4 古代・中世の阿波

 

 古代の日本では,朝廷(ちょうてい)によって,律令(りつりょう)にもとづいた政治や社会の制度がつくられた.やがて,このしくみがくずれ,朝廷や幕府(ばくふ)などがならびたちながらも,おぎないあって日本を支配するようになった.中世の幕開けである.実力をもった武士や生産力を高めた民衆の動きがさかんになっていった.
 このような歴史の流れのなかで,阿波の政治や生活,宗教などはどのようなものであったのだろうか.古代寺院からの出土品,木簡(もっかん),板碑(いたび)などを手がかりとしてさぐっていこう.

 

 国府と寺院
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木簡は語る
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中世の阿波

 

国府と寺院

 大化の改新(645年)のあと,朝廷(ちょうてい)は,しだいに律令(りつりょう)(法律)を整え,天皇中心の政治を行なうようになった.奈良には藤原京(ふじわらきょう),平城京(へいじょうきょう)などをつくり,地方には国(こく)・郡(ぐん).郷(ごう)の制度をしき,国府などの役所をおいた.
 また,朝廷は,朝鮮半島から伝えられていた仏教をわざわいから国家を守るものとしてしだいに取り入れ,大きな寺院を建てた.奈良時代になると,聖武天皇(しょうむてんのう)の命令によって,全国の国府の近くに国分寺(こくぶんじ),国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられた.

■阿波国府とその周辺
 都から阿波国府へは,南海道を下り,郡頭(こおず)の駅を南下して至る.国府の中心地や範囲などは明らかでないが,徳島市国府町大御和(おおみわ)神社から府中(こう)駅の間を中心地と考える説が多い.周辺には,条里跡や国分寺・尼寺跡などが残る.

■地方役人の仕事
 地方では,都から赴いた国司が,行政・司法・軍事などの権限をもち,地元の豪族である郡司(ぐんじ)などを通じて力をふるった.当時の役所の跡などからは,彼らが使ったものが発見されている.

■郡里廃寺
 郡里廃寺(こおざとはいじ)は,美馬(みま)郡美馬町にあり,徳島県で最も古い寺院跡のひとつである.7世紀後半に建てられたこの寺は,東西94m,南北120mの広さがあり,東に塔,西に金堂(こんどう)をおく法起寺式(ほっきじしき)の伽藍配置(がらんはいち)である.
 塔の基壇は一辺12.1mで,金堂の基壇(きだん)は幅18m,奥行き15mと推定される.回廊(かいろう)の跡や寺を囲む土塁(どるい)・石敷(いしじき)がみつかっているが,南大門,中門,講堂,僧坊(そうぽう)の位置や大きさなどは,はっきりとわかっていない.


●郡里廃寺塔心柱の復元模型
 創建時 7世紀後半
 塔の中心の柱である心柱を復元したものである.心礎は基壇の下に埋っており,心柱は断面八角形で,基壇に埋った部分には柱がくさるのを防ぐために根巻板が当てられていた.これは法隆寺や法輪寺と同じ形式である.心柱は根元で径108Bほどあり,上にいくほど細くなる。

 

木簡はかたる

 朝廷(ちょうてい)は,公地公民(こうちこうみん)の制にもとづいて,全国の戸籍(こせき)をつくり,税を取り立てたり兵士を集めたりした.地方の国ぐにと都の問には,官道が整備された.この道は,都へ税を運んだり,都からの命令を伝えたり,国司が都から任地におもむくときなどに使われた.
 このころ,都や地方の役所では,命令や記録,荷札などに,木簡(もつかん)が広く使われていた.遺跡から出土する木簡からは,文書には書かれていない役人や庶民のくらしぶりが,いきいきと伝わってくる.

●木簡 [複製]
 飛鳥・奈良時代,7世紀末〜8世紀
 奈良県藤原宮・平城宮跡,京都府長岡京跡
 原品 奈良国立文化財研究所,向日市教育委員会蔵
 木簡は,細長く薄い木の札に文字の書かれたもの.古代の税のしくみ,税として納められた品物の内容,地名,人名などを知るための手がかりとなる.

