中世の身分制と差別

(徳島県高等学校同和教育研究会編・刊『じんけん』2001年度版所収「部落解放の歴史を知ろう」のうち「中世」を一部改変)

 

中世の社会と身分制

 (1)部落史と中世

 ここでいう「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の11、12世紀から戦国時代末期の16世紀までです。ここでは、「部落史」をこの時代から説き始めます。といっても、現代の部落差別が中世に始まるという意味ではありません。

 今日の被差別部落は、一般的には、近世の被差別身分の人々の居住地がもとになっていることが多いといわれています。また、その前提として中世の差別意識や被差別民衆の存在があることも明らかになっています。しかし、近代以前の社会では、身分制に基づく差別が社会原理となっていました。これに対し、近代以後の社会は「平等」を基本としたために部落差別は社会問題化しました。その意味では、今日の部落差別はまさに現代的な課題にほかならないのです。

 (2)現代から中世を見れば・・・

 「中世」は、21世紀を迎えた私たちにとっては遠い時代です。しかし、意外に身近なところに中世の名残はあります。今日、「伝統文化」といわれる能楽や茶道などは中世文化に源流を持っていますし、華やかな山鉾巡行で有名な京都の祇園祭が、あのように盛大に行われるようになったのも、中世都市民の成長が背景にありました。

 文化史の面から見れば、中世は意外に身近で、また明るい印象をもちますが、この時代の生活は、輝かしさで満たされていたわけではありません。戦国時代のある村のくらしの一端を見てみましょう(1)

 9月10日 朝、守護方の侍たちが村へ攻めてきた。ぼくは、石を投げて戦いたかったのに、お父さんにしかられて、なべとつぼを持って山へ逃げた。

 9月11日 ゆうべはみんな山の中で寝た。朝早く、円満寺の鐘がカンカンと鳴った。山から、村の若衆が全員で敵におそいかかっていった。敵は不意をうたれてにげていった。

 2月4日 おなかがずっとすいている。しばらく友だちとも遊んでいない。お父さんといっしょに山に入って、ワラビの根と山イモを掘った。もうあちこち掘ってあって、なかなかとれなかった。友だちも大勢きて、掘っていた。木の皮をはいでいる人もいた。甚ちゃんが、食べるものがなくて死んだ。

 戦乱や飢饉と日常的に背中合わせで生活していることがうかがえるでしょう。中世の日常生活の実態は、まだまだこうした不安定なものだったのです。

 (3)中世社会のしくみ

 中世には、荘園・公領が支配の単位であり、そのもとで形成された村のまとまりが生活の舞台となっていました。荘園は、天皇家、貴族、寺社などの私有地で、現地の武士によって管理されました。国司が治める公領でも、現地で役人となった武士が力をもちました。鎌倉時代以降、武家政権である幕府が新たな支配勢力としての地位を確立していき、幕府が置いた守護や地頭による支配も加えられていきました。

 こうした社会において、基本的な生産とされたのは農業でした。農民たちの中心は、年貢などの税を負担しながらも、自分たちの土地をもつ者でした。なかには、名主という地位につき、税の徴収などにあたった有力者もいました。また、領主や有力農民に従属した下人などもいました。一方で、山林や河海でいろいろな生業を営む人たちがいましたし、手工業や商業に携わる者もいました。

 この時代を通じて農山漁村の生産は発展し、生産物の流通が進みました。これは商品交換の場である市の形成、商工業の拠点となる都市の成立に結びつきました(2)

 (4)中世の身分制

 荘園公領の最上級の支配者である、朝廷、幕府、寺社は全体として国家権力を構成していました。そして、それぞれの支配の中で身分関係があったので、当時の身分はたいへん複雑で全国的に統一されたものではありませんでした。また、人間は生まれながら尊いものといやしいものとにわかれるという考えも広まっており、著しく観念的な身分制が機能していたともいえます。

