城の記憶須木(すき)一胤(かずたね)と「旧徳島城図」─

大橋 俊雄

 

 徳島城は,阿波の大名蜂須賀(はちすか)家の居城です。明治時代に建物などが取り壊され,いまは石垣と堀が残っています。公園として整備され,国の史跡にも指定されています。
 「旧徳島城図」1幅(図1)は,御殿(ごてん)(やぐら)が建ち並ぶ往時のさまを描いた復元図です。内容が比較的正確といわれ,城の様子を視覚的にとらえた好資料とされています。
 この図には,1967(昭和42)年に,蜂須賀家が箱書をしています。1923(大正12)年に,旧藩士が同家の襲爵(しゅうしゃく)を祝って献納(けんのう)した品で,須木一胤の作と記されています。製作のいきさつを,近年知られるようになった資料から追ってみます。
 作者の須木一胤(1873〜1936)は,現在の徳島県徳島市出身の日本画家です。地元で盛んだった住吉派(すみよしは)の画法を,佐香(さこう)美古(よしふる)から学びました。また,徳島師範(しはん)学校の教諭をつとめ,古書画の展示会や研究会をひらいたり,阿波の画壇(がだん)変遷(へんせん)を調べたりしました。
 近年,一胤の遺品が,子孫の須木成芳(しげよし)氏から当館に寄贈されました。そのなかに「旧徳島城図」を撮影(さつえい)した白黒写真が3点あります(図2・3・4)。写されている3点の図は,構図が似ているもののすべて別の品です。
 図1の「旧徳島城図」は,3点のどれにも当てはまりません。しかし寄贈者は,これも一胤の遺品だった事実を,はっきりと憶えておられました。徳島城の復元図は,少なくとも4点あったことになります。
 図4には,一胤自筆の解説文が写っています。彼は,献納図の下絵からこの図を描き,1932(昭和7)年の阿波国郷土研究会に出品したと記しています。あわせて,献納のいきさつにも触れています。
 概略は以下のとおりです。1918(大正7)年に,蜂須賀正韶(まさあき)が父の跡を継いだとき,旧藩士たちが祝意を表わすため,徳島城の旧状を髣髴(ほうふつ)とさせる鳥瞰図(ちょうかんず)を作って献納しようとしました。里見(さとみ)恵堂と朝川(あさかわ)近修(きんしゅう)が世話をし,一胤に画の依頼がきました。しかし製作は遅々として進まず,献納の手続きのみが先行しました。
 復元は,まず当時の城跡を実写し,残されていた平面図から建造物の位置をさだめ,さらに部分的な写真や見取図から総合して,細部を描きました。その間にも,疑問が続出して作業ははかどりませんでした。しかし,里見・朝川両氏の熱心な調査や,古老の親切な助言によってようやく完成しました。
 一胤は次のように訴えています。「このような復元はすぐにはできず,資料の新発見などをまって,少しずつ完全に近づけるしかありません。どうか今後も,皆さんの援助と補正をおしまずにお願いいたします。これは私一人のためにではありません。」 
 ところで,献納された「旧徳島城図」はどのような図だったのでしょうか。
 図2は,写真でみるかぎり,もっとも謹直(きんちょく)に描かれた濃彩画(のうさいが)で,作者のサインと印章があります。また,蜂須賀家の家紋である左(まんじ)紋をあしらった,見事な表装がほどこされています。この図こそ,献納された「旧徳島城図」ではないでしょうか。
 図3は,図2にくらべると彩色が淡く,描写の密度も薄らいでいるようです。また,建物の名称を書きこむなど,城をよく知らない人のためにも配慮されています。献納図にあわせて作られた別本かと思われますが,どのような事情で描かれたのか定かでありません。
 図1は,これまで完成画と考えられていました。しかし先述した通り,一胤が持っていた下絵とみなされます。画面にのこる修理の(あと)から,ながらく折りたたんで保管されていたことが推測されるからです。子孫の手を離れたあと,いまの表装と箱ができ,箱書が依頼されたようです。 (美術工芸担当)

図1 旧徳島城図 須木一胤筆 (当館蔵)

図2-1 旧徳島城図写真(当館蔵)

図2-2 同上 部分

図3 旧徳島城図写真(当館蔵)

図4 旧徳島城図・解説文写真(当館蔵)


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