2 狩人たちの足跡

 

 第四紀は「人類の時代」ともよばれている.それでは,日本列島にヒトがすみつくようになったのは,いつごろのことだろうか.それは,そう古いことではなく,10数万年前のことであるらしい.私たちの先祖は陸続きになっていた大陸から,獲物となる動物を追って渡ってきたと考えられている.
 1万2,3千年前,氷期が終わり気候が暖かくなるにつれ,海水準が上昇し,新たに内湾(ないわん)や海岸平野が形成された.そして,縄文(じょうもん)時代の人びとに新たな生活の場を提供した.生物相も大きく変わった.人びとは土器や弓矢を使いはじめ,定住生活を営むようになった.
 化石や遺物をたよりに,当時の生物と人びとのくらしぶりをさぐってみることにしよう.

 

 ゾウのきた道
 ・
旧石器時代の徳島
 ・
後氷期の自然と縄文人

 

ゾウのきた道

 約200万年前からはじまる第四紀は,大氷河時代ともよばれている.地球上には5回もの寒い氷期(ひょうき)と,現在より温暖な間氷期(かんぴょうき)がかわるがわる訪れた.
 寒い氷期には,海から蒸発した水分が氷河となって陸上に固定されるため,何十メートルも海面が下がり,日本列島はしばしば大陸と陸続きになった.そして,この陸橋をとおって大陸から動植物が渡ってきた.私たちの祖先が渡ってきたのも,この時代である.

 

第四紀の生物

 第四紀の前半は,氷河時代といっても,まだ暖かい気候が続き,メタセコイア植物群で特徴づけられる第三紀型の生物も多くみられた.その後,気候はしだいに寒冷化していったが,間氷期には,トウヨウゾウやマチカネワニなど南方系の生物も渡ってきた.
 最終氷期のウルム氷期は,もっとも気候が寒冷になった時期である.マンモスやヘラジカ,ヒグマが渡ってきたのはこの時である.

■鳴門海峡海底の化石
 瀬戸内海は第四紀の化石の宝庫で,底引き網にかかって,ナウマンゾウをはじめ,様ざまなケモノの化石が引き上げられている.鳴門海峡から見つかるのは,ほとんどがナウマンゾウとムカシニホンジカの化石である.これらは,氷河時代にすんでいた生物の化石で,海底の地層から潮流によって洗い出されたものである.

■森山粘土層の化石
 麻植郡鴨島町森山,鮮新世〜更新世前期
 吉野川南岸の鴨島町周辺の丘陵には,森山粘土層とよばれる県下唯一の鮮新−更新統が分布している.ここからは,メタセコイアなどの植物や淡水性貝類の化石が見つかる.昭和32年には大規模な発掘調査が行なわれ,ゾウの牙やシカの骨などの骨片多数が採取された. 

●ナウマンゾウ全身骨格 [複製]
 北海道広尾郡忠類村,更新世後期
 原標本は北海道開拓記念館蔵
 更新世中期に,当時陸化していた黄海や朝鮮半島を経由して渡来し,20−30万年前から2万年前までの日本のほぼ全土にすんでいた.肩までの高さは2m余りで,インドゾウとほぼ同じ大きさだった.
 日本からは,いろいろな種類のゾウの化石が産出するが,なかでもナウマンゾウの化石が最も多い.瀬戸内海や鳴門海峡からもたくさんの化石が見つかっている.

●ヤベオオツノジカ全身骨格 [複製]
 岐阜県郡上郡八幡町熊石洞,更新世後期
 原標本は大阪市立自然史博物館蔵
 オオツノジカは,大きな掌状の角をもった大型のシカのなかまで,更新世の冷温帯の草原や森林にすんでいた.中には,さしわたし4m近くになる巨大な角をもつ種もあった.最終氷期が終わるころに地球上から姿を消した.
 更新世後期の日本各地には,ヤベオオツノジカ
がすんでいた.その化石は,ナウマンゾウの化石といっしょに発見されることが多い.

 

人類の登場

 第四紀は,人類が生まれ発展した時代でもあるので,「人類の時代」ともよばれている.
 第三紀鮮新世(せんしんせい)にアフリカで生まれた猿人(えんじん)(オーストラロピテクス)のあるグループから,私たちの祖先にあたるホモ属の原人(げんじん)が生まれた.そして,原人から旧人(きゅうじん),新人(しんじん)へと進化したと考えられている.
 日本からは,原人や旧人の確かな化石はまだ見つかっていない.

