阿波の偉人再発見! 鳥居龍蔵
(『県政だより アワー徳島』連載 全8回)
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その1 城山貝塚とふるさと徳島
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平成21年12月号
(No.304)
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その2 カメラがとらえた台湾の人びと
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平成22年2月号
(No.306)
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その3 中国人姿で訪れた西南中国
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平成22年4月号
(No.307)
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その4 蓄音機におさめられた沖縄の唄
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平成22年6月号
(No.308)
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その5 カラチンの星
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平成22年8月号
(No.309)
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その6 コロポックル伝説の謎を探る
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平成22年10月号
(No.310)
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その7 ライフワークとなった遼代文化の研究 |
平成22年12月号
(No.311)
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その8 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館へようこそ |
平成23年1月号
(No.312)
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その1 城山貝塚とふるさと徳島
みなさん、「城山貝塚」を知っていますか?
「城山貝塚」は、徳島駅の北側、城山のふもとにあり、発見者鳥居龍蔵の名とともに、徳島公園を訪れる人に親しまれている遺跡です。
今から87年前、鳥居龍蔵は、この場所から貝殻が出ることを聞きつけ、徳島で初めて本格的な発掘調査を行いました。その結果、大岩の下で貝殻や土器の破片を、さらに洞窟や岩陰から人骨なども発見しました。これは、阿波の人々の縄文時代の生活がわかる大発見で、当時の大ニュースになりました。
では、この鳥居龍蔵とは、一体どんな人でしょう。
明治維新後間もない1870(明治3)年、龍蔵は徳島市東船場のたばこ問屋に生まれました。写真の彼は11歳。「気どった少年紳士」という雰囲気が漂っています。外国製のカメラで写されたもので、鳥居家の裕福さがうかがえる一枚です。
龍蔵少年は、観善小学校(今の新町小学校)に通っていましたが、学校になじめず、いつも逃げ帰っていました。しかし小学校では、彼の生涯に大きな影響を与えた教科書『小学読本』巻一との出合いがありました。この教科書に、「世界には5人種がある」と書かれ、そのさし絵が描かれていたのです。これを見た龍蔵少年は、世界は広く、いろいろな人種の人間がいることを初めて知り衝撃を受けました。彼が学問に目覚めた瞬間です。
学校嫌いの龍蔵少年でしたが、校外での自然や歴史についての授業は大好きでした。そして次第に、いろいろな本や新聞を読んだり、遺跡を探したりするようになりました。
読んでいた雑誌が縁となり、16歳で人類について研究をする東京人類学会に入り、東京大学の坪井正五郎との文通が始まりました。「彼のもとで勉強したい」と決意し、20歳のときに上京した龍蔵は、後にアジアを走破する世界的な人類学者となるのです。
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「城山貝塚」と龍蔵
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11歳の龍蔵少年
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その2 カメラがとらえた台湾の人びと
ここに民族調査の様子をとらえた1枚の写真があります。真ん中に座っているのが真っ黒に日焼けした26歳の鳥居龍蔵、そして彼のノートを覗き込んでいるのは、台湾の東岸部に暮らす原住民、アミ族の人たちです。
