徳島藩の蒸気船
―セントロイス号など購入の顛末―

山川 浩實

 

はじめに

 1853年(嘉永6)、アメリカ合衆国の提督(ていとく)ぺリーが初来航してから3ヶ月後、徳川幕府は大船建造禁止令を諸大名に対して解禁しました。しかし、多くの大名は累積する藩財政の赤字のため、薩摩・長州・水戸などの大藩を除き、大型船の建造と外国船の購入に対して消極的でした。徳島藩においては、窮迫する藩財政の中で、解禁から9年後、莫大な経費を費やして、アメリカから蒸汽船セントロイス号を購入し、ほどなくイギリスから2隻目の蒸汽船を購入しました。徳島藩によるこの蒸汽船購入の事実については、現在、紹介された文献がほとんど無く、そのためあまり世に知られていないのが現状です。

 当館が所蔵する文書の中で、幕末期における徳島藩の動向を知ることができる「蜂須賀家文書(はちすかけもんじょ)」があります。この中に、徳島藩がアメリカやイギリスから購入した蒸汽船について記された「蒸汽船購入一件」(2冊)が存在します。

 以下、この史料によって、徳島藩が購入した蒸汽船セントロイス号などについて紹介したいと思います。

セントロイス号の購入

 日本で最初に導入された蒸汽船は、ペリーが再来した翌年、1855年(安政2)、オランダから幕府に贈られた長崎海軍伝習所の練習艦観光丸(かんこうまる)です。のち蒸汽船は、大船建造禁止令の解禁後、幕府がオランダに建造させた軍艦咸臨丸(かんりんまる)以下、多くの蒸汽船が諸大名間で購入されたといわれています。諸大名の中で、最も早く蒸汽船を建造したのは薩摩藩で、解禁の2年後、早くも試運転を行った有名な外車船形式の雲行丸(うんこうまる)があります。

 1862年(文久2)12月24日、徳島藩はアメリカのトーマス・ウヲルス・ホール商会と、蒸汽船セントロイス号の購入契約を行いました。前記史料には、次にように購入契約がされています。

予、トーマス・ウヲルスなる者は、亜米利加(あめりか)合衆国の住民、當時の日本横濱ニ住居するものにして、セントロイスと号せる蒸汽船の持主たり。武谷新之進(たけたにしんのしん)君・廣岡多門(ひろおかたもん)君・森雄助(もりゆうすけ)君・三守孝次(みかみたかつぐ)君等によりて、予に渡されたる洋銀(ようぎん)八萬八千枚の高を以て、其船を賣らんと談し、賣渡したる事を斯(かく)の如く証したる受取書を渡し(中略)千八百六十二年今十二月二十四日、右書を證するため、爰(ここ)に自ら記し、自ら己(おのれ)か印を押す。
 トーマス・ウヲルス印
(下略)