 そうした身分制がある社会には、当然、差別がありました。その最底辺に位置づけられていたのが、「非人」でした。これは人間以外のものという意味で、当時の被差別民衆を全体としてとらえる概念です。そうした被差別民衆の実像については、次節で述べましょう。

(1)勝俣鎮夫・宮下実『戦国時代の村の生活』(岩波書店、1988年)からの抜粋。1501年(文亀元)から1504年(永正元)まで、和泉国日根庄(現在の大阪府泉佐野市)に滞在した領主九条政基の日記『政基公旅引付』(刊本;『政基公旅引付 本文篇・研究抄録篇・索引篇』和泉書院、1996年)をもとにした絵本である。

(2)阿波の場合、鎌倉時代末期の史料に、現在の山川町に開かれたと考えられる「やまさきのいち」がある(『鎌倉遺文』41−31905号、東京堂出版、1990年)。また、南北朝時代の史料には、現在の徳島市蔵本町付近にあったと思われる「倉本下市」が見える(『南北朝遺文 中国・四国編』6−5088号、東京堂出版、1995年)。

 流通の発展については、徳島市中島田遺跡をはじめとする県内中世遺跡からの出土資料がその事実を雄弁に物語っている。その一部は、徳島県立博物館や徳島県立埋蔵文化財総合センターなどに常設展示されている。室町時代の史料『兵庫北関入船納帳』(刊本;『兵庫北関入船納帳』中央公論美術出版、1981年)も、港津や流通の発展の様相を物語り、重要である。

 

中世被差別民衆の発生と生活

 (1)被差別民衆の発生

 中世における被差別民衆はどのようにして生まれてきたのでしょうか。

 当時の身分制、すなわち差別のシステムを基底部から支えたのは、民衆の共同体です。村々では、有力住民を中心にまとまりができていき、しだいに自治的なしくみが育っていきました。しかし、その実態は一部の有力者が下層住民を支配しているものでした。また、村のまとまりが強まると、住民とそうでない人たちの区別をはっきりと意識することにもつながりました(1)。中世の「自治」とは、このように差別や排除を前提として成り立っていたのです。

 中世の「非人」の発生経路はさまざまですが、その主たる理由は、経済的困窮や病気などによって、共同体から脱落・排除されたことによると見られています。

 これらの人たちは、病気や排除ゆえにケガレとされ(2)、社会の正式なメンバーとは見なされませんでした。とくに癩病患者は前世の報いを受けた身と考えられ、もっともケガレた者として差別を受けました(今日では癩病とはハンセン病を指しますが、中世には重度の皮膚病を総称していうことばでした。なお、現代の医学では、ハンセン病の治療法は確立しています)。

 先に述べたように、中世の生活は、けっして安定的なものではありませんでした。したがって、当時の社会は、絶えず「非人」を生み出し続ける性質をもっていたといってよいでしょう。

 共同体から離れた人々は、物乞いをしたり、いやしいとされる仕事につきました。そして、人や物資の集まる都市周辺、寺社の門前、川原などに集まっていき、新たな社会集団を形成していくようになります。

 (2)被差別民衆の生活

 被差別民衆は、居住地や仕事、支配関係によってさまざまな名称・実態があり、河原の周辺に住んだ河原者、坂や峠に住んだ坂の者、雑芸能に携わった声聞師(しょうもんじ)・散所非人(さんじょひにん)などに分かれていました。なかには、朝廷や寺社の支配を受けて、清掃や死体処理、犯罪人の逮捕、処刑などを行った場合もあります。これらの仕事は、ケガレを浄化するキヨメの職能と総称することができます。彼らはその身がケガレを帯びていると観念されたがゆえに、キヨメの能力をもつと考えられたのです。当時のケガレ観念は、排除・差別と同時に、神秘性と畏怖の面をあわせ持っていました。

 近世の被差別身分の中核は「えた」身分ですが、すでに鎌倉時代から「えた」は登場しており、皮革生産などに携わっていました。室町時代の史料では、河原者の別称とされています。被差別民衆の仕事はそのほかにも多様であり、牛馬による運搬、染色、壁塗り、井戸掘り、造園、芸能などがありました(3)

