三好郡の中世をさぐる
―道と交流―

(2002.4.20 三好郡郷土史研究会総会講演の要旨。原題「三好郡の中世―道と交流―」)

 

はじめに

 ただ今ご紹介いただいた長谷川です。三好郡にはこれまでにも調査などのために何度も来ていますが、とりわけ思い出深いのは、2000〜2002年度に県教育委員会が行った徳島県歴史の道調査に参加し、伊予街道(井川町以西)、撫養街道(脇町以西)を担当したときのことです。故吉岡浅一先生をはじめとする地元の歴史研究者の皆さんのほか、多くの方のお世話になり、歴史の世界を身体で感じることができたことを、まざまざと思い出します。

 きょうはそうした経験にちなみ、「道と交流」をテーマとして三好郡における中世の世界を探ってみたいと思います。

 

山の世界

 今さらいうまでもありませんが、「三好郡」という地域は、吉野川上・中流域に位置し、その大半が山地です。かつて池田高校野球部が活躍した頃、「やまびこ打線」といわれましたが、それほどまでに三好郡には山深いイメージが伴っています。現代の感覚では「山深さ」はそのまま「閉鎖的」に直結した理解をもたらします。けれども、三好郡の歴史を振り返ったとき、そこには外の世界との多彩な交流が展開していたことに気付きます。例えば、井川町地福寺の大般若経は上野の僧侶が書写に関わっていますし、讃岐の細工師が修理に関わったものもあります。また、池田町三所神社の大般若経の中にも、讃岐の僧侶の関与が知られるものがあるのです。こうしたことからすれば、山を通じた陸の道、吉野川をはじめとする水の道が、多方向に開かれた交流を媒介していたと想定されるでしょう。「山深い」土地は閉ざされた空間ではなかったと見るべきなのです。

 では、三好郡のような山の世界が歴史の表舞台に登場してくるのはいつ頃のことでしょうか。また、その意義は何なのでしょう。

 三好郡は貞観2年(860)、美馬郡を分割して設置されました(『日本三代実録』)。ほぼ同時期の寛平8年(896)には名方郡が名東・名西の二郡に分割されています(『延喜式』)。いずれも、郡の中でも山間地域の分割が行われたものといえます。山の世界の分離・独立を物語るといってもよいでしょうが、その背景には阿波を含む各地で進行した山間部への人口移動と開発がありました。生産活動の拡大により、山間部が国家的な支配領域として認知されたものといってよいでしょう。

 こうした山の世界のクローズアップという点において、九世紀は阿波の歴史においても大きな意味をもつと思われます。その時期に三好郡は誕生したというわけです。山間部への人口移動が郡設置の背景にあるとすれば、すでに生活・生産と交流の舞台として歩み始めていたと思われるのです。

 

交通と軍事的要衝

 さて、そろそろ話題を中世に転じてみたいと思います。三好郡は阿波の中世史において枢要な位置を占めています。

 よく知られていることですが、鎌倉時代、承久の乱後に阿波国守護となった小笠原氏が、池田大西城に守護所を置いたという説があります。事実関係は不明ですが、四国全体の支配を考えたためと説かれたりもします。また、戦国時代には、土佐から侵攻した長宗我部氏が白地城を落として阿讃攻略の拠点としたと、近世初期の軍記などに記されています。

 このように政治的・軍事的拠点が置かれたと考えられるようになったのは、池田周辺を中心とする三好郡が、多方向に開かれた交通ターミナルであるという条件があったことによると見られます。人や物資の往来がなければ拠点を維持することはできませんし、軍事行動にも制約が大きすぎて意味をなさないのです。

 

山の道・水の道

 次に、具体的な道や交流の様相を探っていきましょう。冒頭で伊予街道の調査に携わったと述べましたが、その際に実に興味深い伝承を知ったことを思い出します。それは、谷底を通る近世の伊予街道が開かれる以前、八幡街道もしくは京街道といわれる尾根伝いの道が、白地から伊予の八幡浜へ通じていたというものです。この道は天正年間まで用いられたといいますから、蜂須賀氏の入部以前のものと考えられてきたのでしょう。

