中世修験道史における阿波

 (徳島新聞2017.6.6付け朝刊に掲載された「徳島地方史研究大会に寄せて〈中〉」。一部改変)

 

 修験道とは、山伏による山岳修行と呪術的能力の獲得・発揮が不可分とされ、天台宗や真言宗など顕密仏教の一分野として成立した宗教である。

 「修験」という語は、9世紀から史料に見られ、密教僧の呪術的能力を評価していうものであった。11世紀までには、そうした能力の獲得には山岳修行が必須と考えられるようになるとともに、山岳での修行や活動を指して修験とされるようになった。山岳修行を専業的に行う山伏も現れた。

13世紀には、山伏が寺院社会における下層集団として定着し、彼らの活動が社会的に認知されていった。そして、13世紀末に至ると、山伏の修行や諸活動を包括して修験道というようになった。その意味で、修験道は中世仏教・寺院が生み出したといえる。ただし、宗派性を持った教団的な組織が出来上がるには、中世から近世にかけての長い時間を要した。

以上のように、修験道の形成が進行する中、地方の霊山も修験道と結び付けられていった。吉野川市の高越山はその例であり、蔵王権現信仰や役行者伝説が浸透し、修験道の霊山として定着していったようである。神山町の焼山寺も類例とみてよいように思われる。

 修験道の担い手である山伏は全国におり、中でも熊野信仰にかかわる山伏(熊野先達)の動向が重要である。熊野信仰は全国に広く浸透したことから、山伏の影響は大きかったと考えられるからである。ただ、具体的な様子が知られる史料は全国的にも少ない。

阿波の場合、吉野川市の仙光寺文書や神山町勧善寺大般若経といった中世史料から、地域に密着した具体像を知ることができる点で珍しく、もっと注目されてよいだろう。

 山伏は寺院や山岳霊場に地域的な拠点を持ちながらも、修行の必要性などから広域的に活動した。宗派や本末関係といった寺院の秩序から離れて集団化することで、自治組織を形成した。近畿地方などでは、その上に聖護院門跡のような権威を推戴することで修験道組織の基礎となっていった例が確認できる。

一方、「阿波国念行者修験道法度写」という史料によると、阿波でも16世紀、領主の庇護を受ける形での組織が存在した。しかし一定の自律性を保ち続け、高位の宗教的権威を求めることはなかった。

こうした集団の在り方に着目すると、山伏は自らの展開方向に一定の選択肢を持っていたといってもよい。その意味では、山伏は宗教秩序の一端を掌握していたといえるだろうし、地域社会の自律性を体現するものでもあったといえるのではないだろうか。

 

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