はじめに―博物館の憂欝
1980年代から90年代にかけて展開した全国的な博物館建設ラッシュは、あたかも博物館界のバブル現象のようだった。今や博物館の建設中止・凍結は珍しくなく、経営難の私立美術館が閉鎖されるという事態さえ生じている。長期化した不況の下で、官公民を問わず、文化・学術関係の予算や事業の圧縮が進んでいるが、博物館も例外視されることはない。
一方で、高齢化の進行と並行して「生涯学習社会」の到来が喧伝され、その中で博物館の存在がクローズアップされてきた。確かに、市民の知的欲求が博物館へと向かう面はあるし、教育政策的に博物館の活用がテコ入れされていることも否めない。問題は、実態として博物館が市民の意識や生活の中に根を下ろしているかどうかであろうが、その点はいかがなものだろうか。ミュージアムボランティアの導入、学校教育との連携強化などが急速に進展したきたものの、こうした動向は博物館の主体性や自己の再検証とは無関係に押し進められてきた場合が多かったのではないか。
今述べたことは、博物館をめぐる状況の一端に過ぎないが、博物館はこれからどこへ行こうとしているのかという思いにとらわれざるを得ない。博物館の果たすべき役割、あるいは、博物館に期待される役割とは何なのか。従来、まとまった資料群を有することや資料群を形成していくことで博物館の存在は肯定された。したがって、資料を「見せる」ことが博物館の対社会的機能であり、利用者とはその逆(「見る」)の存在として理解されてきた。だが、現状では旧来のパターンを踏襲するだけでは、博物館の存立はむずかしくなっている。念のために付け加えておくが、資料=「もの」が不要だというのではない。その活用を含め、市民参加のあり方など「応用」的な側面、すなわち社会との接点の新たな持ち方が期待されているという意味なのである。こうした様子をまとめていえば、博物館自身が自己の再定義を図ることを余儀なくされているといってよいであろう。2001年4月から実施された国立博物館・美術館の独立行政法人化などは、その象徴的な動向といってよいかもしれない。
このように、博物館がその存立の基礎を問い直さねばならない時期を迎えた今、本来ならあわせて博物館の向き合うべき課題も議論されるべきであろう。例えば、歴史系博物館ならば、そこにおいてとらえるべき「歴史」とは何なのか、また、対象化される領域とは何なのか、その中身を考える姿勢が求められよう。事実、真摯にそうした努力を重ねている博物館もある。だが、大勢としてはどうだろうか。
以上、博物館についての私自身の状況認識を述べてみた。ここでの主題である水平社博物館とはあまり関係のなさそうなことを書き連ねていると思われるかもしれないが、けっして無関係なことではない。水平社博物館もひとつの博物館として、当然のことながら何を目指すのか、何に存立の根拠を見出すのかということが問われていると思うからである。一方で、日本において、現在ほど博物館があふれかえったことはこれまでなかったと思われるほど、博物館は多数ある。その中で、総体としての博物館を考えることは必要ではあるものの、ともすれば抽象的な思惟の世界をさまようことにもなりかねない。したがって、具体的な博物館のあり方が逆に理念型を模索する手がかりとなる場合もあろう。その意味では、「水平社博物館」という個別例はけっして特殊なあり方にとどまるものではないと思える。
以下では、私が接してきた限りでの水平社博物館についての印象を中心に、その意義と課題などを思いつくままに述べてみたいと思う。
1 豊かなコレクションと地域
1993年に一度、御所市の川口正志事務所の一角にあった「(仮称)水平社歴史館」建設推進委員会事務局を訪ねたことがあった。現在館長をお務めの守安敏司さんにご案内いただいたその部屋には、膨大な資料が整理・配架されていた。資料群のボリュームはもちろん、すべて地元で収集されたということに驚愕したことは忘れられない。もちろん、その後も絶え間なく資料の収集が続いていたであろうから、現在保有されている資料数は相当なものであろうと思われる。
