部門展示(人文)

 

 この展示室では,人びとが生活のなかでうみだしてきた文化をさまざまな側面から取りあげます.調査研究の成果や博物館の収蔵品をいくつかの小さなテーマにまとめて展示します.
 関係分野は,考古・歴史・美術工芸・民俗の4分野にわたります.考古分野では,主として県内でおこなわれた発掘調査の成果を取り入れて展示します.また,近年の考古学の潮流や基本的なことがらを理解する助けとなるように考えられています.歴史分野では,館内外の資料をもとに,徳島県を視点の中心にすえて歴史上のさまざまな事象について取りあげます.美術工芸分野では,阿波国ゆかりのすぐれた絵画や工芸品などを紹介します.作者や制作された背景にもふれ,作品を総合的に知ることができます.民俗分野では,現代の大衆文化も含め,生活用具や生産用具など人びとの生活に密着した資料を展示します.
 さらに,複数の分野にまたがるテーマでの展示や,新着資料の紹介もここでおこないます. 

 

 ・開館当時の展示内容
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展示替え一覧
 

 

 

開館当時の展示内容

焼物のうつりかわり

 焼物は,土器,陶器(とうき),磁器(じき)に大きくわけられ,この順で焼かれはじめた.陶器・磁器を焼く技術は,中国や朝鮮半島から伝えられた.
 土器は,低い温度で野焼きされ,やわらかくてもろい.陶器や磁器は,1000℃以上の高温で,窯(かま)を使って焼かれる.陶器には,うわぐすりをかけて焼かれたものと,うわぐすりをかけずに強く焼き締められただけのものとがある.磁器は,陶器よりもさらに高温で焼かれ,胎土(たいど)もきめこまかい.

 

土器づくりのはじまり

 日本では,約1万2000年前に土器づくりがはじまり,丸底やとんがり底の縄文土器が焼かれた.縄文土器は,形や文様を変えながら約1万年の間つくられた.徳島では,古屋岩陰遺跡(ふるやいわかげいせき)や加茂谷川(かもだにがわ)岩陰遺跡の縄文土器が,最も古く,約8000年前のものである.
 その後,弥生土器,土師器(はじき)とうつりかわり,文様はしだいに少なくなっていくが,焼き方は変わらず,低い温度による野焼きであった.

■縄文土器
 とんがり底や丸底の深鉢はだんだんと平底となり,深鉢のほかにも浅鉢が加わる.文様は縄文を中心に撚糸文(よりいともん),押型文,沈線文などが施文されるが,西日本では後期のすり消し縄文を最後に,縄文は消えてしまう.

■弥生時代前期の土器
 弥生土器には,貯蔵の壺,煮たきの甕,盛りつけの鉢,高坏などがある.前期には,ヘラを使ってさまざまな文様が描かれた.弥生土器は北部九州で生まれるが,またたく間に東北地方にまで伝わった.

■弥生時代中期の土器
 中期には地方色豊かな土器がつくられ,さまざまなタイプの櫛描文や凹線文などが描かれた.徳島では,前半には大阪湾沿岸地方の影響を受けているが,後半になると形や製作法が瀬戸内地方の土器としだいに似てくる.

■弥生時代後期の土器
 後期になると土器には文様が描かれなくなり,平底はだんだんと丸底にかわっていく.溝を刻んだ板で土器をたたきしめる整形法がさかんになる.徳島では,口縁の端をつまみあげる独特の土器が現れる.

■土師器(はじき)
 古墳時代から平安時代までの素焼きの土器は士師器と呼ばれる.弥生土器や後の土師質土器との区別ははっきりとせず,庄内式と呼ばれる一群の土器は,弥生時代終末の土器なのか,古墳時代はじめの土器なのか意見が分かれる.

■土器の移動
 弥生時代には,地域ごとに特色ある土器がつくられた.土器は産物とともに,各地へと移動した.
 鮎喰川(あくいがわ)下流域では,この地域特有のつくりかたをする土器が発達した.この土器は,高知,兵庫南部,大阪,奈良などから数多く発見されている.
 いっぽう,吉野川下流域の黒谷川郡頭遺跡(くろたにがわこおずいせき)では,鮎喰川下流域の土器にまじって香川,岡山南部,大阪中部などの土器もみつかっている.

 

須恵器と瓦

 5世紀中ごろ,朝鮮(ちょうせん)半島から,窯(かま)を築いて,1000℃以上の高温で焼物をつくる技術が伝わり,大阪府南部や福岡県周辺などで須恵器(すえき)がつくられはじめた.ねずみ色で硬(かた)い須恵器は,食器や貯蔵容器などに用いられた.
 6世紀末になると,日本でも寺が建てられるようになり,須恵器と同じように,窯で焼かれた瓦(かわら)が使われはじめた.
 徳島にも,須恵器や瓦の窯跡が残っている.