 この契約書は、通辞(つうじ)を務めた人物が翻訳したものですが、徳島藩側の宛名は記されていません。契約を行った廣岡は、徳島藩の江戸留守居役の重臣で、他の人物は藩の江戸詰めの役人や現金を警護した藩の武士です。購入金額は88,000ドルで、うち15,000ドルの前渡金(17%)と、契約時に残金73,000ドルとを2回に分けて支払いました。この支払いには、外国から輸入した銀貨で、当時、洋銀と呼ばれた1ドル銀貨88,00枚を用いてすべて支払いました。史料には、当時の1ドルは金相場の2分余りと記されていますので、セントロイス号の購入金額は、米価から換算すれば、現在の貨幣価値にして、およそ10億円余りに相当します。ちなみにこの頃、薩摩藩が購入したイギリスの蒸汽船フーキン号(146トン)は、75,000ドルでした(鹿児島県編『鹿児島県史』第3巻 昭和16年)。徳島藩はこの蒸汽船を乾元丸(かんげんまる)と命名し、阿波から江戸へ藩の特産品の米や塩などを輸送する商船として購入しました。さっそく徳島藩は、蒸汽船の操縦訓練のため、2週間にわたって、元セントロイス号の船長ヘンリ・エ・バルレルドなどの乗組員8名を雇い入れ、訓練を始めました。乾元丸は藩の船手頭(ふなてかしら)森甚五平衛(もりじんごべえ)が統括者として船将に命じられ、蒸汽機関、船具、計算、測量、通辞、修理、鍛冶(かじ)、資材調達、記録などを担当するおよそ90人余りの藩の人間が関わりました。うち通辞を担当した天毛政吉(あもうまさきち)は、外国人と接した経験を持つ海外漂流者で、淡路国津名(つな)郡の農民から藩の通辞に抜擢された人物でした。また船中における連絡や調整役を担当した高畠五郎(たかばたけごろう)は、幕府の蕃書取調所(ばんしょとりしらべしょ)教授の経験から、当時、西洋兵学に通じた人物でした。しかし、西洋事情に通じた一部の人材を蒸汽船の操縦と運用に振り当てたものの、当時としては、蒸汽船の操縦は極めて困難で、「一統不馴之事柄ニ而(て)、往々之心配不少事ニ御坐候」と、困惑しています。その後、蒸汽船の操縦を体得した乗組員によって、乾元丸は順調に運行され、江戸・阿波間を往復する藩の特産品輸送の商船として役割を果たしました。しかし、この乾元丸は、購入からおよそ7年を経過した1869年(明治2)頃、「無用の長物(ちょうぶつ)」との理由などで、薩摩藩に2万円で売却されました。

 なお、乾元丸の外形や規模など、重要なことについては、よくわかっていません。

イギリス船の購入

 徳島藩は、乾元丸を売却する少し前、明治元年1月、再び莫大な経費を費やして、イギリスから2隻目の蒸汽船を購入しました。前記史料には、この蒸汽船の購入について、次のように記されています。

赤蒸汽船惣鐵造(そうてつづくり)
 長サ三十九間 積石四百五十トン
 製造ヨリ経歴四年
 煙筒弐個 銅壷(どうこ)二ツ
代金拾貳万五千弗(ドル)
 手付金貳万弗

 この蒸汽船は、建造から4年を経過した総鉄造りで、全長約70メートル、積載量450トンの蒸汽船です。購入金額はセントロイス号の購入金額を大きく上回る125,000ドルで、手付金は20,000ドル(16%)でした。この金額は、米価から換算すれば、現在の貨幣価値にして、およそ14億円余りに相当します。諸大名の中で、最も多く蒸汽船を所有した薩摩藩購入の蒸汽船と、徳島藩購入の蒸汽船との購入金額を比較してみると、購入金額が判明する薩摩藩の蒸汽船15隻のうち、最も購入金額が高い蒸汽船は、1862年(文久2)、薩摩藩がイギリスから130,000ドルで購入したフリーコロス号(447トン)で(前掲『鹿児島県史』第3巻)、徳島藩購入の蒸汽船は、ほぼこれに匹敵する高価な蒸汽船であったことが窺(うかが)われます。徳島藩は、この蒸汽船を戊辰(ぼしん)丸と命名し、当時、阿波国最大の産業であった阿波藍の藍玉(あいだま)の輸送や販売などを目的とした商船として、運行を始めました。戊辰丸は廃藩置県(はいはんちけん)後、蜂須賀家の所有となりましたが、1872年(明治5)、阿波の藍商井上家に売却されました。その後、戊辰丸は鵬翔(ほうしょう)丸と船名を変え、北海道物産の輸送などに従事しましたが、1881年(明治14)、青森県沖で悪天候のため、座礁し沈没しました。

おわりに

 混迷を深める明治維新期において、徳島藩が購入した2隻の蒸汽船は、薩摩藩や長州藩の蒸汽船とは異なり、大砲などの西洋兵器を装備しない商船であったことが大きな特徴だと考えられます。莫大な経費を費やして購入した徳島藩の蒸汽船が、藩の特産品の輸送や販売に果たした役割の度合いは、残念ながら、前記の史料から読みとることはできません。しかし、徳島藩が購入した2隻の蒸汽船は、本県における近代海運の礎(いしずえ)を大きく構築した蒸汽船として、位置づけられるべきだと考えられます。

  
トーマス・ウォルス・ホール商会のセントロイス号売却の契約書


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