3 ムラからクニへ

 

 弥生時代は,米づくりのはじまった時代である.また,生産や加工のための道具として鉄器が使われるようになり,生産量が増大した時代でもある.
 川すじを単位としたムラは,だんだんまとまって大きくなり,やがて地域ごとにクニを形づくるようになった.各地の首長は,大和地方の強力な勢力を中心として結びついていく.そして,3世紀の終りごろには,前方後円墳がつくられるようになった.古墳時代のはじまりである.
 徳島は,全国1,2位の銅鐸の出土数を誇っている.また,貴重な辰砂(水銀朱)を採掘していた若杉山遺跡のような,全国に誇れる遺跡もある.これらの事実は,当時の徳島を考える上で重要なカギをにぎっているにちがいない.

 

 米づくりのはじまり
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銅鐸のまつり
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首長墓の登場

米づくりのはじまり

 2300年ほど前,米づくりや金属器,はた織りなどの高い技術をもった文化が大陸から伝わり,西日本から東へと急速に広まった.この時代を弥生(やよい)時代とよぶ.
 弥生人は,米づくりによって安定した豊かな生活を営むことができるようになった.人口はしだいに増加し,大きなムラがつくられた.大きなムラでは,水田や収穫物は,長(おさ)のもとで管理された.ムラどうしの争いも多くなり,やがて強いムラは弱いムラを従え,強いムラの長は地域の支配者として地位を高めていった.

 

稲をつくるムラ

 米づくりのムラは,川沿いの小高いところにつくられた.大きな濠(ほり)で囲まれたムラには,竪穴(たてあな)住居や籾(もみ)をたくわえる高床倉庫などが建ち並び,広い水田や共同墓地もつくられた.水田を耕したり,水路を開いたりする仕事は,長(おさ)を中心にムラびとが力を合わせて行なった.
 弥生のムラを発掘すると,土器や石器,水田を耕す鋤(すき)や鍬(くわ)などの木製農耕具,稲穂(いなほ)をつむ石庖丁(いしぼうちょう),籾をつく臼(うす)や杵(きね)などが出土する.

●南庄遺跡の土器
 徳島市教育委員会蔵
 南庄遺跡は徳島市南庄町にあり,弥生時代の大きなムラの跡である.竪穴住居やゴミ捨て穴からはまとまって土器がみつかっている.ここでは弥生時代中期のものがたいへん多い.

●庄遺跡の木製品
 徳島市教育委員会蔵
 徳島市庄町から蔵本町にわたる庄遺跡では,川の跡がみつかり,大量の木製品が出土した.弥生時代前期から後期のもので,農具,はた織具,建物などの用材,まつり用具,容器などがある.

●南庄遺跡の打製石器
 弥生時代中期,徳島市教育委員会蔵
 鏃や錐,槍などの石器は,弥生時代にかわってもサヌカイトなどを打ち欠いてつくられた.弥生時代後期になると,これらは鉄製品にとってかわられた.

●南庄遺跡の磨製石器
 徳島市教育委員会蔵
 米づくりとともに大陸から伝わってきた石器は,石庖丁と石斧類である.石庖丁は稲の穂首刈に使われ,重量のある太型蛤刃石斧は木を切り倒すのに,何種かの片刃石斧は加工用に使われた.

 

辰砂を掘る

 弥生時代中ごろ,死者の顔や胸に赤い顔料(がんりょう)をふりかけて埋葬する風習(ふうしゅう)が,北部九州ではじまり,しだいに各地に広がっていった.その赤い顔料とは,辰砂(しんしゃ)とベンガラである.
 辰砂は,中国では長生きの薬として大切にされた.日本にも伝えられ,やがて国内でも採掘がはじまった.徳島では,弥生時代の終わりごろ,若杉山一帯で辰砂の採掘がはじまり,特産品として各地に運び出された.

■日本の水銀鉱山
 辰砂(水銀朱)は,ベンガラなどよりも色あざやかで好まれ,朱,丹などとよばれる.辰砂を産出する水銀鉱床は,日本列島各地に分布するが,とくに中央構造線上に分布する大和水銀鉱床群や,阿波水銀鉱床群は代表的なものである.『魏志』倭人伝にいう「其山有丹」は,これらの鉱山であるという説もある.

■丹生(にう)と丹生神社
 水銀鉱山の周辺には,「丹生」地名や,「丹生神社」が多く分布する.丹生神社は辰砂産出を司る女神を祭る.若杉山遺跡近くの那賀郡鷲敷町にも,「仁宇(にう)」などの地名と,古くは丹生神社とよばれた「仁宇八幡神社」がある.