 

旧石器時代の徳島

 徳島にヒトがすみはじめたのは,約2万年前のウルム氷期のころからと考えられている.
 このころ,徳島では,香川から運んだサヌカイトを加工して,いろいろな石器がつくられた.この石器を使って,草むらや水辺に集まる動物を狩りしていた.彼らの生活の場は,おもに吉野川北岸の見晴らしのよい台地上であった.
 徳島の旧石器時代遺跡は,吉野川流域で30か所近く発見されている.この地域以外では,県南の廿枝(はたえだ)遺跡だけしか知られていない.

■徳島県の旧石器
 阿南市桑野町の廿枝(はたえだ)遺跡で旧石器が発見されて以後,県下の旧石器時代遺跡は吉野川沿岸を中心にその数を増やしてきた.石器は,おもにナイフ形石器が採集され,尖頭器や細石刃は数少ない.ナイフ形石器は,縦長剥片や瀬戸内技法による翼状剥片などでつくられる.吉野川沿岸ではサヌカイト,県南ではチャートや酸性凝灰岩が使われる.

■吉野川上流域の旧石器遺跡
 三好郡池田町の標高200mから600mの高い山の中から,最近いくつかの旧石器時代の遺跡があいついで発見された.これらの遺跡からは,サヌカイト製のナイフ形石器,掻器(そうき),翼状剥片などが採集されている.

●椎ケ丸遺跡
 旧石器時代,約2万年〜1万2000年前
 板野郡土成町
 吉野川下流域で,旧石器がもっとも多く採集されている重要な遺跡.サヌカイト製の大・小のナイフ形石器のほか,翼状剥片や石核などが出土.

●廿枝遺鉢
 旧石器時代,約2万年〜1万2000年前
 阿南市桑野町
 徳島で最初に発見された旧石器時代遺跡.丘陵先端に立地する.チャートや酸性凝灰岩でつくったナイフ形石器,尖頭器,細石刃などが出土.

■石器のつくり方
 旧石器時代には,打ち欠いて石器をつくる方法がおもに使われた.その方法は,直接打法,間接打法,押圧剥離(おうあつはくり)に大きくわけられる.
 直接打法は,河原石や鹿の角(つの)などをじかに石材に打ちつける方法で,原石の荒割(あらわ)りやおおまかな加工に使われた.間接打法は,石材にタガネをあてがい,その頭をたたく方法で,薄く長い剥片(はくへん)が取れた.押圧剥離は,鹿の角などの先を剥片に押しつけて加工する方法で,きわめてこまかい剥離に用いられた.

 

後氷期の自然と縄文人

 氷河時代が終わり気候が暖かくなると,自然環境はいちじるしく変わった.人びとは,山や海へと活動の場を大きく広げていった.
 縄文人は,シカやイノシシなどを狩り,トチの実やドングリなどを集め,海岸近くではハマグリ,ハイガイ,カキなどの貝やクロダイ,ブリなどの魚をとって生活していた.
 彼らは,岩かげやほら穴を利用したり,竪穴住居(たてあなじゅうきょ)をつくって住み,自然のめぐみにたよってくらしていた.

 

土器と弓矢

 約1万2000年前,土器と弓矢が使われはじめた.このころの土器は,底が深く,貝を煮たり,トチの実やドングリなどのアク抜きに使われた.弓矢を使うと,離れたところにいるシカやイノシシ,すばやい動きのウサギや鳥などをたやすく射止(いと)められるようになった.
 土器と弓矢の使用によって,人びとの食料は豊富になり,やがてムラが形づくられるまでになった.

■弓矢の登場
 旧石器時代の終りから縄文時代のはじめには,木葉形尖頭器,有舌尖頭器,石鏃などがあらわれる.有舌尖頭器はすぐに姿を消すが,石鏃を使った弓矢は狩りを効率よくし,縄文時代を代表する狩猟具として長く使われた.

■縄文時代の石器
 縄文時代には,石鏃,石槍,石匙(いしさじ),掻器(そうき),削器(さっき),石錘(せきすい),石斧,砥石(といし),すり石,くぼみ石などが多く使われる.石匙は獲物の解体,掻器や削器は皮なめしや木,骨の加工,すり石やくばみ石は木の実やイモを砕き粉にする道具.

 

ひろがる照葉樹林(ジオラマ)

 照葉樹林(しょうようじゅりん)は,シイやカシ,ヤブツバキ,クスノキなどの常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)を主とする林で,縄文時代になり暖かくなると,しだいに東北地方にまで広がった.徳島では,高い山地のほかはほとんど照葉樹林におおわれた.
 照葉樹林は,木の種類が多く,秋には豊かに木の実がなり,たくさんの動物が集まった.縄文人は,この林で木の実を集めたり,狩りをして数多くの食料をえていた.

 

3.ムラからクニへ][常設展示ツアーのトップページ