 今でも、登山の際(とくに道のないブッシュコースなど)は、尾根を歩くことが安全面と地形把握の上で基本とされます。これは同時に、山の道の原初形態を物語るといってよいと思います。すなわち、八幡街道の伝承は蓋然性が高いと思われるのです。事実、白地から西方の、街道が通じていたといわれる山には、ほぼ稜線に沿って集落が形成されており、山の道があり得たと見られます。

 こうした山の道は、白地以西にのみ考えられるわけではありません。戦前以来、阿波中世史研究のキーワードとして、「山岳武士」の存在が指摘されてきました。南北朝期、南朝に従い、剣山周辺山間部で活動した在地の武士たちがいたという説です。最近の研究では、山岳武士という用語自体の再検討が迫られていますが、少なくとも山間部で生活する人たち、山を往来する人たちがいたことは間違いないだろうと思います。そうであるなら、四国山地の東西に貫通する交通路があったと見てよいのではないでしょうか。

 山と関連しつつ、水運にも注意が必要です。三好郡の真ん中を吉野川が貫いていますが、これも重要な交通路です。近代になって鉄道、さらにはトラック輸送が普及するまで、川は物流の基本ルートでした。川はそれだけではなく、山間部に発する支流が多数あります。例えば、山から切り出された木材は、支流から本流へと流されていきます。したがって、こうした支流も含めた水の道を抜きにしては、山間部の交流をとらえることはできないといってよいでしょう。

 先に述べた陸の道と河川は、全体として山とその外部をつなぐ道であり、人や物資の往来を支えました。最初に例示した大般若経に見える人々の姿は、その中に位置づけられるものといえるでしょう。

 

『神道集』説話が語るもの

 以上に述べた道のあり方に関連し、『神道集』(現代語訳は東洋文庫シリーズの1冊として平凡社から刊行されています)に収められた説話に注目してみます。

 『神道集』は14世紀に成立したと推定される宗教説話集で、天台系民間宗教者が唱道に用いたと見られています。その中に「三島大明神の事」と題された説話があり、四国が舞台となっています。それには「伊予の長者橘清政は長谷寺の霊験により子どもを授かった。鷲がその子どもをさらい、伊予・讃岐・阿波・土佐の4カ国国境にある白人城を越えて阿波国板西郡へと向かった」ということが記されています。

 白人城については、4カ国国境ということや「白人」という表記からすると、戦国期に長宗我部氏が落とした白地城をいったものだろうかと思えます。

 なお、伊予河野氏の来歴を記す『予章記』に、河野氏の祖先小千御子が土佐の鬼類を捕虜にして伊予の「白人乃城仁蔵武」と見えますが、具体的な位置には触れていません。

 ところで、この種の説話は荒唐無稽と思われがちですが、一定の歴史的事実を背景としなければ成立しないことも忘れてはなりません。ここで取り上げた鷲の飛行ルートも、伊予から阿波へと通じる交通路を象徴していると考えられます。三好郡も含めて、国境は交通の結節点であるし、東西に通じるルートは先の八幡街道(京街道)のような山中を貫通する道や、吉野川を彷彿させるのです。

 「三島大明神の事」は四国が起点ですが、最終的には伊豆の三島明神の縁起として完結します。その点に注意すると、この説話自体が、広域交流を背景とした信仰文化の所産といってよいでしょう。同時に、説話の形成には旅の宗教者が関与している可能性を強く感じさせるものでもあります。鷲の飛行ルートに対応するものと想定した交通路も、彼らの行動したルート、すなわち信仰の道でもあったと思われます。

 

熊野信仰の伝播

 中世における信仰の道といえば、熊野信仰が注目されます。熊野信仰とは、熊野三山(本宮・那智・新宮)を聖地とする信仰で、中世には全国的な広がりを見せたことで知られています。「蟻の熊野詣で」といわれるほど、参詣者でにぎわったのです。もちろん、この信仰は阿波にも浸透していました。そこで、阿波における熊野信仰の展開と三好郡周辺の状況について検討してみたいと思います。