続いて御所を訪ねたのは、1998年の水平社歴史館のオープン記念式典のときだった(ちなみにその翌年には、登録博物館となって「水平社博物館」に改称されている)。人混みに揉まれながらも目に入ったのは、展示ケース内に収められた膨大な実物資料だった。映像やファンタビューなどは別として、ほとんどすべてを館蔵実物資料で埋めた常設展示を見るのは、実に久し振りのことであり、感動的ですらあった。それから何度か展示を見る機会があったが、その思いは変わらない。
昨今、博物館においても実物よりもバーチャルリアリティがもてはやされるという奇妙な現象が生じている。だが、博物館だけが果たしうる固有の役割といえば、いうまでもなく資料を収集し、またその意義を明らかにし、活用を図っていくことにほかならない。豊かな資料群を所蔵する水平社博物館は、博物館のもっとも基本的な機能を根底に置いているといってよいだろう。今後は所蔵資料目録の公刊ないしはオンライン検索の道が開かれていくことも期待されよう。
また、資料に関していえば、収集すべき内容、対象となる地域をどう考えているかが、その博物館の性格を規定することになる。水平社博物館の場合、前者については館名からも明らかなとおり、水平社運動とその周辺に関わる歴史・民俗資料が収集対象となろうが、開館記念特別展「よみがえる祖先たちの息吹」で前近代史がテーマとされたように、広く部落史・解放運動史が射程とされているといってよいだろう。後者については、先にも触れたとおり、地元である御所市柏原に根を下ろしているといってよかろう。
ここで水平社博物館と地域との関係について触れておきたい。建物に足を踏み入れると、全体の導入として「人権ふるさとマップ」が設置されていて、柏原と周辺地域を紹介するマップや映像によって来館者を迎えてくれる。このことは、水平社博物館の性格をかなり鮮明に表していると思う。すなわち、博物館が施設内で完結しているのではなく、地域空間全体をも博物館と連動させてとらえようとしていると見られ、水平社運動を生み出した柏原という土地との一体性を強く意識している様子がうかがえるのである。これは要するに、水平社博物館を核に位置づけた地域空間全体のエコミュージアム化に通じるものと思われる。この点は特筆されてよいと思うのである。事実、同館を訪ねる人の中には、マップをもとに現地見学を行う者も少なくないと聞く。すでに、フィールドに向けての回路として活用されていることは意義深いものと考える。
地域との関わりということでいえば、本誌『ルシファー』は地域住民に配布される部数が多いと聞いている。多くの博物館で広報誌紙が発行されているが、関係機関に配布されることはあっても、積極的に地元で配布されることはほとんどないように思う。こうした点においても、地域指向の様がうかがえるのである。
2 展示の内容と手法
地域に立脚した豊富な資料群に裏付けられた博物館であるという点は、水平社博物館のよき特徴でもある。そうした資料によって常設展示が構成されていることは先にも述べた。したがって、展示の内容もあくまで柏原を基点としており、運動の通史的叙述とともに、運動家を紹介した人物誌をあわせた構成となっている。
教科書的な知識で水平社といえば、1922年、京都岡崎公会堂で全国水平社が創立されたというだけで終わってしまう。同和教育における部落史学習でも、創立に至るまでの経緯や背景などに踏み込むことは多くないように思う。それだけに、水平社の成立基盤を克明に提示している水平社博物館の展示には、新鮮な印象が与えられる。そこには、「解放令」発布以後の差別との闘いの歴史、闘いを支えた経済的・産業的基盤が示され、それらが水平社創立の前提としてまとめられているのである。ここでとりわけ興味深いのは、被差別部落の活発な経済活動ゆえ旧本村とは経済力に差がなく、それが運動の自生を支えたとしている点、また、部落改善運動の自主的展開を示している点である。これらは、貧困・悲惨に一面化されてきた部落史イメージ、部落改善運動や融和運動と水平社運動の対抗関係ばかりを強調する解放運動史イメージ(少なくとも徳島県の同和教育においては、最近までそうした内容が語られている)を大きく揺さぶる内容となっている。しかも、そのいずれについても柏原の地域史にほかならない。
ただ、欲をいえば、全国水平社の創立と社会思想、社会運動の全般的状況との関連性への踏み込みが弱いことが残念ではある。資料的制約、展示内容の拡散を防ぐためにはやむをえないことかもしれないが、解放運動があたかも自己完結していたかのような印象を残す可能性が高いのではないかと思える。
