蜂須賀氏の入国と徳島城
豊臣(とよとみ)政権下の有力な大名(だいみょう)蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の子 家政(いえまさ)は,1585年(天正13)四国征伐(せいばつ)の直後,豊臣秀吉(ひでよし)から阿波国17万余石をあたえられた.
阿波に入国した蜂須賀氏は,地方の要所(ようしょ)9か所に城をおき,非常の事態にそなえるとともに,徳島城を築き,城下町を建設して,領地を支配する拠点(きょてん)をつくった.その後,徳川幕府(ばくふ)より淡路(あわじ)国を加えられ,四国最大の大名として,明治維新(いしん)まで阿波・淡路の2国25万余石を支配した.
■鷲の門
鷲(わし)の門は,徳島城の南側入口にあった城門である.3代藩主光隆(みつたか)の時代に,城を広げることを目的として建てられたものといわれている.この門は,本柱(ほんばしら)4本の後ろに控柱(ひかえばしら)2本をたて,切妻(きりづま)屋根をかけた薬医門(やくいもん)形式の門であった.大きさは,間口7.87m,高さ7.73mで,門の左右には,番所をおいた.
展示室の模型は,1936年(昭和11)の徳島県立工業学校(現徳島工業高等学校)の実測図面にもとづいて,復元したものである.
■徳島城
蜂須賀家正(はちすかいえまさ)によって築かれた徳島城は,城山山上に本丸・東二の丸などをおき,山麓(さんろく)に御殿(ごてん)をおく形式の城であった.
この城の大きな特徴(とくちょう)は,普通本丸におく天守(てんしゅ)を東二の丸においたこと,南側の守りとして,敵の側面を攻撃(こうげき)できるよう,折(お)れ曲(ま)がり塀(べい)を寺島川沿いにつくったことであった.江戸時代後期の徳島城は,四国の中では大きな規模をもつ城であった.展示されている模型は,江戸時代初期の「正保城絵図(しょうほうしろえず)」(内閣文庫蔵)などをもとに,復元したものである.
●徳島城天守閣模型 縮尺1/20
徳島県立貞光工業高等学校製作・蔵
徳島城の天守閣は,城山山上の本丸に置かれず,それより一段下がった東ニの丸に置かれたことが大きな特徴であった.規模は7間四方で,3層に築かれた天守閣には,唐破風(からはふ)や千鳥(ちどり)破風が設けられている.
●蜂須賀家参勤交代渡海図屏風〔複製〕
伝森崎春潮筆,江戸時代 19世紀
原品 蓮花寺蔵
大名は,徳川幕府がさだめた参勤交代の制度により,1年おきに江戸へおもむいた.この屏風は,参勤交代のため,海を渡る蜂須賀家の船団を描いたものである.ほぼ中央には,藩主の御座船が描かれている.
●蜂須賀家御座船(ござふね)至徳丸(しとくまる)模型〔複製〕
江戸時代 19世紀
原品 徳島大学蔵
至徳丸は,藩主蜂須賀家の御座船で,参勤交代の時に,おもに淡路島沿いを航行した船である.この模型は,蜂須賀家の氏神を祭る国端彦(くにたまひこ)神社に奉納されていたもので,きわめて精巧につくられている.帆は16反帆で,艪(ろ)は60挺が用いられている.
藩のしくみ
藩(はん)とは,1万石以上の大名が支配する領地と,その支配機構(きこう)のことをいう.
徳島藩の職制は,ほぼ幕府(ばくふ)の制度にならい,家の格に応じた役職をさだめ,御仕置(おしおき),洲本城代(すもとじょうだい),奉行(ぶぎょう)などをおいた.また,農民の支配などを目的とした法律である「御壁書(おかべがき)・裏書(うらがき)」をつくり,政治の大きな方針をさだめた.徳島藩でこのような支配体制ができあがったのは,初代藩主至鎮(よししげ)から2代忠英(ただてる)の元和(げんな)・寛永(かんえい)ごろであった.
政治と経済のしくみ
徳島藩では,事実上の最高権力者である家老(かろう)が,藩主にかわって政治を行なった.とくに領地の支配にあたっては,重臣(じゅうしん)に禄(ろく)として土地をあたえる地方知行(じかたちぎょう)の制度をとった.このことは,他の藩とは異なり,徳島藩の政治上の大きな特徴(とくちょう)でぁった.
いっぽう,藩は,農民が納める年貢(ねんぐ)を基盤とし,さらに特産品を専売化して,経済を確立させる政策をとった.
●江戸時代の貨幣
江戸時代の貨幣の制度は,金相場制と銀相場制に分かれ,おもに関東諸国は金相場制,関西諸国は銀相場制をとった.その単位は,1両が4分,4分が16朱,16朱が4000文という,四進法が用いられた.阿波は銀相場制.
●棟付改(むねつけあらため)復元模型
この模型は,1811年(文化7)4月,三好郡加茂村(現三加茂町加茂)で行なわれた徳島藩の棟付改の様子を復元したものである.棟付改を受ける農家では,家族全員が庭先のむしろに座り,隠人がいないことを確認するため,戸・障子を開放して調査を受けた.役人は,徳島城下から派遣された郡代をはじめ,庄屋など約17名であった.
村と百姓
徳島藩の農民は,重い年貢(ねんぐ)納入の義務を負い,きびしい身分制のもとに統制された.
いっぽう,彼らは,村社会の一員として,寄合(よりあい)や氏神(うじがみ)の祭りなどの村の運営に参加した.こうした村の生活は,平地では長く伝えられることが少なかった.しかし,山村では,自然環境がきびしかったにもかかわらず,氏神の祭りや信仰にかかわる行事などが,今日(こんにち)まで大切に伝えられてきた.