 

中世の阿波

 中世には,荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)が支配や生活の場となった.荘園は,天皇家,貴族(きぞく),寺社(じしゃ)などの私有地で,現地の武士によって管理された.知行国主(ちぎょうこくしゅ)や国司(こくし)が治める公領でも,現地で役人になった武士が力をもった.
 鎌倉(かまくら)時代には,幕府(ばくふ)がおいた守護(しゅご)や地頭(じとう)による支配も加えられていった.室町(むろまち)時代になると,細川(ほそかわ)氏や三好(みよし)氏など,大きな勢力をもつ支配者もあらわれた.
 このような支配のもとで,民衆は,税や戦乱に苦しみながらも生産にはげみ,くらしていた.

 

村のくらし

 荘園や公領の農民は,名主(みょうしゅ)を中心に,村のまとまりをつくった.税の負担などに耐(た)えながらも,農業の技術を発展させ,しだいに生産を高めていった.やがて,生産物の交易(こうえき)がさかんになり,人の往来(おうらい)も活発になった.
 天災や戦乱が多いこの時代には,武士も農民も,神仏にすがることが多かった.今日に残る経塚(きょうづか)や板碑(いたび)は,中世の信仰のようすをよく示している.

■中世の種野山
 中世の種野山は,美馬(みま)郡木屋平(こやだいら)村と麻植(おえ)郡美郷(みさと)村,山川町の一部にまたがる山間部の広い地域であった.そのころのようすは,この地域に残る古文書(こもんじょ),民家や耕地の分布,地名などを手がかりにしてうかがうことができる.
 種野山では,いくつかの在家(ざいけ)からなる名(みょう)を単位に税が集められ,支配が行なわれた.人びとは,山林を切り開き,農業や手工業を行ないながらくらしていた.なかには,天皇の即位(そくい)行事のひとつである大嘗会(だいじょうえ)に奉仕する者もいた.

■経塚
 経塚は,多くの場合,仏教の経典や仏具,鏡,剣,玉,銭などを収めた容器を,寺社の境内や高い場所に埋めてつくった塚である.10世紀ごろから流行した末法思想の影響をうけてつくられはじめたといわれる.11世紀から12世紀にさかんにつくられた.徳島県下でも,数多くの経塚が発見されている.

■板碑
 板碑(いたび)は,供養塔(くようとう)の一種で,死者のとむらいなどを目的にたてられた.その表面には,梵字(ぼんじ)や仏像,願文(がんもん),年月日などが刻まれている.
 阿波の板碑は,関東地方の板碑とともに,青石でつくられ,形の整ったものが多い.そのおもな分布地域は,吉野川と鮎喰(あくい)川の流域である.たてられた年代は,12世紀から16世紀にわたっている.これらの板碑は,中世の人びとのくらしのなかに,仏教が深く根づいていたことを示している.

■まじない
 まじないは,陰陽道(おんみょうどう)や仏教などの要素をあわせもつものである.古代以来,不幸な運命や災い,病気などからのがれ,幸福を招きよせるために,さかんに行なわれていた.
 まじないのようすは,古文書などの文献とともに,人形や呪符(まじない札)などの出土品から知ることができる.


●中島田遺跡出土品
 鎌倉時代,徳島市中島田町
 中島田遺跡は,中世のむらの跡で,出上品には,食器や工具,呪符(まじない札)など,日常生活の中で使われていたものが多い.当時の民衆生活を具体的に知るための貴重な資料である.

●三木家文書
 鎌倉〜室町時代
 美馬郡木屋平村 三木喜代子蔵
 県指定文化財
 三木家文書は,中世の種野山三木名の名主の子孫である三木家に伝えられた古文書である.徳島県下では,もっとも豊富な中世の古文書で,山間部の歴史を知るための貴重な資料である.

 

細川・三好の台頭

 細川氏は,室町幕府(むろまちばくふ)の管領家(かんれいけ)の一族で,有力な守護大名(しゅごだいみょう)として阿波を支配した.
 三好氏は,そのもとで勢力をのばし,やがて細川氏をしのいでいった.16世紀なかばには,畿内(きない)もおさえ,幕府の実権をにぎるほどになった.しかし,土佐から攻め入った長宗我部(ちようそかべ)氏に敗れ,ほろび去った.
 細川氏と三好氏のように,阿波を足場に中央の政権と深くかかわった例は,少ない.

 

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