「六十六部」とは何か

(徳島県立博物館ニュース49[2002年]の「レファレンスQ&A」欄を改題・改稿)

 

 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者です。中世には専業宗教者が一般的でしたが、山伏などと区別のつかない場合も少なくありませんでした。また、近世には俗人が行う廻国巡礼も見られました。なお、奉納経典66部のことを指して六十六部という場合もあります。

 六十六部廻国巡礼の風習がいつ、どのように始まったのかは、はっきりしません。縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」です。北条時政の前世は法華経66部を66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けたと説くのです。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世を六十六部廻国聖とする伝承が定着していました。これらは、六十六部廻国巡礼の起源が関東にある可能性を示唆しています。

 史料的には、13世紀前半にすでに六十六部廻国が行われていたことが確認できますが、いつまで遡るのかは不明です。さかんに行われたのは室町時代以降、とくに近世でした。

 六十六部廻国聖による納経は、その名の由来どおり1国1カ所が原則的でしたが、なかには1国内で66カ所をめぐった簡略形もありましたし、逆に1国66カ所を66カ国分納経した例もあります。いずれにせよ、固定された納経霊場がないのが特徴でした。

 次に、六十六部廻国巡礼と阿波との関係を見ておきましょう。阿波における六十六部の痕跡は、中世末期の16世紀にまで遡ることができます。県外所在の資料では、島根県大田市南八幡宮鉄塔検出の銅製経筒群(16世紀)に、阿波在住の六十六部聖が廻国していることを物語る銘を持つ経筒が見られます。また、奈良市中之庄経塚出土の納経請取書(承応2〜4年[1653〜55])には、西国36カ国の六十六部廻国霊場が見られ、そのなかに阿波国那西郡の大瀧寺(阿南市の太龍寺)が確認されます 一方、徳島県内にある資料では次のようなものがあります。三好町馬岡神社の享禄2年(1529)銘の棟札に「本願六十六部越後国心海」とあったり、宍喰町願行寺の天正18年(1590)銘の山越阿弥陀三尊浮彫板碑に「為奉納大乗妙典経六十六部供養」等と見えるのが、かなり古いものとして注目されます。

 時代が降って、近世の六十六部廻国巡礼に関しては、六十六部廻国供養塔などの石造物が少なからず見られます(図1)。こうした石造物の銘には関係者の名前や地名などが刻まれているので、実際に六十六部廻国聖がどのような行動をしていたか知るための有力な手がかりになります。

 また、廻国巡礼者が用いた遺品が残されていることもあります。当館では、鳴門市在住の盛(もり)博さんからお預かりした巡礼資料を保管していますが、その中に六十六部廻国巡礼の笈や納札があります(図2)。

 六十六部廻国聖の事例は断片的なものが多く、今後の調査蓄積が期待されるところです。廻国供養塔などは、身近に見られるかもしれません。皆さんも調べてみてはいかがでしょうか。 

   
図1 井川町西井川の廻国供養塔
図2 盛家所蔵の笈

  

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