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(徳島県立博物館ニュース46、2002年より。誤字等を修正した) |
なぞの地名 薩麻(さつま)
奈良市平城宮跡から出土した8世紀の木簡に「阿波国那賀郡薩麻駅」という駅名がある。当時の「那賀郡」は現在の徳島県南域に広がっており、後に海部郡が分かれている。したがって、「薩麻」の所在地については、かなり広い範囲で考える必要がある。しかも、他の史料にもそれに類する地名は見られないため、いくつかの説が提起されているものの、確証は得られていない。最新の地名辞典である『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』(平凡社、2000年)でも、那賀郡の地名として「薩麻駅」が立項されているが、「比定地は不詳」とある。
水主神社外陣大般若経
1999年のこと、香川県引田町歴史民俗資料館学芸員の萩野憲司さんから、香川県大内町の水主(みずし)神社が所蔵する大般若経奥書に「海部郡薩摩郷」という記載があるとうかがった。
これは貴重な情報だった。なぜなら、先に述べた「薩麻駅」比定のための手がかりとなることが予想されたからである。だが、それ以上に興味深く思ったのは、この大般若経の存在が徳島県内では全く知られていなかったことである。事実、1927年に刊行された『海部郡誌』以下、近年までに刊行された県南の町村史(誌)にも引用されていない。
水主神社には2種類の大般若経が伝来する。ひとつは内陣(ないじん)に安置されていたといわれるもので、国指定重要文化財となっている。すでに公刊されているが、経函の墨書には「箱ノマハリノ木ハ皆阿州吉井ノ木工ミ成法之助成也」とあり(『大内町史』上巻、大内町、1985年)、現在の阿南市吉井町・熊谷町方面との交流がうかがえる。他のひとつがここで話題としているもので、外陣(げじん)に安置されていたといわれる。未だ奥書の全体は紹介されていない(現在編纂が進められている『大内町史補遺編』で詳細な紹介がなされると聞いている)。
その後、2000年の春まだ早い頃、この大般若経に接する機会をいただいたので、薩麻駅の比定地を検討している天羽利夫館長、中世史研究者の福家清司さんとともに、水主神社を訪ねた。1〜11巻の奥書には「阿波州海部郡薩摩郷」などの文言が記されており、全体のうち80巻までが、1398〜99年(応永5〜6)に阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されたものである。それを目の当たりにしたときには、いささか興奮したものだった。
なお、この史料は中世の海部郡に「薩摩郷」という地名があり、そこに八幡宮が祀られていたことを物語るが、明確な位置を特定できるものではない。
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大般若経と郷土史家浪花勇次郎
先に記したように、外陣大般若経奥書は徳島県では未知のものであった。少なくとも、公刊された関係文献を見る限りでは、そうとしか思われないものだった。ところが、この史料の情報はすでに、戦前期に徳島にもたらされていたのである。
当館には、戦前から戦後にかけて活動した郷土史家浪花勇次郎(なにわ ゆうじろう)の遺品の一部が、ご遺族からの寄贈を受けて収蔵されている。蔵書や収集品、新聞スクラップ、書簡等その内容はさまざまである。
浪花は鉄道現業職員として働くかたわら郷土史研究に取り組んだ人物で、1930年(昭和5)、阿波郷土研究会の創立時に参集した一人でもあった(阿波郷土研究会は、1936年に阿波郷土教育研究会と合併して阿波郷土会に改称。戦時期の中断をはさみ、現在も存続している)。主として金石資料の調査研究に力を注いでおり、『阿波国金石文目録』(私家版、1951年)、『阿波国金石年表』(徳島県教育会、1962年)、『阿波国古瓦拓本集』(阿波国古瓦拓本集刊行会、1973年)などの著作がある 。
浪花の遺品には断片的なものが多く、当館でも十分な活用がなされてはいない。最近1930年代に阿波郷土研究会などが博物館の建設を構想していたことを知り、浪花の遺品に関連するものがないか調べていたところ、偶然にも水主神社外陣大般若経のこととが記された書簡2通を見つけた。これらは香川県牟礼村洲崎寺(牟礼村は現在の牟礼町)の御城俊禅からのもので、御城から浪花に宛てた書簡10通、ハガキ3通をスクラップした帳簿に収められている。消印から見ると、1940〜41年(昭和15〜16)の間のものである。
彼らの交流は1940年7月、御城が浪花に対し、拓本を所望する書簡を送ったのが最初である。これによれば、御城自身、寺院の瓦を研究しており、拓本を収集していた。そのためか、浪花が御城を訪ねたり、相互に問い合わせし合ったりする研究仲間となっていった。彼らの話題はやはり瓦に関するものが主だが、経塚遺物、石造物などにも及んでいる。1941年6月6日の書簡(消印6月7日)には「お蔭に依って貴国の古瓦拓本全部蒐集出来たといって差支なきまでに沢山なりました」とあり、短期間のうちに交流が進んだようである。
さて、肝腎の大般若経のことを記す書簡は、1941年6月22日の消印を伴う封筒とともに綴じられたもの1通と、同年10月8日の消印がある書簡に付属するものかと思われるもの1通とがある。前者によれば、これに先立って御城が「海部薩摩郷八幡宮」について浪花に問い合わせたらしく、その補足情報としてしたためられている。関心事はいうまでもなく、薩摩郷の比定地である。「地理を調べてみると海部川下流川西・川東両村跨っての地事らし」いと所見を記している。また後者は続報であり、第3・81・83・88・92巻の奥書を紹介して大般若経の来歴や現況を記し、「貴地海部川沿岸の多羅、冨田等いふ地名を書きある関係上薩摩郷は仝川沿岸の一地方名なりし」と見解を述べている。
これらの書簡に対する浪花の返事がどのようなものであったかは知る由もないし、自ら大般若経を調査したかどうかも分からない。ただいえるのは、戦時体制まっただ中の時代に、水主神社外陣大般若経奥書についての詳細な情報が徳島の郷土史家のもとに届いていたという事実である。彼の関心が主として金石資料にあったためか、残念ながら、この件が公表された形跡はない。
それにしても、郷土史家のネットワークの広がりと彼らの知の蓄積を探索・吟味し、それを的確に位置づける必要性を痛感した一件だった。
御城俊禅の書簡
史学史の探求へ
これまで戦前以来の郷土史家の業績が顧みられることは少なかったが、実証や史料研究の成果には見るべきものが多いことなどから、再評価・検証の気運が高まっている。最近では、島田泉山、飯田義資、一宮松次の仕事を検討する動きが見られるほか、近世の国学者をも射程に入れる必要性が提起されている。
戦後60年近くを経た今日、彼らの蓄積を探ることは容易ではない。だが、史学史の探求は、徳島の地に刻まれた歴史をとらえていく上で不可欠の作業となるだろう。及ばずながら、私もそうしたことを課題のひとつに位置づけていきたいと思う。
なお、水主神社外陣大般若経の閲覧については、水主神社宮司大内正文氏、大内町文化財保護審議会長島田治氏、仏教大学教授今堀太逸氏、引田町歴史民俗資料館学芸員萩野憲司氏に多大なご配慮をいただいた。記して厚くお礼申し上げます。