徳島県立博物館ニュース, (45): 2-3, Dec., 2001
Culture Club
博物館が対象にしているいろいろな分野には、徳島県にゆかりの方で、日本的に、あるいは世界的にも有名な研究家が何人も知られている。考古学の鳥居龍蔵博士や歴史研究家の喜田貞吉博士などもそうであろう。このような人は地元の方々には案外知られていない場合が多く、いろいろな分野ごとにそのような人物の経歴や業績を紹介することは大切なことであろうと思われる。
博物館の昆虫担当として、徳島県の昆虫類を調査する中で、いろいろな文献から、過去の徳島県の昆虫に関する研究において、多くの方々が活躍されていることを知った。それらの人物の中に、私が早くから興味を抱いた人がいる。今回、幸いなことにその人物に関する資料をご遺族から提供いただき、その人の略歴等を知ることができたので、阿波の昆虫研究家列伝の第1回目として、高橋尚孝氏を紹介したい。高橋氏は、おそらくもっとも早く徳島県の昆虫のほぼすべてのグループについて日本国内に広く紹介した徳島県人であり、その業績は高く評価されるべき人物である。
高橋尚孝氏は、現在の徳島市立城西中学校に近い加茂村矢三に、父団三、母クマの四男として1914年(大正3)に生まれた。田宮尋常小学校を卒業後、鳴門の親族の家の養子となり、旧制の撫養中学(現在の鳴門高校)に入学。1933年(昭和8)に卒業している。この中学時代の同級生に、現在も活躍中の植物研究家、赤沢時之氏(元高知女子大教授)がおられ、二人はひじょうに仲がよかったようである。
尚孝氏は子どものころから昆虫が好きで、家のまわりや眉山、吉野川の河川敷、中学時代は鳴門市周辺などの昆虫を採集してはその名前を調べている。旧制中学時代の彼はまさに昆虫しかないという毎日で、採集と、得られた昆虫の種名を調べる同定作業の連続であったようである。
しかし、彼は単なる「虫好きの子ども」ではなかったようで、それは、松村松年著の「日本昆蟲大図鑑」が蔵書中にあることからも想像できる。この図鑑は研究者や図書館、大学の研究室でもなければ購入しそうにもないもので、1931年(昭和6)6月18日に出版された。日本産の昆虫6000種を扱い、ページ数が約1500ページ、索引が200ページというそれまでの常識を破るような分厚いものである。値段は定価18圓となっている。これが現在の価値に直していくらになるかはよくわからないが、おそらく一般人が簡単に買える値段ではないだろう。彼がこれを購入した日が同年の7月1日と書かれていることから、おそらく予約購入であったと思われる。
尚孝氏が「徳島県の未採集昆虫に就いて」と題して、徳島県の昆虫を初めて記録した(昆蟲世界、36(419):232−236。)のは1932年で、18歳の時である。その後、当時国内の昆虫関係雑誌としては「昆蟲世界」と並んで有名であった「昆蟲界」に、12回にわたって「吉野川下流地方の昆虫相(1)〜(完)」(1933-1937)を報告し、県内の昆虫約700種を記録・報告した。種ごとに採集デ−タを示すのではなく、和名と学名および生息状況を簡単に解説するものであるが、その第1回目には徳島市周辺の自然環境の概説と、「我が友人赤沢氏の研究に基づく」として、植物の分布概要も取り入れている。徳島の昆虫相解明とその成因を明らかにしたいという意欲に満ちたもので、それが現在の高校3年にあたる18歳から大学卒業までに行われたことに氏のエネルギーを感じるのである。
徳島県で発行された昆虫や植物に関係した雑誌類の創刊年を見ると、もっとも古い「阿波の自然」が1947年、「阿波の虫」が1954年、「昆虫科学」が1955年、「とくしま虫の国」が1957年となっていて、尚孝氏が書いた時よりもかなり遅れる。
東京農業大学で、昆虫学を専攻し、1937年(昭和12)に本科を卒業。研究テーマは蛾類の分類であったようで、その当時の蛾の標本が少しではあるが今も残っている。ラベルの地名にはTOKYO-SHIとあり、70年ほど前の東京に生息していた昆虫の一端を知ることのできる貴重な標本である。蛾といっても一般によく見かける大型のものではなく、数mmから1cmほどの小さな蛾類で、小蛾類と呼ばれるなかまである。小蛾類の研究者は現在でも日本には数人しかいない。当時、このようなグループを研究対象に選んだのは相当に珍しいことではないかと思われる。
大学卒業後、徴兵検査を受け、甲種合格となったが、同時にまったく気がつかずにいた結核を告知されて自宅療養を命じられ、数年間の闘病生活を送ることになる。
太平洋戦争後、病が癒えて学校の教員となり、その後は徳島県内の高校の教員を歴任し、城東高校長を最後に定年退職。剣道が大好きだったが、工業高校時代にはそこの校歌を作曲し、現在も歌われていると聞いた。多才な人物であったようである。
その間、虫からまったく離れたわけではなく、1954年(昭和29)にアブラゼミとキリギリスの聴覚器官についての研究発表を行い、徳島新聞に紹介されているし、40歳ころ、夏の夕暮れにできる蚊柱の成因に関する研究をドイツ語で発表したりしているが、野外で採集することはほとんどなくなってしまったようで、家人に「体力に自信がないから」と漏らしたという。
50歳過ぎに実家を継ぐ形となり、「生き物とのつきあいをやめざるをえなくなった」と残念そうに話したというが、自分の子どもたちには家のまわりで見られる生き物を一緒に観察してくれるやさしい「オヤジ」であったという。その後、印刷物になった昆虫関係のものは全くなく、1993年(平成5)11月、病のために79歳で逝去された。
小・中学校時代にこれほど精力的に徳島県の昆虫を調査し、報告も行い、矢野宗幹氏や高島春雄氏など当時のそうそうたる昆虫学者との交流もあった尚孝氏は、指導者に恵まれれば相当の研究ができた人であろうと思われるだけに、戦争や病気が、一人の昆虫学者が育つことを拒んだとも思われてしまうのである。
また、「昆蟲界」に発表された徳島県の昆虫の目録が、自分の標本に基づいた報告であることは確実であるだけに、徳島県産の標本がほとんど残っていないのは残念であるが、個人で大量の標本を管理することの難しさを考えると、それも仕方のないことであろう。
高橋尚孝氏を知る人はかなり多いであろうが、彼が子ども時代から青年期に、これほど昆虫に情熱を傾け、徳島の昆虫学の先駆者と呼ぶにふさわしい人であったことを知る人は案外少ないのかもしれない。
なお、今回、ご子息の永一氏からは各種資料の提供を受け、上記の雑誌、図鑑、標本等を当館にご寄贈いただいた。心からお礼申し上げる。(昆虫担当)