展示のなかで興味深いのは、水平社創立に関してだけではない。前後するが、阪本清一郎『回想録』が展示されているプロローグにおける「私は始めて穢多と云ふ語を覚へ」以下の文言は、差別とそれに対する闘いの歴史の重みを感じさせ、実に印象的である。しかも、柏原の代表的な運動家だった阪本のものであるだけに格別のものといえる。
運動の展開についても豊富な資料が所狭しと並び、詳しいグラフィックパネルとあわせて具体的な歴史を語っている。戦時下の解放運動という、ある意味では運動史の負の部分も取り上げられている。また、奈良県水平社や柏原の活動家を紹介した人物誌的な展示コーナーも注目される。具体的な人に即して展示した場合、とくに地元に関係する人物であれば親しみも感じやすいのではないかと思われる。
ところで、差別問題、部落史や解放運動のみならず、社会思想や社会運動などを内容とした展示は、往々にして難解になる傾向がある。このことは水平社博物館だけに該当することではなく、例えば自由民権運動をテーマとする高知市立自由民権記念館などにおいても同様のことを感じてきた。その理由はいくつかあろうが、テーマの抽象性が高く、即物的な表現がむずかしいということがあるのではないだろうか。すなわち、展示という表現手段との親和性の問題と思われるのである。それだけにグラフィックパネルや資料ラベルといった解説の役割が大きくなると思われるが、下手をすれば「もの」がなくても展示が成立しうるという矛盾の中に入り込んでしまう危険性を伴っている。その上、直観的な理解のむずかしさが常につきまとうため、専門家はともかく、一般的なレベルでの興味をそいでしまう恐れがある。
このことは、展示資料の多くが文献で、一見して理解・解釈ができるものではないことにも由来していると思われる。中身の読み込みが必要であるにも関わらず、展示ケース内ではごく一部分を提示するに止まらざるを得ないからである。さらに、展示されている文献は、誰にでも容易に理解できるものではない。そうはいっても、実物だけが持つ紙や文字の質感には、誰もが「歴史」を実感するであろうし、それもまた、展示に独特の役割なのかもしれない。
このような問題を考えると、全国水平社創立大会の場面をドラマ化したファンタビューシアターや各種の映像は、展示に変化をつけ、多様な関心を引き付けるには効果的なのだろう。とくにファンタビューシアターの印象は、観覧者の中に強く残るらしいが、それはそれでうなずけることである。
以上、常設展示の特色や問題と思われる点などを挙げてきたが、いずれにせよ、これらは歴史展示として展開されており、一貫したストーリー性を感じる。そうした中にあって、いささか特異な感じを抱いたのが、エピローグである。四つの鏡のコーナーそれぞれに「心の扉をノックしよう」と表示され、ノックすると鏡が透けていろいろなものが現れてくる仕掛けとなっている。直前の「糺」のコーナー(西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作が残した糺弾に関する言葉をエピソードとして展示)で、全国水平社が初めて遣った「糺弾」が社会のなかの差別、差別する心への問いかけをしていたことを提示しているのと連動しているとも見える。水平社運動が目指した地平を明らかにし、観覧者自身に引きつけて考えてもらいながら、展示を閉じようとする意図であろう。部落史・部落解放運動をテーマにした博物館であればこそ、それは当然の配慮かもしれない。ただ、私自身はこれまで数度見たが、違和感がぬぐえない。歴史を描く展示の流れからの極端な転換を感じてしまうのである。と同時に、差別を心理的問題として限定してしまうような方法でよいのかと思ってしまう。
最後に展示全体、さらには所蔵資料の扱い方の大きな特色として、地名・人名、身分呼称等を含めて資料を全面的に公開していることを挙げておきたい。水平社博物館の場合、歴史上の差別の様相を明確にする意味もあって、全面公開の方針を持っているし、そもそも水平社発祥の地柏原に基盤をおく以上、すべてを公開しなくては展示が成り立たないのである。観覧者からのクレームはなく、むしろ評価されているようである。