 とくに、龍安寺、伏見城など、日本文化を代表する中世の庭園は、河原者がつくっており、注目されます。銀閣寺の庭を造った善阿弥、二郎三郎、又四郎のように3代にわたる名手も出てきました。

 また、中世の芸能を支えたのも声聞師・散所非人などの被差別民衆でした。千秋万歳(4)、曲舞(5)や猿楽(6)などの芸能にたずさわったり、操り人形を舞わす芸などをしながら諸国をわたり歩く人々がいたのです。これらの芸能は、宗教的な意味をもつものであり、民衆ばかりでなく支配者にも受け入れられていました。観阿弥・世阿弥親子のように猿楽を猿楽能として大成させる者も出てきました。ほかにも、歌舞伎や人形浄瑠璃といった日本の古典芸能は、もとはといえば被差別民衆がになった芸能と関わる側面が大きかったのです。

 中世の被差別民衆の職能は、上に挙げた非農業的なものばかりではありません。室町・戦国時代の農村部では、被差別民衆が田畑の耕作権を得て、独自の集落を形成した例もあります(7)

(3)阿波の被差別民衆

 では、阿波における被差別民衆の実態はどうだったのでしょうか。残念ながら史料に乏しく、その点を明らかにすることはできません。ただ、中世後期から近世の史料に注目すべき点があるので、紹介しておきましょう。

 15世紀後半の史料に、「まいまい」と注記された、阿波の「おんようの一類」の記載があります(8)。陰陽道(おんみょうどう)系の呪術的な意味をもった舞を舞ったものと考えられますが、声聞師に類する被差別芸能民だった可能性があります。

 また、近世初期の軍記『みよしき』(9)には、三好長治(10)が「あおや四郎兵衛」という染色業者を取り立てたとして、「ゑったましわる者は必ずほろび候」と記されています。阿波で染色業者=「えた」として差別されていたのかという事実関係は不明ですが、中世には、藍染めは河原者・「えた」の典型的な職能のひとつと認識されていた(11)ことからすると、イメージないしは知識として、差別観念が阿波に流入していたと考えることはできるでしょう。

 さらに、先に触れた農村部での集落形成の事例を踏まえると、近世初期の阿波の検地帳に見られる「かわや」といった被差別民衆は、中世末期までには独自の集落をつくりはじめていたとも考えられるでしょう。

 近世との関連から考えるとき、今ひとつ注目すべきことがあります。それは近世における被差別身分の多様性(よく知られている「えた」、非人のほかに掃除、猿牽、茶筅師、探禾といった身分がありました)と分布における地域性の顕著さです。例えば、芸能活動に特徴があった掃除身分は吉野川上流域だけに見られました。こうした近世のありようは中世社会の実態を反映したものとも考えられます(12)

(1)惣の成立はその好例であり、掟には成員に関する規定が見られる。『日本思想大系 中世政治社会思想』下(岩波書店、1981年)参照。

(2)ケガレ観念のさまざまな理解については、辻本正教『ケガレ意識と部落差別を考える』(解放出版社、1999年)を参照。ケガレと差別の関係については、インド史研究の観点から論じられた小谷汪之『穢れと規範』(明石書店、1999年)が提示する視角が参考になる。 

(3)「えた」が登場するもっとも早い時期の史料は、鎌倉時代中期の辞書『塵袋』や絵巻物『天狗草紙』である。これらを含め、中世被差別民衆の職能については、部落問題研究所編『部落史史料選集』1(部落問題研究所、1988年)所収史料を参照。

