中世の伊吹山と山伏
  −『大原観音寺文書』が語ること−

 
市立長浜城歴史博物館編『近江湖北の山岳信仰』(同館、2005年)掲載の解説文。文末の関係地図を省略した一方、参考文献を文末に掲げたほか、表記を若干訂正した。

 

はじめに−霊峰 伊吹山−

 滋賀・岐阜県境にそびえる伊吹山は霊峰として著名で、古くは記紀神話にも登場する。この山の神は伊吹神として近江・美濃両国で祀られ、いずれも式内社であった。『文徳天皇実録』や『三代実録』に神階昇叙の記録が見られる。
 また、『三代実録』元慶2(878)年2月13日条によれば、伊吹山は七高山(比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山、神峰山。九世紀頃から毎年春と秋には薬師悔過法を修した)のひとつであり、伊吹山護国寺という山岳寺院が開かれていた。この寺院は、修行僧である三修の活動によって発展を遂げてきたとも記される。
 伊吹山護国寺はやがて、弥高寺・太平寺・長尾寺・観音寺(いずれも正式には、「護国寺」を寺号とした)に分化したといわれている。そのうち、観音寺(大原観音寺と通称される)は現在、伊吹山から離れた場所に所在しているが、正元年間(1259〜60)、伊吹山中から現在地に移転したとされている。
 ところで、観音寺は、伊吹山四か寺の中では隋一の豊富な古文書(『大原観音寺文書』)が伝来することで知られている。この文書からは、中世の伊吹山に依った観音寺等の山伏の動向が浮かび上がる。以下では、そのあらましを紹介していく。

 

伊吹山の宗教組織と山伏

 中世の伊吹山は単一の宗教組織のもとに管理されているのではなく、大まかには弥高寺・太平寺・長尾寺・観音寺の4か寺と伊吹社・三宮の両社により構成されていた。
 ここで重要なのは、両社の存在である。伊吹社はいうまでもなく伊吹山の神格そのものであり、三宮は伊吹山の抖藪路の入口(後に一宿相論の焦点となる)にあることから、やはり伊吹山との関係が深い神とみられる。
 4か寺は、この両社の一切経会などの行事に対する負担が、社役として均等に課せられていた。それによって、各寺院の存立の裏付けであり、共通の聖地でもある伊吹山との一体化が図られていたと考えられる。またこの負担が、4か寺の並列関係を保つための安全弁として期待されていたものであろう。
 そうはいっても、4か寺の並列関係は安泰ではなかった。弥高寺と太平寺の間で本末相論が生じ、徳治3(1308)年に右に述べたような寺社の関係を確認しているし、後述する一宿相論のような、山伏を中心とする対立が生じていることも留意しておくべきであろう。
 次に、観音寺の内部組織と山伏の位置づけをみておきたい。
 観音寺は、衆徒(寺僧とも称した)を中心に構成されており、その代表として院主が寺務の中枢にあった。寺内にはまた、衆徒以外に、山伏や聖、承仕といった宗教者も存在した。これらは衆徒の下位に位置づけられたとみてよかろう。
 ここでとくに取り上げなければならないのは、山伏である。彼らは独自の序列をもつ集団を形成していた。無論、観音寺の成立経緯が伊吹山と関わっていることからすれば、衆徒が山岳修行を行うことがあったかもしれないが、「山伏」と呼称されることはなかった。したがって、伊吹山関係寺院に依拠する宗教者を一括して山伏とみるべきではないのである。
 山伏の宗教活動は、三つに大別できる。(1)伊吹山に関係するもの(抖藪行、伊吹社の行事)、(2)熊野先達としての引導・配札など、(3)観音寺や、岡社・三嶋社のような周辺村落神社の行事・祭礼への参加である。とくに、後二者は、山伏が地域住民の信仰に関与するとともに、それを観音寺に吸引する意味を持っていたと考えられる。
 おそらく、衆徒を中心とした組織や山伏の存在形態は、伊吹山四か寺に概ね共通したスタイルであろう。

 