このような資料公開のあり方は、全国各地に増えてきた人権資料館・人権啓発センターでも必ずしも実現されておらず、いずこも苦心しているところである。とくに取り上げる地域の規模が小さくなればなるほど、具体性が強まるため、現実の差別のありようを考慮すれば公開を避ける方向に向かうのが一般的な発想であろう。「人権」を基本テーマに掲げていない一般的な歴史系博物館で、部落問題その他の差別問題が展示テーマとして取り上げられる機会がほとんどないのも、そうした問題が一因となっている。だが、差別の問題が歴史の中で生起したものである以上、それと向き合うことは歴史系博物館の課題となるはずだ。水平社博物館は、そのことを改めて考えさせてくれるのである。
3 利用者と利用形態
水平社博物館は開館からまる3年を経て4年目に入っている。入館者はすでに10万人を越えたと聞く。それでも、入館者数は次第に減少する傾向にある。入館者増をいかにはかるかが課題であり、とくに学校団体の利用促進に力を入れていく方針だという。
展示が博物館の顔である以上、見てもらえなければ意味がない。入館者を増やそうとする努力は大切なことだ。水平社運動を中心として構成された展示は内容豊富な上、類例がないだけに貴重な存在であるから、ぜひ多くの人の観覧が望まれる。だが、展示に伴う難解さを指摘したように、理解するためには相応の知識が必要となる。そのため、利用を促すにはスタッフなどの口頭解説、解説シートの充実などによる「わかりやすさ」を意識するべきだろう。テーマ館であるし、観光地でもないので、個人客についてはあまりにも無関心な人はないと思われるが、団体見学だとそうはいくまい。偶然、私が訪れたときにも学校団体がどやどやと入場し、あっという間に通り過ぎていった。これではあまりにも空しい。確かに、児童・生徒引率用の『水平社博物館見学ガイドマニュアル』が刊行されているが、この種のものは博物館側が考えているほどには浸透していない場合が多い。少ないスタッフで大変だとは思うが、教育現場での需要を踏まえて展示利用プログラムを開発していくよう努めることが大切になるのではなかろうか。
なお、博物館の利用とは、展示観覧だけではないはずである。多様な活動とそれに伴う利用者の開拓も求められている。そうした中で重視したいのは、地域住民との関係である。先に地域に根差した博物館として評価すべきことを述べたが、これは博物館を主体において見た場合だった。ここでいいたいのは、地域住民が自主的に博物館を学習や活動の場としていけるような環境づくりである。最終的には住民が地域の歴史を主体的に探求していくようなことが望まれようが、水平社博物館にはそれだけの土壌があると感じる。すでにガイドボランティア制度や講座なども展開されつつあるが、地域との回路の開き方は博物館の将来を構想するという意味においても重要なことと思われる。
さらに、収蔵資料の研究という意味での利用も重要である。近年、博物館と文書館を対比して、前者の資料閲覧・利用体制整備の遅れが指摘されることがある。水平社博物館の場合、館外の研究者等を研究員として登録し、研究のための資料利用を促進する制度を設けている。「研究員制」と称し、限定的ではあるが、部落問題関係資料が主であるという収蔵状況の特色を考えれば、ただ門戸を開放しておればそれですむというわけにはいかない。資料利用体制のひとつのあり方として注目しておきたいと思う。これに関連して興味深いのは、収蔵資料を利用した研究員の成果を紀要に反映させるよう考えられていることである。研究の蓄積とそれに伴う博物館活動の活性化が図られていると見られる。水平社博物館から広がる人的ネットワーク体制としての期待感もある。
おわりに
水平社博物館は人権資料・展示全国ネットワーク(人権ネット)の事務局を構成し、人権をテーマとした関係機関の中でも枢要な位置を占めている。しかも、人権ネット加入機関では数少ない「博物館」として活動している施設である。専任の学芸員を置いていることにもその見識がうかがえる。本稿で述べてきたことも、あくまで「博物館」としての性格に留意したつもりである。
それにしても、あれこれと書きつづってきたことの大半は、私の勤務先での反省を踏まえてのことでもある。とりわけ、展示の方法や資料の公開のあり方、地域住民との接点の持ち方などは、私どもも常々模索しているところである。今後も、多くのことを学ばせていただきたいと思うのである。