―徳島県の太々神楽― |
磯本 宏紀 |
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野山には草花が咲きほこり、虫たちの息吹を感じるようになる頃、県内各地で春祭りが行われます。人々にも再び活気が戻ってくる季節です。 ところで、この春祭り、実は稲作の1年間のサイクルに大きく関わっているようです。著名な民俗学者柳田國男の著した『日本の祭り』には次のような文章もあります。「人のよく言う春秋の両度の祭、これは農業ことに稲作の初めと終わりとを、表示したことはほぼ確かで、その前と後と定まった日を、山の神が田に下りまた田の神が山に入る日として、祭るという風も農村には多い。」という一節です。すなわち、田畑を自然災害から守ってくれると信じられていた田の神を迎え、その年の豊作を祈念する儀礼として認めようとする説もあるようです。そして、この五穀豊穣を祈願する祭りは宮廷行事の祈年祭とも結びつくともいわれますが、その根底に同一のリズムがあるとされるのです。 そんな春祭り、県下では地域によってさまざまな形で行われています。徳島市や鳴門市など県東部では各地の氏神では巫女(みこ)(舞姫とも呼ばれます)が舞う太々神楽(だいだいかぐら)が広く行われますし、県西部の三好郡や美馬郡に場所を移すと百手祭(ももてまつ)りといって、「鬼」などと書いた的を目がけて弓矢で射通すという的当て行事が氏神の境内で行われています。そのほか、伊勢神楽の系統を引くと言われる湯立て神事を行ったり、あるいは本社から御旅所までの神輿(みこし)の巡幸を行っている地域もあります。有名なところでは、鳴門の大麻比古(おおあさひこ)こ神社では4月24日に行われる湯立て神楽があります。そのクライマックスシーンでは、注連縄(しめなわ)で囲まれた祭祀空間にいて神事を執り行う巫女が、釜で沸いた湯を大麻を用いて氏子をはじめとする参拝者にはねとばしてかけるのです。この湯がかかると1年中健康でいられるとされるようです。いずれにしても、県下の春祭りは、バリエーションに富んだものだといえるでしょう。 今回、そんな春祭りの一つ、徳島市八万町宮ノ谷にある八幡神社で行われた太々神楽を紹介していきます。この八幡神社は通称「銅(かね)の鳥居」さんとして地域の人には親しまれるように、檜の外回りを銅板で巻いた両部鳥居があり、それが通称にも結びついています。この鳥居付近は地域の結集の場でもあり、幕末には郷士をここに集めて訓練したという伝承も残っています。 この八幡神社では4月15日に春祭りが行われ、このときに太々神楽が奉納されます。春祭り当日、社殿内の中央には高さ2メートル程の榊山(さかきやま)が設けられ、神前に向かって右手には氏子各地区の氏子総代23名が座り、左側には参拝者及び巫女が座ります。現在県下では巫女を務めることのできるのが藤川、宮崎両家の女性のみであり、八幡神社でもここから巫女を頼んでいます。現存する太々神楽が徳島、鳴門などを中心にして県東部に分布するのもこの巫女両家との関係からだという説もあるようです。 さて、次に正面に宮司、禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)が座り、禰宜は巫女の動きにあわせて太鼓を打ちます。中央の榊山とは金、銀の八尺鏡(やたのかがみ)や矛を象った紙飾り、五色の色紙が榊に付けられたもので、この周りを巫女が時計回りに廻りながら、神楽を舞うのです。この榊山には神が宿るものとされ、神楽とは神降ろしの約音とも言われることから、神の霊威を媒介する装置、すなわち依り代といえるでしょう。そのほか、神前には米3俵の新米が氏子中から奉納されるほか、尾頭付きの鯛や酒、塩、鏡餅、菓子類、季節の野菜・果物などが供えられます。 記紀神話として古代に編まれた『古事記』の「天(あめ)の岩屋戸(いわやと)」の段では「天宇受賣命(あめのうずのみこと)、天の香山(かぐやま)の天の日影を手次(たすき)を繋(か)けて、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戸に槽(うけ)伏せて蹈み轟こし、神懸かりして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。」と記されています。天宇受賣命が天照大御神(あまてらすのおおかみ)の再現を望んで、髪飾りをし、襷(たすき)を掛けて桶をうつぶせにして踏みならし、神懸かりの状態となって踊ったという場面が描かれているのです。徳島県で行われている太々神楽はこのような場面をモチーフにしたものとされ、太陽の再現、生命の再生、そして春の訪れを祝いまた祈念したものとも解釈できるわけです。 では、ここで太々神楽の一連の流れを見ていきましょう。八幡神社では、まず禰宜が氏子総代一同、次いで参拝者を祓い清めた後、巫女が扇を左手に、鈴を右手に持って榊山の周りを巡る、うずめの舞が始まります。禰宜の叩く太鼓の重壮な音にあわせて巫女は榊山の周りを静かに舞います。右手の鈴をゆっくりと振り鳴らし、左手の扇を静かに揺り動かします。うずめの舞は榊山を3周すると終わり、再び宮司によって祝詞(のりと)が奉納されます。その後、剣の舞が奉納されます。剣(つるぎ)の舞の時、巫女は面をつけ、剣をもって榊山の周りを1周しながら舞います。次いで、剣を置き、今度は右手に鈴、左手には大麻(おおぬさ)をもって軽やかに舞います。足はすばやく、しかし確実に地べたを踏み鎮めるように動かし、悪魔祓いをします。榊山を2周するとこの剣の舞は終わりになります。次に、宮司と氏子代表が神前で玉串(たまぐし)の奉納を行い、春祭りが終わります。 八幡神社の宮司さんによると、こうした一連の所作によって祭りの場には神威がもたらされ、その年の豊作をも約束されるというのです。そうして最後に一同は競うようにして榊山から八尺鏡や矛の飾りのついた榊の枝を1本ずつをとり、これを各家に持ち帰り神棚へとお供えします。この神威が降ろされた榊を持ち帰ることによって、その年1年間の豊作と家内安全がもたらされると解釈されています。そのためか、この榊は不思議なことに水につけておかなくとも神が宿っているがゆえに枯れることはないとさえ言われるのです。また、春祭りの際にお参りし、榊を持ち帰ったところ、たてつづけに幸運が訪れ、人生の大きな転機になったという人さえいたそうです。 かつて春祭りは稲作のはじまりにあたっての豊作祈願であり、安全祈願でありました。もちろん現在でもその意味を失ってはいませんが、現代社会を生きる我々にとっても恵みをもたらしてくれる神との出会いの場であり、日常生活に潤いを与えてくれる地域結集の一場面ともいえます。 この春祭りが終わる頃、県内は活気に満ちた新緑の季節を迎えるのです。 なお、今回は春祭り調査にあたって八幡神社の宮司さんはじめ皆さんにお世話になりました。末筆ながら御礼申し上げます。 |
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