まぼろしの博物館

−戦前期徳島における博物館計画についてのメモ−

 

 戦前期において、徳島県で博物館らしいものとして知られているのは商品陳列所(物産陳列場)くらいであり、本格的な博物館はついぞ現れなかったといわれる。そうした認識は必ずしも妥当ではないらしいが、ここでは問題とはしない。

 ところで、戦前の徳島において、いくつかの博物館計画が現れては消えたという事実はある。実態は曖昧模糊としているが、そうした事例の一端を紹介してみたい。

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『博物館研究』の記事

 『博物館研究』とは、博物館の「業界団体」である日本博物館協会の機関誌であり、戦前以来の歴史もつ。そのバックナンバー復刻版をめくっていたところ、第7巻1号(1934年)に次のような記事が出ていることに気づいた(漢字・仮名遣いは現用のスタイルにした)。

 徳島に考古博物館 徳島県郷土研究会では、城山公園貝塚の発掘品、県全体にわたる石器時代の遺物およびこれらの写真その他絵画、彫刻など、太古の時代を知るに足る貴重な資料の散逸を防ぐべく、今回これらの貴重品を収容する考古博物館を建設せんとする計画中である。工費は約一万円、この外五千円を基金とし、県内外の同好者の寄附を俟ち、徳島公園か眉山公園のいづれかに設置、混凝土二階建六十坪のものを建設し、階下を展覧室に、階上は小集合所に充てんとするものである。

 城山貝塚は、徳島出身の人類学者 鳥居龍蔵が発掘したことで著名な遺跡で、現在も史跡として徳島城跡の徳島公園内にある。ここから出土した資料などを中心にした博物館の計画だった。建築構想、資金計画等はかなり具体的であるが、実現しなかったようだ。「絵に描いた餅」に終わったのである。

阿波郷土研究会と博物館計画

 記事に出ている「徳島郷土研究会」とは、阿波郷土研究会のことである。1930年、徳島県立光慶図書館長 坂本章三の発案により結成された。ちょうどこの年、文部省が全国の師範学校に郷土研究設備施設費を交付するなど、郷土教育が高揚してきた時期にあたっているので、そうしたこととも関連しているのかもしれない。ちなみに、この研究会は、1936年に阿波郷土教育研究会(1934年発足)と合併し、阿波郷土会と改称した。現在も、徳島県立図書館長を会長として存続している。

 郷土研究会がどのような理由によって博物館建設を企てたのか、また、計画に関与した人物は誰で、どの程度の進捗を見たのかは分からない。現在の県立図書館に関連する資料はないかと思い、同館司書である新孝一氏にお願いして調べさせていただいたが、手がかりは見つからなかった。

 ただ、飯田義資がまとめた記録「例会開催一覧」(飯田編『阿波郷土会創立三十年記念誌』阿波郷土会、1961年)を見る限りでは、1933〜34年にかけて博物館建設計画について議論していたことは確かなようだ。

 ・第13回例会(1933.10.29) 研究発表に「阿波郷土資料館建設に就て」

 ・協議会(1933.11.2) 「郷土資料館建設の件」

 ・第15回例会(1934.4.29)研究発表に「郷土博物館設置について」

 これら「郷土資料館」「郷土博物館」が、先の考古博物館に該当するものと思われ、この件だけを議題とした協議会が開かれているほどだから、相当熱が入っていたのだろう。だが、これ以後の例会で取り沙汰された様子もないので、あっけなく頓挫したのかもしれない。

 なお、同じ記録によれば、第31回例会(1938.4.24)では「喜田博士の郷土博物館の件」が協議されている。徳島出身の歴史学者 喜田貞吉の業績を顕彰しようとするものだったのか、それとも喜田から博物館建設促進を求められたのか分からないが、郷土研究会(郷土会)に関わる博物館建設の動きはこれをもって最後としている。

 1938年といえば、1940年における「皇紀2600年」記念事業についての機運の高まった時期でもある。ちょうどこの年、徳島県教育会長が県知事に「皇紀二千六百年記念事業として県に於て郷土館を建設せられたし」と建議している(徳島県教育委員会編『徳島県教育八十年史』同委員会、1955年)。国立歴史博物館たる国史館建設の機運とリンクするものであろうが、これもまた実現はしていない。「喜田博士の郷土博物館の件」は、この動きと連動するものであろうか。

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 戦前期にこのような博物館建設に向けての動きがあったことは、その論議を知るはずの飯田の「阿波郷土会三十年の回顧」(飯田編、前掲書)でも触れられていない。また、1950年代に本格的な博物館の建設を求めて行われた徳島県博物館建設運動の中でも言及されておらず、その前史と認識されるものでもなかった(徳島県博物館編『徳島県博物館三十年史』同館、1990年)。その意味では、郷土研究会(郷土会)の博物館構想は忘却の彼方にあるといってよい。だが、博物館発達史という観点からいえば、興味深い事実であり、戦前期徳島の郷土史研究史−郷土教育史の文脈の中で、位置づけを探る必要があるように思う。

 当面は、折に触れて関連資料の所在を探るしかないようだが、何かご存じの方は、ぜひご一報いただきたいと思う。

(2000.2.27記)


後日談

この文章はちょっとした覚書として、また、何らかの情報提供を期待して作成・掲載したものだった。結局、新たな情報は得られず、また、思いの外史料が残っておらず、作業は中断したままである。たまたま博物館史研究会機関誌『博物館史研究』への寄稿をお誘いいただいたので、これを補訂したものを執筆したが、大筋としては大差ないので、この文章はそのまま残しておくことにする。興味のある方は『博物館史研究』11号(2001年)をご覧ください。

 

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