生き物への二つの接し方

田辺  力

 

 生きものへの接し方には少なくとも二つあると思います。一つは愛着的な接し方で、「ああ、かわいい」とか「きれい」とかいった言葉が口からでてくるようなものです(図1)。もう一つは科学的な接し方で、なぜムカデの足はたくさんあるのかを、データをとって調べるといったものです。私は生きものに対してこの二つの接し方をしていますが、この二つはだいぶ違うという印象を持っています。この辺のことを過去を振り返るかたちで述べてみようと思います。

 子供の頃はよく虫採りに行ったり小動物を飼ったりしていました。水草の間を泳ぐ金魚の姿に感じる心地よさ、強い日の光にあたり水に浮かぶ油のようにあれよあれよと変わる玉虫の輝きに幻惑されるえも言われぬ感覚。このような刹那的ともいえる感覚によくひたっていました。自転車の乗り方というのは一度覚えてしまえば体がずっと覚えていて、長い間乗っていなくても難なく乗ることができます。これと同じように子供のころに生きものに感じた刹那的なものは一生忘れずに頭の中に残っている類のものかもしれません。ヤスデの標本を調べているとき、あるいはネオンのあかりを目にするとき、かつて玉虫の幻惑的な輝きに感じたものと同じものがぱっぱっと心の中に蘇っているのを感じます。今調べているババヤスデ類に本格的に接しはじめたのは大学院の修士過程のときです。125ccのバイクにテントを積んで日本各地へと採集旅行にでかけました。本州にいくと鮮やかなオレンジのババヤスデ(図2)が採れて、その美しさに驚きました。贅沢だと思いました。

 こうして書いてくると明らかなように、そしておそらく多くの人と同様に、この時点までの私の生きものへの接し方は愛着的なものでした。大学院での進化生物学の勉強が私の中に徐々に変化をもたらしました。進化生物学の文献は難しかったですが、内容は論理的でおもしろいと思いました。考えることの楽しさを素朴に感じました。そのような勉強と並行してババヤスデ類の分類を進めていたのですが、その過程であるグループにおいて交尾器に高頻度で傷がついていることなどに気づき、そうしたことが科学として重要なことが次第にわかってきました。意識を集中してこの世のからくりをといていく科学的な作業には、独特の静かな興奮といったものがあることに気づきました。それは例えば潜水艇で深い海に潜っていき、ついに海底が見えたときの感覚に似ているのではないかと思います。こうして愛着的だけであった生きものとの接し方に、もう一つ科学という別の接し方が入ってきたのです。

 生きものへの愛着と科学研究の喜びとは別のものだと実感したのはこのときです。ババヤスデはかわいいですが、かわいいだけでは科学は成り立ちません。科学の目で接しなければ科学としての成果をあげることはできません。愛着の接し方は自然と最初から備わっていましたが、科学の接し方は努力して意識的に取り入れなくてはなりませんでした。かくして愛着的な接し方と科学的な接し方の二つが私の中で共存することになり、その境界で私はしばしばさまよいました。言葉で表現すれば、それは苦しみと言ってもいいようなものでした。二つの接し方は連続していなくて水と油のように混じり合いませんでした。

 ここで私が思い浮かべるのは片子の昔話です。節分の豆まきの元になった話しです。片子の話しを要約すると次のようになります(河合、1989)。あるところに若夫婦がいました。ある日、妻が鬼に連れ去られ、夫は妻を探しにでかけます。10年後、夫が「鬼ヶ島」に渡ると、そこには半人半鬼の子供が一人いました。妻と鬼の間にできた子でした。これが片子です。夫は片子の助けもあってなんとか妻を鬼から取り戻して片子と三人で一緒に家にもどることができました。普通ならここでめでたしめでたしなのですが、この話はそうはなっていません。半人半鬼の片子は人間の世界になじめず居づらくなって欅(けやき)の木のてっぺんから身を投げて自殺してしまうのです。片子は人間と鬼との境界で苦しんだのです。

 私の方は論文をいくつか書いて達成感を得たり、学会発表で手応えを感じたり、科学的な発見の喜びを知るに連れ、次第に境界での苦しみから逃れていきました。いわば「研究の快」とでも表現できるものに私は救われているのです。そしてこの救済の根底にあるものは、ものの見方を転換させるような一般性のある発見をよしとする科学の価値観に基づいて仕事をすることで社会に貢献できると信じていることです。今の私の中では、愛着的な接し方と科学的な接し方の双方で得られる快のバランスがとれているのでしょう。ババヤスデは相変わらずかわいいですが、それはまた研究の快をもたらしてくれる得難い対象でもあります。

 愛着の接し方と科学の接し方を違ったものと私が感じることの背景には、西洋と東洋との自然への接し方の違いが反映されているのかもしれません。西洋では人と自然が別のものとして切り離され、人が自然に対して現象分析的に接す傾向があると言われます。西洋で発展した自然科学の接し方はまさにこれでしょう。これに対し東洋の自然観は現象受容的と言われ、自然も人も切り離されず一体化された感覚です。和服に描かれた花や河の流れの模様はまさに人と自然との一体化を感じさせます。「一寸の虫にも五分の魂」ということわざも同様です。これらは愛着の接し方に通じると思います。

 こう考えてくると東洋人には科学は向いていないのかという心配がでてきます。ここで私が期待をかけているのは日本人の愛好的なものへの情熱です。アニメ、ゲーム、カメラ、電子楽器など愛好的な要素を持つ分野では日本は飛び抜けた成果をあげています。対象に愛着を感じて本気を出しはじめるとすごいことになります。日本で活躍する韓国の女優さんが、こういったことは日本人の特徴だとテレビで語っていました。日本人の愛好度の高さは東洋でも特異なものかもしれません。愛好的な傾向を持った人がもっと科学に馴染んでくれたら日本の科学はぐっと発展するのではないかと、ときどき思うのです。

参考文献
 河合隼雄,1989.『生と死の接点』,岩波書店.

  
図1 ミドリババヤスデの頭部。どことなくスマイルマークに似た顔つきで愛嬌がある。ヤスデの顔はどの種類もだいたい似たような印象を受ける。
図2 シモツケババヤスデ。体長約4 cm。栃木県足尾町で採集。


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