 

銅鐸のまつり

 銅鐸(どうたく)は,稲作のまつりに用いられたカネで,ふだんは地中に埋められ,まつりのときに取り出して使われたと考えられている.近畿地方を中心に450個以上発見されているが,徳島からは40個あまりが出土しており,その数の多さは全国に知られている.
 銅鐸の独特の形は,朝鮮式(ちょうせんしき)小銅鐸をもとにつくられ,つりさげる小さなカネから大型のものへと変わっていった.しかし,古墳づくりがはじまると,いっせいに地上から姿を消した.

■銅鐔のうつりかわり
 銅鐸のうつりかわりは,大きさや鈕の形にあらわれる.大きさは,20cm前後のものから,しだいに大きくなり,100cmを越えるものもあらわれる.それにあわせて鈕も,断面が菱形のものから,周囲に文様のある扁平な部分がつき,ついには本来の機能を失ない文様が主体のものになり,鳴らす銅鐸から,見る銅鐸へとうつりかわっていく.

■銅鐸の埋納
 銅鐸は,多くの場合,人里離れた谷や,山の斜面に,単独で埋納されている.しかし,鮎喰川の流域の源田遺跡や安都真遺跡のように,同じ場所に多くの銅鐸が埋納されている例もある.また,最近,名東遺跡のように,平地の集落跡から発見される例もある.埋納の方法にはきまりがあるようで,鰭(ひれ)を立て,倒した状態で埋納されるものが多い.

■銅鐸の模造
 銅鐸をまねたものに,土製品や銅製品がある.銅鐸形土製品は,形をまねただけのものが多いが,文様を精密に描いたものや,銅鐸を製作したムラから出土する例もある.銅鐸形銅製品は小銅鐸ともよばれ,銅鐸の小型のものとも,模倣品とも,また銅鐸製作の際の試作品ともいわれる.土製品,銅製品とも,具体的な用途はわかっていない.

■平形銅剣
 平形銅剣は,朝鮮半島からもたらされた青銅製の武器をまねて,日本でつくられたものである.武器本来の機能は失なっており,祭りの道具として使われたと考えられている.銅鐸と同様に,山の斜面などに埋納されることが多く,銅鐸といっしょに出土することもある.中国,四国地方の瀬戸内海沿岸を中心にした地域で発見される.

 

首長墓の登場

 弥生人は共同墓地をつくったが,有力者の家族墓はしだいに大きくなり,さらに特定の首長(しゅちょう)の墓をつくるようになった.これが古墳(こふん)である.3世紀の終わり,大和地方に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)があらわれると,各地の首長はきそってその形を取り入れた.
 古墳には,土を高く盛り,表面には石を葺(ふ)き,埴輪(はにわ)をめぐらせた.内部には大きな石室を築き,貴重な中国製の鏡や大量の武器,工具,装飾品(そうしょくひん)などを納めて,死者を手あつく葬った.

■竪穴式石室のはじまり
 弥生時代の首長墓は,穴を掘って,棺を直接埋葬するものであった.古墳時代になると,墳丘の中央に穴を掘り,長い割竹形の木棺をおき,それを覆うために,石で大きな竪穴式石室をつくるようになった.これは死者を手あつく葬る風習のあらわれで,多くの副葬品などとともに,死者の権力の大きさをものがたるものである.

■古墳の副葬品(ふくそうひん)
 古墳には,そこに葬られた人の地位や権力を象徴するものが副葬されている.前期の古墳には,石製品や刀,三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)などの鏡などとともに,斧などの工具類や,鎌や鍬先などの農具類が多い.やがて,社会の変化にあわせて,甲冑などの武具や,大量の武器が副葬されるようになり,大陸の影響をうけた馬具や須恵器もみられるようになる.

■横穴式石室
 5世紀になると,大陸からの影響をうけて,横に入口をもつ横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が,九州の北部にあらわれた.それまでの竪穴式(たてあなしき)石室は首長(しゅちょう)ひとりの墓であったが,横穴式石室は追葬(ついそう)ができるようになっていて,家族の墓としての性格をそなえている.副葬品(ふくそうひん)も,大陸の影響をうけた馬具(ばぐ)や須恵器(すえき)が多くなった.
 横穴式石室は,6世紀には全国各地にひろがり,地域ごとに特色のあるものが,さかんにつくられるようになった.

 

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