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両角 芳郎 |
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園瀬川(そのせがわ)は身近な川ですが、とても”不自然な”川です。上八万盆地(こういう名称があるか知りませんが本稿ではそう呼ぶことにします)では、平地の地形的に一番低いところではなく、堤防に囲まれて眉山(びざん)寄りの小高いところを流れています。そして、寺山の北側の狭い鞍部(あんぶ)をぬけ、平地を横切って向寺山の山沿いに至ります。 八万村史および名東郡史にみられる記述 残念ながら「上八万村史」はどこの博物館や図書館にも所蔵されておらず、調べることができませんでしたが、「八万村史」と「名東郡史」に園瀬川の旧流路に関する記述がありました。要点を以下に列記してみます。どちらも八万村内の園瀬川の付け替えについては述べていますが、上八万村内の改修には言及していません。 ●「八万村史」(昭和10年発行) ・昔の園瀬川は、上八万村から八万村に入り、東流して市原あたりで川筋は3つに分かれていた。 ・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が命じて法華川(ほっけがわ)(法花川)を穿(うが)ち、横 ●「名東郡史」(昭和35年発行) ・山間を流れてきた園瀬川は、西光寺(さいこうじ)付近の平地に出たあと大きく湾曲して眉山山 ・そこから川は東へ2、3に分流したが、本流は中筋を通るものだった。この本流は大木の南東で ・寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺(こんごうこうじ)があった。寺が栄え ・古老の話によると、中筋(なかすじ)近辺には最近まで所々に池沼があり、昔の河底らしい痕跡 ・その後、寺山北側の鞍部に通ずる支流が発達して、これが本流となった。 ・蜂須賀家政が徳島城の造営に当たり、防備上の見地から法花川を穿ち、三條川の下流である冷田 絵図に描かれた園瀬川の流路 現在の園瀬川が江戸時代初期の付け替え工事によって生まれた川であるとすると、昔の絵図にそれ以前の園瀬川の流路に関する手がかりがないかと思い、博物館や文書館、図書館でいくつかの絵図を見せてもらいました。しかし、現在残っている江戸時代の絵図のほとんどは、時期的には付け替えが行われた後に描かれたものですが、山地や川筋は見取図的にラフに描かれていて、上八万盆地内での園瀬川の古流路の手がかりは見当たりませんでした。ただし、測量にもとづく精巧(せいこう)な絵図として有名な「文久3年徳島及び周辺絵図」(徳島大学附属図書館蔵)では、現在とあまり変わらない園瀬川が描かれていますが、上八万および八万地域を通して人工的に築かれた堤防の記号が描かれているのが注目されます。 上八万盆地の地形と園瀬川の古流路 「名東郡史」の園瀬川に関する記述はかなり信憑性(しんぴょうせい)があります。上八万盆地の地形等と照らし合わせながら少し検証してみたいと思います。 ●湾曲した眉山の山裾と細長い低地 佐那河内村から上八万町へ山間の渓流(けいりゅう)として流れてきた園瀬川は、西山の北東、西光寺橋のあたりで上八万盆地の平地へ出ます。そこには広い川原が形成されています。ここで注目されるのは、湾曲した眉山の山裾(やますそ)とその南に広がる細長い低地です(図1)。ふつう、山地の河川が山体の側面にぶつかって方向を変えるとき、山体を掘削して大きく湾曲した地形をつくり出します。河川は山裾寄りを流れ、内側には広い川原が形成されます。流路がショートカットされると、旧河道は三日月状の池や低地となって残ります。「名東郡史」にもあるように、園瀬川はここで大きく湾曲し、眉山寄りを流れていたと考えられます。細長い低地はかつての流路に当たり、園瀬川の付け替えで堤防が築かれた後に田圃に造成されたものと考えられます。 ●寺山北側の鞍部に川を導く高い堤防 現在の園瀬川は、高い堤防で仕切られて盆地の北の端を通り、寺山北側の鞍部に向かいます(図2)。この辺りの園瀬川は水がよどみ、まるで”運河”といった様相を呈しているところもあります。 ●盆地内にある多数の揚水ポンプ 上八万盆地には、至るところに上水道用あるいは田圃への潅漑用(かんがいよう)の揚水(ようすい)ポンプが設置されています(図3)。平地の地下にはかつての川筋に沿って堆積した礫層(れきそう)が複雑に積み重なって分布しており、そこを通る豊富な地下水脈があると考えられます。上中筋に住む友人の話では、自家用の打ち込みパイプ式の井戸をつくった際、地表から2mほどで砂利層(じゃりそう)に当たり、園瀬川の水位が高いときはパイプから地下水が自噴したとのことです。上八万盆地の地形と推定される園瀬川の古流路。揚水ポンプ場の位置は徳島市発行「2,500分の1徳島市全図」による。実際には小規模のものを含めるともっとたくさんの揚水ポンプ場がある。 以上に述べたことを総合しながら、江戸時代初期の付け替え工事以前の園瀬川の古流路を大胆な推定を交えて描いてみました(図4)。 |