(4)正月に祝言を述べて歌い舞う門付芸。舞い手と鼓打ちの2人1組で行われた。

(5)南北朝時代から室町時代にかけて行われた芸能の一つ。鼓に合せて歌い、舞う。

(6)能楽の源流となった芸能。平安時代には曲芸、滑稽技、物まね芸などをいい、平安末期には筋立てのはっきりしたものになったらしい。鎌倉期には楽劇的要素が加わり、さらに室町初期にはせりふ劇と歌舞芸のあわさった芸能となって、現在の能楽の祖型というべきものが登場した。

(7)三浦圭一「惣村の起源とその役割」(同『中世民衆生活史の研究』思文閣出版、1981年)参照。

(8)「旦那売券」(「米良文書」547号[『熊野那智大社文書』2、続群書類従完成会、1972年])。

(9)『阿波国徴古雑抄続篇』(徳島県立図書館、1958年)所収。現存するのは、やはり軍記である『昔阿波物語』の著者 二鬼島道智による写本をさらに転写したもの。

(10)三好氏は守護細川氏の被官から成長し、戦国期には幕府の実権を掌握した。長治(1553〜1577)をもって、阿波三好氏は滅亡した。

(11)丹生谷哲一「非人・河原者・散所」(『岩波講座 日本通史』8、岩波書店、1994年)参照。

(12)『徳島県部落史関係史料集』3−202号(徳島県教育委員会、1978年)。こうした被差別身分の多様性と地域性については、高橋啓「身分制支配の展開」(同『近世藩領社会の展開』渓水社、2000年)を参照。

 

コラム ケガレ観念の展開−現象から人へ

 差別の歴史を考えるとき、ケガレ観念は重要な位置を占めています。

 ここで平安時代に遡ってみます。この時代、貴族社会ではケガレに対して過敏なほどの恐怖心が広がります。今日では、ケガレという言葉は不浄=汚れ・穢れと考えがちですが、当時は犯罪や失火もケガレと認識されました。とりわけ、死や血のケガレ(不浄)を忌み嫌う考え方が浸透しました。それを裏付けたのが陰陽道(1)と仏教でした。

 したがって、当時のケガレとは、秩序から逸脱したり、秩序を乱したりするものと理解される現象でした。秩序の維持された日常性が「正常」であるとすれば、ケガレとはそれを否定するものといってもよいでしょう。もっとも、ケガレについての統一的な基準はなく、時と場合によって判断される面もありました。

 また、10世紀の法令書『延喜式』(2)には、ある人のもとで発生したケガレが伝染するということも書かれています。目に見えない「ケガレ」がいかに恐れられていたかわかる事例です。

 なお、以上のような「現象としてのケガレ」は一定の儀礼を経れば、除去と原秩序への回復が可能と考えられていました。

 ケガレ観念は、貴族社会だけにとどまっていたのではなく、社会規範として広がりを見せていきます。そして、現象の理解というにとどまらず、人間の価値判断にも結びついていき、差別と不可分の観念となっていきました。

 例えば、女性に対する見方があります。平安時代半ばには、出産などが出血をともなうためにケガレとされましたが、一時的なものと考えられました。ところが、仏教の影響力が増してきた中世には、女性の存在そのものがケガレとして差別が定着していきました(3)

 本文で述べたとおり、中世の被差別民衆は病気や共同体からの排除ゆえにケガレの身として差別されましたが、同時にキヨメの能力を持つと見なされ、神秘と畏怖の念に包まれていました。しかし、中世後期になって村や町のまとまりが強まり、社会的分業が進んでくると、ケガレに伴っていた呪術性への畏怖の念は低下し、ケガレ観念の内実は変容していくのです。

(1)陰陽五行説(古代中国で発達した哲理。陰陽の二気と万物を生成する要素である五行から諸現象を理解する)に基づく宗教思想。これを担った陰陽師は、吉凶を判断する呪術宗教者だった。

(2)『新訂増補国史大系 交替式・弘仁式・延喜式(新装版)』(吉川弘文館、2000年)。

(3)平雅行「中世仏教と女性」(女性史総合研究会編『日本女性生活史』2、東京大学出版会、1990年)参照。
 

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