20歳で上京した龍蔵は、東京大学の人類学教室で標本整理を行いながら国内外の野外調査にも積極的に参加するなど、研究者としての道を歩み始めました。写真は1896(明治29)年、2度目の海外となる台湾調査の時に撮影されたものです。
言葉の通じない人とコミュニケーションをとるとき、皆さんならどうしますか?龍蔵は写真のように原住民にスケッチを見せ、発音してもらうことで一つひとつの言葉を習得し、台湾に暮らす人たちの生活や文化を記録しました。
この調査で特に大きな意味を持っていたのは、日本人として初めて野外調査にカメラを取り入れたことです。それまではスケッチで記録するだけでした。龍蔵のこの発想の背景には、きっと幼い頃に撮られた写真の記憶があったのでしょう。
しかし、誰もがカメラを使えたわけではなく、龍蔵も調査に出発する前にはずいぶんと撮影の練習を重ねたようです。しかも、写真機(暗箱)自体が重くかさばる上に、フィルムの役目をするガラス乾板は1枚が約100g。500枚で50㎏と相当な重さになり、持ち運ぶのは大変な作業だったはず。さらに、写真を知らない台湾の原住民にレンズの前に立ってもらうことも困難を伴ったことでしょう。
そうした苦労の結晶として、東京大学には834枚の台湾の写真が現存しており、それらは今、19世紀末の現地の様子を知る貴重な資料となっています。
龍蔵は、1900年までの4度にわたる台湾調査ですべての原住民部族の身体・言語・生活文化を調査し、彼らの源流は西南中国にあると考えました。龍蔵が次に選んだ調査地、それはもちろん西南中国でした。
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アミ族からの聞き取り風景
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その3 中国人姿で訪れた西南中国
台湾の原住民族の調査を終えた龍蔵は、その起源を探るには西南中国に住む苗(ミャオ)族の調査が不可欠と考えました。西南中国とは、長江の上流にある湖南・貴州・四川・広西・雲南省とチベット自治区のことです。この地域には、文化や言語が異なる多くの少数民族が住み、民族学研究にとって古くから注目されていた地域でした。当時、ヨーロッパの学者による研究が進んでいましたが、日本人では龍蔵が初めてことの地域の研究を行ったのです。
しかし、この地域は治安状態がとても悪く、中国政府からなかなか旅行許可が出ないほどの危険地帯でした。
龍蔵は、研究のためならと危険を顧みませんでした。彼は身を守るため、上海から船で漢江(現・武漢)へ行き、そこで中国服に着替え、中国帽に辨髪(べんぱつ)という中国人の姿で長江をさかのぼりました。湖南省の洞庭湖から貴州省に入り、高原地帯を横断し、各地で苗族の身体計測や写真撮影のほか、言語や神話、衣服や食事、住居などを調べました。
さらに、貴州省から北上し、四川省成都へ。この行程は、厳しい山岳地帯を越え、最も危険と言われていた彝(イ)族(当時ロロ族)の多く住む地域を通過しなければなりません。このあたりは中央政府の支配がおよばない場所でしたが、龍蔵は彝族の習俗を記録し、他の少数民族についても丹念な記録を残しています。
1902(明治35)年7月から翌年3月までの9カ月間、調査距離にして約4千キロに及ぶ大調査。川を船でさかのぼり、山岳地帯を馬や山駕篭(かご)・輿(こし)、徒歩でカメラやガラス乾板などの重機材を運びながらといった調査活動ぶりは、例えて言えば日本のインディ・ジョーンズといったところでしょう。
また、龍蔵はこの調査で民族楽器の銅鼓(どうこ)や蘆笙(ろしょう:笛の一種)なども持ち帰りました。特に、太鼓のようにたたいて音を出す銅鼓は、材質や文様の意味、使いみちなどの詳細な調査研究を行いました。徳島県は銅鐸が多く出土することで有名ですが、龍蔵はこの銅鐸と銅鼓の関連についても興味を示したのです。
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辨髪の鳥居龍蔵(右端)
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その4 蓄音機におさめられた沖縄の唄
沖縄県八重山諸島の石垣島に国指定史跡「川平(かびら)貝塚」があり、中国製の陶磁器や地元で作られた土器が大量に出土しています。この貝塚を初めて発掘調査したのが鳥居龍蔵でした。龍蔵は、この貝塚から出土した把手(とって)のついた土器に「外耳土器(そとみみどき)」と名付けましたが、この言葉は今でも使われている学術用語になっています。そして、八重山の人たちがどこから来たのか、台湾や沖縄島の人たちと歴史的にどのような関係にあったのかについても研究しました。
龍蔵は、1896年の第1回台湾調査の帰りに沖縄に立ち寄ったことがありましたが、本格的な調査は、1904年に行いました。この時は、後に「沖縄学の父」ともよばれる伊波普猷(いはふゆう)とともに沖縄に赴きました。
