(だんかん)などとともに木箱に収められていました。その1年後には、徳島県立博物館に収蔵しました。
 この経巻は黄染楮紙に肉筆で書写されており、奥書には「嘉慶二年戊辰二月廿三日」「禅宴坊筆」と書かれています(図1)。これを手がかりに、経巻がどこから来たのか検討しました。
 禅宴坊が登場する資料としては、神山町阿野の勧善寺が所蔵している大般若経(徳島県指定有形文化財)があります。勧善寺の大般若経は、1387年(至徳4・嘉慶元)から1389年(嘉慶3・康応元)にかけて書写されており、近世末までは神山町の二之宮八幡神社に伝来しました。調べてみると、禅宴坊は祐円と名乗る僧で、現在の神山町阿野の阿川地区(大般若経の記載では「阿波川」)に拠点をもっていたこと、計23巻を書写したことが確認できました。一人で書写した量としてはとくに多いので、写経事業の中で中心的な役割を果たした人物と思われます。
 そこで、新たに発見された大般若経巻521奥書(図1)と勧善寺所蔵大般若経における禅宴坊による巻524奥書(図2)を比べると、書写年代(嘉慶2年=1388年)、筆跡ともに一致することが分かりました。また現在、勧善寺所蔵大般若経には、本来の巻521が欠けており、1972年に当時の住職であった今出啓淳氏が書写して補ったものがあるだけです。
 こうした状況から大般若経巻521は、もとは勧善寺所蔵大般若経を構成していた1巻で、少なくとも1972年までに何らかの事情により流出していたのだろうと考えられます。県指定文化財の欠巻を補うという意味で、大切な資料といえます。
 残念ながら、この経巻を里帰りさせることはできませんでした。それでも、所蔵者の理解を得て、博物館に収蔵し守ることができたのは幸いでした。
 勧善寺所蔵大般若経には、ほかにも原本が失われている巻があります。今後どこかで見つかることを期待したいと思います。
図1 大般若経巻521奥書

図2 勧善寺所蔵大般若経巻524奥書(神山町史編集委員会写真帳より)。「阿波川」が、神山町阿野の阿川地区に相当する。


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