 このような信仰は、本来は霊場参詣に意味があり、そのために、御師―先達―檀那の三者を単位とした人的結合が形成されました。御師は熊野にいる宗教者であり、御祈祷師を意味します。祈祷や護符の発行などを行ったほか、宿坊を手配し、熊野を訪ねてきた檀那から代価を得ました。また、先達は檀那と御師を仲介する役目をもち、いわば地方在住のツアーコンダクターとして機能しました。檀那の代わりに熊野参詣をすることもありました。先達の多くは山伏でしたが、陰陽師、時衆聖や六部が行った例もあります。こうした人的関係は契約によって成立しましたが、やがて檀那から収益を得る権利が御師や先達によって動産として扱われるようにもなりました。

 さて、阿波にも多数の先達や檀那がいたことが、『熊野那智大社文書』等から知られます。その分布の特徴は、吉野川上・中流域(三好郡については、三好、太刀野、池田、祖谷山が見られます)、南部海岸域にとくに集中していることです。紀伊への参詣ゆえ、とくに水運の利便性と分布密度が相関しているのです。

 ここでの主題からは、吉野川上・中流域における熊野信仰の伝播について考えてみる必要があります。伝播のあり方として、まず想定されるのは、吉野川を遡るかたちで信仰が流入した可能性です。吉野川という水の道の性格を考えれば当然でしょう。しかし、可能性はこれだけではありません。

 12世紀の『長寛勘文』という史料に収められた「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野権現飛来ルートが書かれています。すなわち、中国天台山を発し、九州の英彦山、伊予の石鎚山、淡路の諭鶴羽山を経て熊野に鎮座したというのです。

 これは当時の熊野信仰の拠点とともに、熊野先達の活動や熊野信仰伝播のルートを物語っていると思われます。言い換えるなら、瀬戸内海沿岸を中心とした熊野信仰の道を表現したものといえるのです。そうすると、瀬戸内地域からの流入という想定も成り立つのです。

 信仰文化の広がりには、複数の道筋が想定されてよいはずです。それらが混然となっているのが実態でしょう。三好郡に近い吉野川上流の伊予国宇摩郡、土佐国長岡郡には、鎌倉時代から熊野信仰の拠点があったことからも、三好郡近辺は、熊野信仰伝播の結節点であったかもしれません。石鎚山の信仰との関連も考えるべきでしょうが、ここでは課題として指摘するにとどめておきます。

 

三好郡関係熊野信仰史料から

 三好郡の熊野信仰については、興味深い史料が二点あるので、紹介しておきます。いずれも「麻植郡川田村良蔵院所蔵文書」として『阿波国徴古雑抄』に収載されています。

 まず、「熊野三山御師江渡日記」(永禄12年[1569])があります。これは現在、鴨島町の仙光寺所蔵文書に含まれています。熊野信仰は庶民信仰と思われがちですが、実際には檀那の階層の広さが特徴です。この史料は、在地領主である白地城主大西覚用の熊野参詣に関するもので、参詣に際して熊野へもたらされた金品が詳細に書き上げられており、興味深いものです。覚用についての史料は少ないので、そうした意味での面白さもあるでしょう。

 次に注目されるのが、現在は写本しかない「阿波国念行者修験道法度」(天文21年[1552])です。これは「念行者」と称する山伏集団の法度です。彼らは阿波国内の山伏に対する指揮権を有するという意識を持っており、理念的には一国規模の結合組織を形成していました。また、大峰山や伊勢、紀伊熊野、山城愛宕山、高越山といった阿波国内外の霊場への代参・引導等の宗教活動を行っていたことから、熊野先達による組織という側面もありました。

 史料中には十九の関係寺院・坊が見えますが、その分布範囲が問題です。大半が吉野川下流域周辺に分布している中にあって、美馬・三好郡では「大西畑栗寺」がただ一つ見られるのです。阿波国西部の山伏が依拠する寺院として勢力を持っていたと見られます。この寺の所在は不明で、池田町シンヤマにあった山伏塚に廃寺跡という伝承があり、畑栗寺跡ではないかともいわれますが、この塚も所在不明となっています。

 

おわりに

 いささか散漫になりましたが、三好郡という地域を多方向に開かれた空間ととらえ、道や交流をテーマとしたトピックスを紹介してきました。 

 今回、高速道路を車で走って会場まで来ました。とても便利になりましたが、歴史の世界には、そうした現代人の感覚では理解できない価値、行動があるものです。道と交流をテーマにしたとき、そのようなことも改めて感じている次第です。ご清聴ありがとうございました。

  

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