6 近代の徳島

 

 江戸幕府(ばくふ)が倒れ,明治政府が成立したのち,1880年(明治13),阿波国は高知県から独立し,徳島県が誕生した.その後本県は,最大産業であった阿波藍(あい)の没落や,大正期の労働争議の発生をへて,昭和期の恐慌(きょうこう)と長く苦しい戦争の時代をむかえた.そして,太平洋戦争の末期には,徳島市はアメリカ軍の激しい空襲(くうしゅう)を受け,多くの犠牲(ぎせい)者を出した.
 このような徳島の暗い近代の歴史のなかで,古くから民衆によって伝えられてきた阿波おどりは,県民にとって,数少ない楽しみの一つであった.阿波おどりを描いた絵画や各種の資料から,阿波おどりの移り変わりを見てみよう.

 

 徳島大空襲
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阿波おどり

 

徳島大空襲

 満州事変(まんしゅうじへん),日中戦争,さらに太平洋戦争へと進むにつれて,戦争は国民の生活を圧迫した.男たちの多くは兵隊として戦場に送られ,学校では,女生徒にまで軍事教練(ぐんじきょうれん)が行なわれるようになった.そして,生活物資も不足し,配給(はいきゅう)制となった.
 戦争が激しくなると,おもな都市はアメリカ軍の空襲(くうしゅう)を受けた.やがて徳島市も,1945年(昭和20)7月4日に大空襲を受け,多くの犠牲(ぎせい)者を出した.しかし,その後県民は,郷土の復興(ふっこう)に力強く立ち上がった.

■空襲の被害
 徳島市は,7月4日早朝アメリカ軍のB29爆撃機129機によって,1050トンの激しい焼夷弾攻撃を受け,焼野原となった.被害は,死者約1千人,負傷者約2千人,被災者約7万人で,市の約6割が焦土(しょうど)となった徳島市では,戦争によるかつてない大きな被害を受けた.そしてこの空襲の傷跡は,現在もなお建物などに残っている.

 

阿波おどり

 阿波おどりのはじまりは,もともと徳島の城下町や,各地で行なわれてきた盆の精霊(しょうりょう)おどりが変化したものといわれている.
 江戸時代には,仮装(かそう)したおどりや,集団の組おどりがさかんであったが,明治・大正時代になると,おもに町中を流すおどりにかわっていった.古くは,旧暦の7月14日から3日間行なわれるのが習(なら)わしであった.
 現在,阿波おどりは,強烈なエネルギーをもった盆おどりとして,その名が知られている.

 

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