迷信・ケガレ観念と部落差別のあいだ

(『人権問題研修テキスト 展望』2002年度版[徳島県同和対策推進会]の「部落問題入門」のうち担当分を改題・改稿)

  

迷信と部落差別

 職場や地域、PTAで同和問題研修が行われる機会は少なくありません。開催の連絡を受けると、「またか」といわんばかりの表情が見受けられます。そこで、マンネリ感を打ち破り、主体的に参加できるような研修にするための工夫や改善が各所で行われています。

 そんな工夫のひとつに、ストレートに部落問題を論じるのではなく、生活に引き付けた研修教材を提供するというものがあり、題材として迷信が取り上げられることがあります。そうした研修においては、迷信を信じる心が部落差別を支える意識と同根であるとして、迷信を否定し、合理的な考え方をもつことが部落問題解決の道であるかのように説かれます。

 例えば「大安」や「仏滅」をはじめとする六曜によって吉凶を判断して行動を決めることが、結婚式や転居など、 日常生活のなかでごくふつうに行われています。その判断基準の不合理性とともに、当否を主体的にとらえようとしない無自覚さに問題があり、その点において部落差別を支える意識と等質だとされるのです。

 

ケガレ

 これと同様の考え方で近年、差別の根源を解くカギであるかのようにいわれるのがケガレ観念です。現代人が「ケガレ」を意識する身近な例としては葬儀があります。「清め塩」が配られることが多いのですが、これは葬儀の際に「ケガレ」が付着した身体を「清める」ために使われるものといわれます。ここには、死を「ケガレ」=不浄として忌み嫌う気持ちがあるとされますが、形式化している場合が多いようです。一方、部落差別のなかでも、今なおきびしい現実がある結婚差別においては、具体的な根拠がないのに、しばしば「血統がケガレる」ことが理由とされています。これらのケガレはけっして同一ではありませんが、その不合理性において相通じると考えられているのです。

 

科学・合理主義が生む差別

 それでは、合理的な思考がなされるなら、差別は根絶されていくのでしょうか。私たちはこれまで「科学的認識」が差別をなくすためのカギだと考えてきました。しかしながら、科学がその合理主義によって差別を裏付けてきた歴史を直視しなければなりません。例えば、社会の進歩のためには、遺伝的に決定されている優秀な素質をもつ者のみを残して繁殖させるべきだと主張して「障害」者差別や人種差別を公然と説く論理であった社会進化主義は、生物進化論という科学を背景とし、また優生学という科学を成立させました。具体例としては、ナチスドイツの断種法が有名ですが、日本でも、1940年に制定された国民優生法、1948年に制定された優生保護法(1996年に優生思想に基づく部分を削除して母体保護法に改正)に見られるように、科学的な差別主義の影響は長く続いたのです。

 また、こんな例もあります。南アフリカの国立博物館では、先住民については自然史博物館で、植民地支配を行った白人の歴史は文化史博物館で展示されており、やはり科学のまなざしが差別を肯定してきたといいます。

 このように見ると、漫然と科学性(合理性)に期待を寄せることで差別が解消すると考えるのではなく、差別とは何かということ、差別を内包している社会のしくみとは何なのかという課題を明確にすることが大切だといってよいでしょう。

 

差別を考える視点

 差別とは何なのでしょうか。簡単にいえば、差別の原点は、差別する側が差別される側に対して見出した差異(違い)認識に行き着くといってよいでしょう。もちろん、社会生活の中で人と人、あるいは集団と集団の間で、差異が意識されることは多々あります。差異が差別に転化するのは、社会的に優位・多数を占める集団とそうでない集団という非対等な社会関係があるからなのです。

 次いで問題なのは、差別の継続と変容です。部落差別を例にとれば、一時的なものではなく、被差別という社会的位置づけが世代を越えて継承され、社会のなかに根付いている問題であることは周知のとおりです。これはしばしば教えられるように、前近代の身分制と差別意識がそのまま今日につながっているということではありません。確かに、それらが部落差別の源流のひとつではありますが、前近代社会では差別は「合法」的なものでした。

 しかし、近代社会は身分制を否定し、平等を原理とします。そして、平等な権利をもつ国民が、文明化を前提として新たに生み出された価値観(経済力や衛生、教育など)、序列的な血統意識・イエ意識などによって社会的差別を定着させていったのです。「平等」への背理だからこそ、差別が社会問題として認識されるという側面もありました。

 それぞれの時代・社会には、それぞれの社会秩序・規範があり、それによって差別の社会的意味も一様ではありません。これを正面から見据えていかなければ、迷信などを取り沙汰してみても部落問題の解決にはつながらないのです。

 さらに、もうひとつ重要な論点があります。部落差別が他者の人格やその市民的な権利(制度的・慣習的)を否定するものであるのに対し、迷信は必ずしもそうではありません。ケガレについても、同様です。ケガレは本来は秩序から逸脱したり、秩序を乱したりするものと理解される現象を指していましたが、それが不浄と同義となり、人間に対する否定的価値判断にも結びついていったという歴史的経緯があります。

 

今後の課題―地域社会の改編に向けて

 では、私たちが正面から考えるべき課題は何なのでしょうか。

 部落問題は日本社会に根付いた問題ですが、その基盤を突き詰めれば、被差別部落を含む地域社会の秩序や人間関係の問題に行き着きます。地域を構成するという点においては対等であるはずの住民間の亀裂は、今もなお民主主義の定着を阻害しているといってよいでしょう。したがって、部落差別をなくすための道筋を構築する土台づくりは地域にあるはずです。地域社会の歴史とその中に生きてきた差別のありようをとらえ、そこから展望を獲得していくことが必要となると考えられます。
 

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