「保存する」ということ

魚島純一

 

はじめに

 博物館の仕事のひとつに、資料の保存というのがあります。博物館の根幹をなす仕事と言っても過言ではありません。博物館でさまざまな資料の保存に携わってきて、人よりも多く「保存する」ということについて考える機会がありますが、最近、改めて「保存する」ことの難しさをつくづくと感じています。
 ここでは、いくつかの例をあげながら、「保存する」ということについて考えてみたいと思います。

文化財を「保存する」ということ

広辞苑によると、
【保存】もとの状態を保って失わないこと。
     原状のままに維持すること。
とあります。また、例として「遺跡の保存」などが挙げられています。
 誰でも知っているこのことばですが、改めて考えてみることにしましょう。
 もとの状態を保つとのことですが、もとの状態とはどの時点のことでしょう?博物館に持ち込まれる資料の多くは、すでに本来の役割を終えて、別の価値を見出されて持ち込まれるモノがほとんどです。博物館に持ち込まれた時点をもとの状態とするか、それらが本来の機能を有していたころをもとの状態とするのかで、大きな違いがあります。
 文化財の修理や保存に携わる者が、まずはじめに教えられる大原則のひとつに、「現状保存」というのがあります。これは、今ある状態を変えずに残すことを大原則とするという理念です。「原状」とは同じ発音ですが意味が違います。
 例えば、サビに覆われているモノは原則としてサビに覆われた状態を保存し、汚れてしまったモノは原則として汚れた状態で保存するという考えです。これは、その状態になるに至った過程にも歴史があり、それらの情報を修理に携わる者の判断だけで安易に消し去ってはいけないという戒めを含んでのことだと理解しています。文化財を保存するという場合には、単にモノとしての文化財を保存するだけではなく、そのモノが持っている情報をも今ある状態のまま保存しなければならないのです。ですから、ただ置いておくだけではなく,その情報を引き出せるようにすることも大事なことになります。
 これは決して誰にでもできることではなく、そのために博物館などの公的機関がその役目を担ってきたわけです。
 文化的なことというのは、往々にして即時的な生産性がなく、一見すると無駄なことのようにも思えたりしますが、それを継続できるかどうかがその文化を所有する集団のほんとうの価値ではないのかと思います。欧米ではこのような考え方がほんとうに広く浸透しているようですが、さて、わが国ではいかがでしょうか?
 数年前、外務省の招聘で研修にやってきた途上国の博物館担当者が言っていたことばが、今でも私の耳の奥にこびりついています。「歴史や文化をおろそかにする国は必ず滅びます。」
 昨今、財政的な理由などから博物館不要論まで飛び出したりしていますが、発展途上なのは、ひょっとすると私たちの方なのかも知れません。

「保存」その理想と現実

 保存の理想は、今ある状態を変えずにそのまま残すことであるのは言うまでもないことです。しかし、これはあくまでも理想であって、現実にはそうはいきません。
 形あるものはいずれは崩れるの例えどおり、この世の中に劣化しないものなどないのです。つまり、「保存する」ということは、その劣化のスピードをできるだけ遅くすることに他ならないのです。
 中には、材質上や形態上、保存できないモノや、保存することが極めて困難なモノや保存することを一切考えていないモノもあります。
 最近、新聞紙上などで壁画古墳の保存についての報道が多く見られます。さまざまな立場の人がさまざまな見解を持っていることと思います。それらについてここで議論することは控えますが、ひとつ思うことがあります。あの例は、発見されたこと、すなわち現代まで残ったこと自体が奇跡ともいえることなのに、それを保存することなどそれほど容易ではないということです。
 たしかに、多くの努力と最新の技術、莫大な費用を使って保存が試みらたにも関わらず、結果はうまくいかなかったと言えるでしょう。しかし、あの保存方法が完全に間違いだったとは考えられないのです。なぜなら、その時点で考えられる最高の技術を使って、最善の処置がとられたに違いないと信じるからです。

保存しなくていいモノ?

 博物館が資料として保存するモノは何もいわゆる文化財と呼ばれるようなモノばかりとは限りません。近年は文化財の範疇も広げて理解される傾向がありますが、それでも文化財と考えにくいようなモノも多くあります。
 時々、なぜそのようなモノまで保存するのかという声をお聞きすることもありますが、答えは簡単です。「今保存しておかなければ、なくなってしまうから」です。
 当然のことですが、今私たちが目にすることができるモノは、今残っているモノだけです。博物館に保存されるモノはその中でも特別な価値が見出されたり、偶然にも見つけられたりして、何らかの理由で持ち込まれたモノだけです。これらの陰には、不幸にも残ることができなかった多くのモノたちがあることを忘れてはいけません。そして、私たちが過去を考え、知ることができるのも、残ったモノからだけであることも承知しておかなければなりません。一度失ったモノは取り戻すことはできません。
 最近、自分が生まれ育ったころに見かけたモノが無性になつかしくなり、思い出しながらコレクションをはじめました。いざ探しはじめてみると、つい最近までごく普通にあったと思うモノでも、なかなか見つけられないことがあることに気付きます。たった30〜40年ほど前のモノでも、すでに残っていない場合もあります。私たちにとっては単になつかしむことができなくなるだけですが、ほんとうにこのままでいいのかと思います。
 今の私たちの日常生活の中で見られる多くのモノは、やがて姿を消し、いつかは歴史の中のモノになるわけですが、現在のような大量生産、大量消費の社会の仕組みの中では、ほとんど何も残らないのではないかと心配します。例えば100年、200年後の人びとが私たちがくらした時代について調べようとした時、いったい何を手がかりに調べるのでしょう。
 モノは役割がなくなると存在しなくなります。つまり、要らなくなったモノや使わなくなったモノは捨てられるということです。しかし、どんなに古いモノでも、どんなに汚いモノであっても、新たな役割を与えられたモノは、またそこから新たな存在意義を持ちはじめます。保存しなくていいなんて私たちが決めてしまってもいいのでしょうか?私たちには、モノに新たな役割を与えることもできるのです。
 博物館に保存されているモノを見るにつけ感じることがあります。それはいつかの時点で、誰かが、残そうとしたモノが残ってきたのであって、残そうとしなかったモノは残らないということです。つまり、残さなくていいモノなんて何もないのです。文化財の保存に携わる者が教わる大原則にこんなこともあります。「モノに優劣はない。」

 できるだけ多くのモノとそれらが持つ情報を、少しでもよい状態で「保存」し、次の世代、またその次の世代に伝えていくために、できる限りの努力をしなければならないと、改めて感じています。           (保存科学担当)

  

どこの家庭にでもあったモノもいざ探すとすでになくなってしまっているモノも・・・。
(後列左から:踏み台(くず入れ)・黒電話・置き薬の箱,前列左から:殺虫剤のスプレー・置き薬の紙袋)


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