藍と阿波商人
藍(あい)は,江戸時代から明治時代にかけて,わが国に広く流通した紺色(こんいろ)の染色原料である.
阿波での藍の栽培は,室町時代までさかのぼることが確認されている.江戸時代の阿波藍は,徳島藩の専売政策によって藍の全国市場を独占し,阿波を代表する特産物となった.そのため,強い経済力をもった多くの藍商人が現れた.この藍商人以外にも,専売化された塩・和紙・煙草(たばこ)などの特産物をあつかう多くの特定商人がいた.
阿波藍のできるまで
藍づくりは,種まき,藍こなし,すくもの製造,藍玉(あいだま)の加工の4つの過程に大きくわけられる.
種まきは,旧暦(きゅうれき)の1月の節分(せつぶん)ごろ行なわれ,6〜7月の藍の収穫後,きざんだ葉を乾燥(かんそう)させる藍こなしが行なわれた.8月には,葉をむらなく発酵(はっこう)させる寝せこみによって,すくもの製造がはじめられた.すくもができると,臼(うす)でつき藍玉に加工され,11月ごろ阿波藍として全国に出荷された.
阿波の特産物
阿波の特産物は,藍,塩,和紙,煙草(たばこ),砂糖(さとう)などであった.
藍は吉野川流域でさかんに生産され,塩はおもに鳴門市撫養(むや)周辺で生産された.砂糖は原料となるサトウキビが,吉野川流域や南部の平野部で栽培され,和紙や煙草は,美馬(みま)や三好の山間部で生産された.これら特産物の生産は,藩の専売政策によって保護され,大きく発展した.
●藍商人の帳場 監修:四宮照義
阿波の藍商人は,すくもや藍玉(あいだま)を全国に販売し,生産から販売までをすべて行なった有力な商人が数多くいた.なかでも,藍玉の需要(じゅよう)が多い関東や大坂の売場株(うりばかぶ)をもった久次米(くじめ)・三木・西野・田中・奥村家などは,豪商としてその名が知られている.現在,県内には,藍商人の大規模な家屋がいくつか残されている.
この模型は,美馬(みま)郡脇町(わきまち)などに残る藍商人の家屋を参考にして,その帳場(ちょうば)の一部を復元したものである.
阿波人形浄瑠璃
阿波人形浄瑠璃(じょうるり)は,江戸時代に淡路から伝わった人形芝居が始まりといわれる.阿波の人形座は,蜂須賀(はちすか)家の保護と,藍(あい)商人の経済力に支えられて諸国を巡業(じゅんぎょう)した.また,江戸や大坂から新しい出し物を取り入れながら,力強い芸風(げいふう)をつくりあげた.
演じる題は,代表作である「傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)」をはじめ,800近くもあった.人形頭(かしら)をつくる人形師も多く,馬ノ背駒蔵(うまのせこまぞう)や鳴州(めいしゅう),人形富(にんぎょうとみ),天狗久(てんぐひさ)などが,すぐれた作品を数多くつくりだした.
阿波の農村舞台
村むらにやってくる人形浄瑠璃(じょうるり)は,苦しい生活を強(し)いられていた農民たちにとって,数少ない楽しみであった.人形座は淡路からくることが多く,なかには地元出身の人形座もあった.彼らは,神社の境内(けいだい)に建てられた舞台で興業(こうぎょう)を行なった.
徳島県下に多くあった農村舞台は,近年数が減っている.しかし,犬飼(いぬかい)や坂州(さかしゅう)など代表的な舞台が,今も大切に保存されている.
阿波の人形師たち
人形頭は,浄瑠璃(じょうるり)人形に生命をあたえるもっとも大切な部分である.阿波の人形師たちは,舞台上での効果を考えながら,力強くたくましい人形頭をつくりだした.
馬ノ瀬駒蔵(うまのせこまぞう)は,最初に人形頭の目や口を動かしたとされる.人形富(にんぎょうとみ)は,京人形の塗りを取り入れて上品な頭(かしら)をつくった.初代天狗久(てんぐひさ)は,頭(かしら)を大きくしたり,ガラス目をはめるなど,屋外の舞台で映(は)ぇるくふうをした.
●天拘久の工房
天狗久(てんぐひさ)は,3代にわたり,数多くのすぐれた人形を制作した.とくに初代天狗久 吉岡久吉(ひさきち)は,名人(めいじん)と称された人形師であった.
この模型は,徳島市国府(こくふちょう)町和田に残る天狗久の工房をもとに製作したものである.南に面した工房には,人形制作の道具をはじめ,制作中の頭(かしら)や修理中の人形が多数並べられている.正面では,初代天狗久が角目頭(かどめがしら)を彫(ほ)り,右側では,3代目天狗久 吉岡治(おさむ)が娘頭を毛描(けが)きしている.
四国遍路
四国の地では,平安時代から僧が難所(なんしょ)を巡って修行(しゅぎょう)をしており,鎌倉時代ごろには,いくつかの霊場ができていた.江戸時代になると,四国が弘法大師(こうぼうたいし)の生まれた地であったことから,これらの霊場もふくめて,大師ゆかりの寺院八十八カ所がさだまった.
八十八カ所の巡礼者は,おもに信仰のあつい庶民(しょみん)であった.彼らは「お遍路(へんろ)さん」とよばれ,白装束(しろしょうぞく)をつけ,金剛杖(こんごうづえ)をついて寺でらを巡った.土地の人びとも,お遍路さんを手あつくもてなした.
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