水主神社経函の材木  

 
唐木裕志・橋詰茂編『中世の讃岐』(美巧社、2005年)掲載。表記を訂正した。

 

 香川県東かがわ市の水主(みずし)神社には、中世に書写された大般若経が二部伝えられている。本殿内陣に安置されていたといわれるもの600巻(内陣大般若経)と、外陣に安置されていたといわれるもの570巻(外陣大般若経)である。 このうち、内陣大般若経は、1函に10巻ずつ、計60個の経函に収納されている。これらが一括で、国指定重要文化財となっている。

 経函のうち32個の底に、「水主神社大般若経函底書」と通称されている墨書があり、奉加帳や縁起などが記されている。101〜160巻を収める6函には、至徳3年(1386)の経函造営・修復の奉加帳がある。その末尾に経函の製作について記載があり、「箱ノマハリノ木ハ皆阿州吉井ノ木工ミ成法之助成也」とある(『香川県史』古代・中世史料)。経函の資材となった材木が阿波国吉井から供給されたことが分かる。経函製作の背後に、国を越えた広域的な交流があったのである。

 「吉井」とは、徳島県南部を流れる那賀川の中流南岸、阿南市吉井町・熊谷町に比定され、四国霊場21番札所太龍寺の北東に位置する。

 経函の材木が供給された14世紀後半、吉井を含む那賀川上流域から下流域一帯には、広大な那賀山荘があった。天皇家の所領である長講堂領荘園であったが、当時は、京都の天龍寺が全体の地頭職を得ており、さらに、一部地域における領家方年貢の収納をも行っていた。一方で、鎌倉時代中後期以降には、吉井及び隣接する加茂(阿南市加茂町)を中心に太龍寺領があった。吉井は、天龍寺領と太龍寺領の入り組みの中にある土地だった。

 ところで、那賀山荘域の大半は山林であり、材木の産地であった。例えば、元応2年(1320)の「鴨御祖社要木注文」(『鎌倉遺文』)には、荘内の大由郷(阿南市大田井町付近に比定される大田郷の誤記か)から、京都の下鴨神社の造営のために材木が供給されている。また、至徳4年(1387)の「天龍寺土貢注文案」(『南北朝遺文 中国・四国編』)にも、天龍寺が那賀山荘から得る収入として、榑(板材)の代銭が挙がっている。

 このような那賀山荘の特徴を背景として、吉井から経函の材木が供給されたのである。それは那賀川の水運を通じて、那賀山荘の産物集積地であった河口の平島(阿南市那賀川町南半部)に至り、さらに海路を経て讃岐へともたらされたであろう。

 なお、水主神社外陣大般若経のうち、1〜80巻は、もとは応永5〜6年(1398〜99)、吉井よりはるか南の、阿波国海部郡薩摩郷(海部川流域に所在)の八幡宮に奉納されていたものである。ここにも阿波国南部と水主神社の結びつきがある。

 それにしても、これらの交流の背景には何があったのか。今後の追究が必要な課題である。

  


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