「新町橋渡初図」の下画

大橋 俊雄

 

1 守住貫魚と「新町橋渡初図」

 守住貫魚(もりずみつらな)(1809〜1892)は、徳島出身の住吉派の画家です。江戸の終わりまで徳島藩の御用絵師をつとめ、明治の初めに神官になりましたが、やがて大阪に出て制作に専念し、晩年には帝室技芸員に選ばれています。

 彼の作品の1つに「新町橋渡初図(しんまちばしわたりぞめず)」(個人蔵・図1)があります。新町橋は、徳島城下の新町川に架かっている橋で、かつては交通の要衝として知られていました。元治元年(1864)11月に、藩による修復が終わって渡初めが行われました。この図はその時の様子を描いたもので、橋を中心に城下の賑わいや、徳島城がある城山を克明にとらえています。絹の画面に上品な彩色がほどこされており、貫魚の代表作として県の文化財に指定されています。

2 「新町橋渡初図」の下画

 「新町橋渡初図」は、何段階かの下描きをへて完成したと思われます。最近その1枚が発見されましたので紹介します。

 問題の下絵(当館蔵・図2)は、守住家に伝わっていた大量の粉本(ふんぽん)・画稿類の中にありました。完成した本画のほぼ原寸大で、描かれている内容から、構想がほぼ固まって細部が整えられる以前の下画と推測されます。画中に、貫魚の自筆による留書(図3)があり、紙背に、明治以後の題箋(図4)が貼られています。

 留書には、「元治紀元…」と主題の説明があり、その横に、「慶応二寅五月日」と書かれています。この年紀が下画自体の完成を示すのか、本画のそれなのか定かではありません。しかし慶応2年(1866)5月に、「新町橋渡初図」が完成したか、制作途中であったのは確かです。今まではっきりしなかった、本画の製作期が明かになりました。

 なお、題箋の下半分には「明治十三年鉄橋成」とあります。新町橋が、明治13年(1880)に鉄橋に架け替えられたことは、博物館ニュースNo.41(2000年12月発行)に「新町橋が生まれ変わった」と題して解説されています。御参照ください。

3 完成画を考える

  新たに発見された下画と、完成した「渡初図」を比較してみたいのですが、まだその機会がありません。ここでは、完成作について感じられることを少し述べたいと思います。

 「渡初図」では、画面中央を川が横切り、手前から奥へと橋が架かり、対岸には甍(いらか)が連なり、遠くには徳島城のある城山が、霞をへだてて浮かんでいます。空には5羽の真鶴(まなづる)が舞い、朝日がさし昇っています。

 この作品から連想されるのは、近世にしばしば描かれた蓬莱山図(ほうらいさんず)です。蓬莱山は、東海の小島にあり、仙人が住むという伝説上の山です。松竹梅が生え、鶴亀が棲み、朝日がさすといわれています。新町川をへだてた城下が、あたかも海中の島を思わせ、霞に浮かぶ城山が、蓬莱山そのものに重なり、鶴と朝日がそえられています。新町橋が、理想郷に向かう入り口にたとえられているのは、言うまでもありません。

 発見された下画では、城山が小さく、真鶴が城山よりも高く飛び、朝日ももう一まわり大きかったのを、切り貼りや白塗りで修正しています。もとのままでは、城山よりも、真鶴と朝日の方が目立ってしまうので改めたようです。なお、鶴は実際に徳島に飛来したそうですので、巧みにその姿を借りて、画面を盛り上げたのでしょう。

 完成作では、橋の手前詰めに、蜂須賀家の家紋である左卍紋(ひだりまんじもん)を染めぬいた幔幕(まんまく)が張られています。藩が渡初めを行ったことを示していますが、下画では、人物を前に配して家紋を隠しています。

 また「渡初図」は、渡初めが主題であるのに橋上に人影がなく、式の直前の期待にあふれた様子がとらえられています。渡初めの当事者が、藩主かそれに近い人であるため、描くのをひかえたのではないかとも推測されます。

  
図1 守住貫魚筆「新町橋渡初図」  松浦菊男氏蔵 縦84.0cm×横115.0cm
図2 「新町橋渡初図」下画  徳島県立博物館蔵 紙本彩色 縦79.5cm×横112.1cm
図3 下画留描
図4 題箋


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