山伏と地域的ネットワーク

 観音寺の山伏は熊野先達を務めており、具体的には永和3(1377)年の檀那願文(熊野本宮大社文書)に確認できる。彼らは、先達により構成される独自の組織形成を進めていた。それは「熊野山々臥行者講」といい、応安年間(1368〜1375)頃には形成されていたものかと思われる。この講は、先達と檀那の対応関係などを定め、先達間の利益保全を図っている。観音寺内さらには近隣も含めての、いわば寺辺レベルでの結合組織であると思われる。
 これに加えて、より広域的に展開する結合組織も確認できる。応安2(1369)年、観音寺山伏と行信律師の間で相論があった。「一国山臥蜂起」が行われて対決し、観音寺山伏は行信を放逐している。これに対し、行信が抵抗を続けたので、観音寺山伏は「国中諸寺」に自己の正当性の保証を求めている。ここにいう諸寺は、「一国山臥」の所属寺院と考えられるが、その実態は近江全域に広がるものではなく、伊吹山4か寺を含む湖北・湖東に限られる。伊吹山や熊野との関係など、何らかの点での観音寺山伏との共通性が媒介となったものと思われる。ここにみられるのは、単一の集団内では処理しきれない問題を、広域的な連携によって自律的に解決するシステムである。
 このように、寺院外に広がるネットワークが形成されていた点は、中世の山伏の動向を見ていくときに実に興味深いものといえる。

 

伊吹山一宿相論と聖護院門跡

 14世紀末〜15世紀、伊吹山を揺るがす相論が発生する。その争点は、伊吹山の抖藪における一宿が弥高寺と三宮のいずれであるかということだった。宿とは、山内の聖地であり、とくに一宿は入峰拠点としても意味が大きかった。
 三宮が一宿であればとくに問題はないが、弥高寺がそうであるなら、伊吹山は同寺と一体ということになり、4か寺の均衡を崩すものであった。それだけに、山伏を中心としながらも、衆徒を含む伊吹山全体の問題となったのである。対立関係は当初、弥高寺対他の三か寺となっており、後に弥高寺・長尾寺対観音寺・太平寺となる。
 この相論の過程では、先の「一国山臥」結合が介在しなかった一方、熊野三山検校である聖護院門跡が関与しており、その裁許の行方が焦点となったことが注目される。
 「一国山臥」結合が機能しなかったのは、それに含まれていた伊吹山4か寺グループに生じた問題であり、足並みがそろわなかったからだと思われる。また、弥高寺には守護権力が荷担していたため、政治的な問題でもあったためであろう。
 反弥高寺側としては、三山検校として山伏に関与する合理的根拠をもち、かつ守護に対抗しうる政治力・権威をもつ存在として、聖護院門跡の裁許を求めることになったと考えられる。
 具体的な経過をみておこう。応永7(1400)年、太平寺・長尾寺・観音寺の山伏は、弥高寺が三宮を一宿とする慣例に従わないとして、聖護院の下知を求めた。
 聖護院の対応は、三宮を一宿と認定し、弥高寺・長尾寺の山伏に対し、「当道之職」を解却するというものであった。「当道之職」とは、熊野先達としての職分と思われる。聖護院は、在地からの要請を踏まえて相論に介入しながらも、先達の任免にまで踏み込み、能動的な権能行使に及んでいるのである。
 これに対し、弥高寺は、伊崎寺5か寺の支援を得て反論し、その結果、聖護院の院家であり、熊野三山奉行でもある乗々院の坊官奉書により、弥高寺を一宿とする裁許が行われた。ところが、観音寺・太平寺がこれを拒絶したため、弥高寺がさらに乗々院に提訴し、相論は長期化している。最終的には、永享10(1438)年、伊吹社長者の仲介を得て、弥高寺の譲歩により、三宮を一宿とすることで和解が成立している。
 この過程で、伊吹山に依拠する山伏の聖護院への直属意識が定着している様子がうかがえるが、相論そのものに関しては、聖護院では在地状況を直接的に把握していないため、かえって事態を膠着させたという面があったことは確かであろう。
 では、相論の後、聖護院と山伏の関係はどのようになるのだろうか。寛正6(1465)年、了円という山伏が盗人を働いたとして、本寺である延暦寺の追及を受けた際の観音寺衆徒の対応が注目される。衆徒は伊吹山においては盗人が許容されるとして、聖護院門跡と地頭大原氏に事情を届けた上で成敗するよう主張している。このことは、山伏と聖護院の関係が、一宿相論における一時的なものではなかったことを示すであろう。聖護院は山伏の統括者と位置づけられ、それは衆徒からも認知されていたのである。