そして、沖縄における考古学調査の口火を切った龍蔵は、沖縄島の伊波貝塚、荻堂貝塚を調査するとともに、沖縄の言葉や民謡にも関心をもって、それらを録音しようと考えました。そのために、蝋管蓄音機(ろうかんちくおんき)を調査に持ち込んだのです。これは、円筒形の蝋管に音声を記録していくものですが、その蝋管蓄音機を野外調査に使用したのは、学界で最初のことであろうと龍蔵自身が自叙伝でふり返っています。その蝋管で、沖縄島や八重山諸島の民謡を録音しました。この時の蝋管は東京大学人類学教室に保管されていましたが、残念ながら、関東大震災の時に失われてしまったようです。
また、民俗芸能や風習にも関心をもち、ノロの調査をしたり沖縄演劇を鑑賞しました。掲載した写真は、頭上運搬する首里の女性を写したものです。
台湾調査の時からカメラを導入したり、沖縄調査で蝋管蓄音機を用いたことなどは、当時の最新機器を取り込む自由な発想力が龍蔵にあったことを示すエピソードといえるでしょう。
最後に、沖縄調査で注目されることをあげておきましょう。それは、地元の研究者とともに「沖縄人類学会」や「沖縄学術研究会」の発足に尽力したことです。地域で地道に努力していた研究者とともに歩んでいこうとする姿勢が感じられる出来事です。
なお、龍蔵が沖縄島や八重山諸島の調査で得た土器は、現在、東京大学総合研究博物館に保管されています。
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頭上運搬する首里の女性
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その5 カラチンの星
徳島県内で使われている中学2年の道徳の教科書に「カラチンの星」という作品があります。これには、鳥居龍蔵・きみ子夫妻が内モンゴルのカラチンで苦労しながら調査する姿が描かれています。
龍蔵・きみ子夫妻は、1906(明治39)年、当時の内モンゴルにあった王府の一つ、カラチン王府に教師として招かれました。カラチン王は、女子教育に力を入れており、その女学堂の2代目教師としてきみ子が抜てきされたのです。龍蔵も男子学堂の教師をしながら、周辺の調査もしたいと希望してのカラチン行きでした。
1年間の教師生活を終えた夫妻は、出産のため一時帰国した後、再び幼い子どもを連れて内モンゴルの地に戻りました。途中、北京やカラチン、赤峰(せきほう)で休養を取りながら(1907年11月下旬には、赤峰でモンゴル語を学習しながら周辺地域の調査も行いました)準備を進め、1908年3月15日、いよいよ親子3人での調査に出発しました。内モンゴルを馬車で北上する旅の途中、最も苦労したのは、シラムレン河を渡ることでした。河には現在のように橋は架かっておらず、しかも龍蔵たちが河に差し掛かった時は解氷期で水かさが増し、とても渡れる状況ではありませんでした。渡れる場所を探しながら数日間を過ごし、やっとのことで渡りました。草原を駆け念願の白塔に到着し、熱心に調査を行いました。
その後、さらに北に向かい、外モンゴルに入り、ヴェルノール湖にまで行きました。近くの王府で、王が力士を召し抱える習慣があるモンゴル相撲を見学したり、チベット仏教やシャーマンの調査なども行い、8カ月におよぶ調査を終えて11月9日に北京に到着しました。
龍蔵の調査を助けてくれたのは妻と子でした。幼い子どもは地域の人々と話す雰囲気を和やかにし、きみ子の堪能なモンゴル語も龍蔵の調査には大きな力となりました。民俗学的な調査はきみ子に任すまでになっていきました。
この調査をきっかけに、たびたび龍蔵はモンゴルの地を訪れています。その成果は「満蒙の有史以前」という論文に結実し、夫婦の念願であった文学博士号を取得しました。
現在、カラチン王府は、清代蒙古王府博物館として復元整備されています。カラチンでは、きみ子が教えた日本の歌が今も歌い継がれているそうです。
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その6 コロポックル伝説の謎を探る
国の政策によって、千島アイヌのシコタン島への強制移住がすすめられていた19世紀末に、鳥居龍蔵は千島列島の民族調査の機会を得ました。1899年5月のことです。
そもそも龍蔵が千島列島の調査に向かうことになった目的の一つは、師匠であった坪井正五郎が唱えていたコロポックル説を検証することにありました。コロポックルは、アイヌの人たちが語り伝えてきた伝説に登場する種族で、アイヌが北海道や南千島・サハリン(樺太)に定住する前から、この地方に住んでいたといわれていたのです。背丈が低くて動きがすばやく、漁にも巧みで、フキの葉で葺いた竪穴に住んでいたと語られてきました。
龍蔵は、函館から警備艦武蔵に乗船し、根室に寄港してからシコタン島に投錨します。ここで案内人としてアイヌ人グレゴリーに同行を求め、エトロフ島、ウルップ島、パラムシル島などに寄りつつ、千島列島北端のシュムシュ島を訪れます。そして、帰途再びシコタン島で約1カ月滞在して調査をしました。もうすでに、この時には北千島に住むアイヌの人々はこの島に移住されられていたのです。環境の変化もあって、人口も急減していました。