 

山伏と寺院秩序−寺内組織と本末関係の視点から−

 山伏が寺外にネットワークを形成し、さらには聖護院配下へととらえられていく動向は、山伏の寺内組織からの一定の分離、組織の複雑化を意味したと思われる。それは寺院の分裂・混乱の可能性をはらませることになったと思われるが、了円の事件における衆徒の対応にうかがえたように、現実には組織の柔軟化をもたらしたともいえよう。
 では、本寺である延暦寺にとって、山伏の動向はどのような意味をもったのだろうか。
 すでに紹介した伊吹山の一宿相論とほぼ同時期、観音寺は分郡守護京極氏や地頭大原氏の押領に見舞われていた。これに対しては、延暦寺は押領勢力の排除、末寺の維持に努めていたことが知られる。
 こうした延暦寺の姿勢からすれば、山伏の動向、とくに聖護院に結びついていく動きは、秩序の改変として否定されるべきであったはずである。だが、実際にはそうではなかった。その理由として考えられるのは、観音寺の基幹集団が衆徒であることによるのではないかということである。言い換えれば、延暦寺にとっての観音寺把握とは、衆徒を把握することにほかならなかったのであろう。そうであるなら、山伏の動向に対し、延暦寺が関わりを持たないのは不自然ではない。確かに、山伏は観音寺内の集団として本末関係の枠内に取り込まれてはいたが、了円の場合のように、犯罪を起こすこともでなければ、その存在を延暦寺が意識することはない、いわば本末関係の「間隙」的存在として位置づけられるのではないかと思われる。
 山伏が寺外にネットワークを広げ、また聖護院門跡のもとにとらえられていくとしても、それは衆徒を対象としないことから、既成の本末関係に抵触するものではなかったのではあるまいか。

 

おわりに

 山伏というと、一般には山の修行者としての側面ばかりイメージされがちである。確かに、山伏が山岳と無関係に存在することはない。だが、それに加えて寺院や地域といった多様な秩序のもとで活動し、自らも新たな秩序形成を進める歴史の主体として生きていた。それはある意味、地域レベルの宗教秩序編成に関わっているものともいえる。『大原観音寺文書』は、そうした歴史の痕跡を伝えてくれるのである。

 

 

主要参考文献
(1)史料集
  滋賀県教育委員会編『滋賀県古文書等緊急調査2 大原観音寺文書』滋賀県教
   育委員会、1975年。
  山東町史編さん委員会編『山東町史 史料編』山東町、1986年。
  福田榮次郎・神崎彰利校訂『近江大原観音寺文書』1、続群書類従完成会、
   2000年(2巻以下未刊)。
(2)論著
  A 伊吹山の山岳宗教に関するもの
   佐々木孝正「湖北観音寺と庶民仏教」(『印度学仏教学研究』19−2、
    1971年)。
   満田良順「伊吹山の修験道」(五来重編『山岳宗教史研究叢書11 近畿霊
    山と修験道』名著出版、1978年)。
   長谷川賢二「中世後期における寺院秩序と修験道」(『日本史研究』336、
    1990年)。
   増山智宏「中世修験道本山派形成過程の再検討」(『史苑』64−1、2003
    年)。
  B 大原観音寺と地域社会に関するもの
   宮島敬一『戦国期社会の形成と展開』吉川弘文館、1996年。
   福田榮次郎ほか「特集 『近江大原観音寺文書』の基礎的研究」(『駿台史
    学』101、1997年)。
   榎原雅治『日本中世地域社会の構造』校倉書房、2000年。
   湯浅治久『中世後期の地域と在地領主』吉川弘文館、2002年。
  


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