龍蔵は、この調査で千島アイヌの体質・言語・風俗・習慣・古伝・口碑などを調べ、この地域の先住民族をコロポックルとする坪井の学説をくつがえして、アイヌこそが石器時代からの先住民であると結論づけました。たとえ師弟関係にあろうとも自説を真っ向から主張するところに、龍蔵の学問に対する誠実さがあらわれていると考えられるでしょう。
千島アイヌがほとんどいなくなってしまった今となっては、龍蔵の著した『千島アイヌ』が、ほぼ唯一といえる千島アイヌの民族誌であり、その滅びゆく民族に対する情愛の念がみごとに凝縮された文章が綴られています。
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その7 ライフワークとなった遼代文化の研究
1924(大正13)年、龍蔵は助教授まで務めた東京大学を辞職し、自宅に「鳥居人類学研究所」の看板を掲げ、家族による調査を始めました。龍蔵のライフワークといえるのが中国の古代国家「遼」の文化研究で、重要な調査が、内モンゴルのワールマンハにある慶陵の発掘でした。
慶陵は、遼の皇帝の墓で、東陵、中陵、西陵の3基が並んでいました。龍蔵は1930(昭和5)年、遼の7代皇帝・興宗(こうそう)の墓と考えた東陵の発掘を行いました。東陵には、後室・中室・前室などの七つの墓室があり、それぞれに壁画が描かれていました。
1933年には、まさに家族総出で慶陵の再調査を行いました。妻のきみ子がマネージャー兼測量、娘の緑子がスケッチ、息子の龍次郎が写真を担当しました。極寒のモンゴルの山中での調査だったため、健康も損ないました。それでも、家族で頑張って大きな成果を上げたのです。調査成果は『考古学上より見たる遼之文化 図譜』として4冊が刊行されていますが、考察などをまとめた本文編は残念ながら未刊に終わっています。
さて、去る11月3日に県文化の森総合公園内に鳥居龍蔵記念博物館が開館しました。その第1展示室に、東陵の展示があります。東陵中室の西側半分を原寸大で復元したもので、ここから出土した木偶(もくぐう)、壁画や塼(せん:煉瓦のこと)の一部、棺材(かんざい)なども展示しています。東陵全体は23分の1の縮小模型としました。東陵の墓室は、塼をドーム状に積み上げて作り、塼の上に漆喰を塗り、壁画を描きます。緑子の描いた秋の図のカラースケッチなどを参考としました。
第2展示室には龍蔵と家族に関する遺品や書斎のイメージを復元して著書や蔵書類などを展示しました。また、1937年に調査した南アメリカの遺跡の写真やチャンカイ土器なども展示しています。
龍蔵の学問に対する情熱や家族の絆の強さなどをこれらの展示から感じてください。
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その8(最終回) 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館へようこそ
鳥居龍蔵は、1953(昭和28)年1月14日に82歳で、1959年にはきみ子が78歳で永眠しました。徳島県は龍蔵夫妻を顕彰するため、1965年に「鳥居記念博物館」を鳴門市妙見山に建設しました。建築後40年以上を経過し、建物の老朽化や耐震性の問題が生じたことから、文化の森総合公園内に新たに設置することになり、文化の森総合公園開園20周年の昨年11月3日に「徳島県立鳥居龍蔵記念博物館」が開館しました。
より多くの県民の皆さんに博物館に親しんでいただくため、説明パネルを手元に配置し、照明器具にはLEDランプを使用するなど、人にも環境にもやさしい展示を目指しました。
第1展示室の入口にあるモニターでは、龍蔵の調査の様子を当時の時代背景と合わせて映像で紹介しています。中に入ると、床一面に東アジアの地図が広がり、操作盤で地域を選ぶと龍蔵が調査で巡ったルートがLEDランプで示されます。奥には、中国「遼」の皇帝の墓である慶陵・東陵の復元模型を設置しています。また、「台湾・中国西南部」「遼」「中国東北部・内モンゴル」「朝鮮半島」「千島列島・サハリン・シベリア」「日本列島」の展示コーナーでは、それぞれ、特徴的な写真と収集した資料を展示しており、その中には護照(ごしょう:現在のビザにあたるもの)や馬頭琴、日本列島各地の出土品や徳島市城山貝塚の出土品など、今回新たに展示したものもあります。
第2展示室では、龍蔵や家族の遺品、書斎の復元などを展示しており、龍蔵が家族と一緒になって調査に携わった生涯をたどります。また、師匠の坪井正五郎(つぼいしょうごろう)や阿波が生んだ「最後の国学者」と評される小杉榲邨(こすぎすぎむら)などさまざまな交流も紹介しています。
第3展示室では、龍蔵が調査で初めて使ったころのカメラ、蝋管(ろうかん)蓄音機、土器パズルなどの体験学習や、龍蔵が調査した地域の民族衣装の試着ができるようになっています。また、パソコンで、龍蔵の生涯を映像で見たり、撮影した写真の一部を検索したりすることができ、子どもから大人まで楽しめるようになっています。
学問に情熱を燃やし、アジアを駆けめぐった鳥居龍蔵。龍蔵に続く方が徳島から生まれることを期待しています。
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