●徳島市内ノ御田瓦窯
 徳島市入田町(にゅうたちょう)にある内ノ御田瓦窯(うちのみたがよう)は,斜面を利用してトンネル状にくりぬいたあな窯(がま)で,長さ11.7m,幅1.4mである.この窯は,たき口,燃焼部,焼成部・煙だしからなっている.焼成部の床には18段の階段があり,この段の上において瓦を焼いた.
 この窯で炊かれた瓦は,国分寺,国分尼寺,石井廃寺などで使われた.

■須恵器の器形と用途
 須恵器には甕(かめ),壺(つぼ),瓶(へい),器台(きだい),はそう,碗(わん),蓋坏(ふたつき)高坏(たかつき),盤(ばん)・皿(さら),甑(こしき),すり鉢などの器形がある.古墳のまつりの供献(きょうけん)用,副葬品のほか,多くは日常生活で使われ,甕,壺は貯蔵用,小型の壺・瓶.坏,高坏,碗,盤・皿は食器である.

■瓦の種類
 古代の瓦には,丸瓦,平瓦,軒丸瓦・軒平瓦,熨斗(のし)瓦・鬼瓦,鴟尾(しび)などがある.軒先を美しく飾る軒丸瓦や軒平瓦には,ハスの花をかたどった蓮華文や弧状の模様を重ねた重弧文,そして唐草文などがつけられる.

 

中世の焼物

 中世には,さまざまな焼物が生産されたが,とくに目立つのは,全国各地で陶器(とうき)が焼かれるようになったことである.
 焼物のなかには,商業や交通の発達により,各地に流通するものもあった.阿波にも数多くの焼物が運びこまれており,徳島市中島田遺跡からの出土品を例にとると,常滑(とこなめ)や瀬戸(せと),備前(びぜん)などで生産された陶器や和泉(いずみ)地方産の瓦器(がき),大陸から輸入された磁器(じき)などがあった.

 

近世の焼物

 江戸時代になると,京都の色絵陶器(いろえとうき)や肥前磁器(ひぜんじき)のように,今までにない,はなやかな焼物があらわれた.また,この時代には全国各地であたらしい窯(かま)がひらかれ,高級品から日用品まで,さまざまな焼物がつくられた.
 阿波でも,藩主の御庭(おにわ)焼である阿波焼を最初に,大谷焼,庸八(ようはち)焼などが焼かれはじめ,淡路ではみん平(ぺい)焼が焼かれた.これらには,京都や肥前の影響をうけたものが多かった.

■阿波焼
 1769年(明和6),10代藩主蜂須賀重喜(はちすかしげよし)の命令で陶工丈七(じょうしち)が焼いた焼物.
 重喜は,京都から裏千家(うらせんけ)八世一灯宗室(いっとうそうしつ)と丈七をまねき,勝浦(かつうら)郡大谷村(現徳島市大谷町)にあった藩の大谷屋敷の近くに窯(かま)を築かせ,焼物を焼かせた.その期間はわずか2〜3年であった.作品の種類は,茶碗(ちゃわん)・茶入(ちゃいれ)・水指(みずさし)などの茶器(ちゃき)がおもであった.
 丈七は,阿波に滞在のあと,故郷の伊勢国に帰って時中(ときなか)焼を焼いた.

■庸八焼
 江戸後期の陶工冨永庸八(ようはち)が焼いた焼物.庸八は,讃岐(さぬき)国(現香川県)の出身であったが,天保(てんぽう)年間(1830〜1844)には,阿波国徳島の金刀比羅(ことひら)神社下に住んでいた.
 庸八焼は,讃岐の源内(げんない)焼の流れをくみ,京焼の影響も受けている.讃岐で焼いた作品を讃岐庸八,阿波での作品を阿波庸八とよんで区別するが,阿波庸八に優れたものが多い.作品の種類は茶器(ちゃき)が多く,「梅(うめ)の画水指(えみずさし)」はその代表作である.

■みん平焼
 天保(てんぽう)年間(1830〜1844),淡路国三原郡伊賀野(いがの)村(現兵庫県南淡〔なんだん〕町)で,賀集みん平(かしゅうみんぺい)がはじめた焼物.みん平は庄屋の家に生まれたが,京焼の陶工尾形周平(おがたしゅうへい)に出会ったことから焼物に興味をもち,周平を淡路にまねきその技法を学んだ.その後,彼は努力をかさね,藩の御用窯の監督(かんとく)を命じられるまでになった.
 みん平焼では,仁清(にんせい)写しの秋草図茶碗と赤絵の海老(えび)図茶碗が有名であるが,黄南京(きなんきん),染付(そめつけ),絵高麗(えこうらい)などさまざまなものを焼いている.

■中山焼・福井焼
 中山焼と福井焼は,どちらも天保(てんぽう)(1830〜1844)ごろに焼かれた焼物である.
 中山焼は,板野(いたの)郡木津(きづ)村中山(現鳴門市撫養〔むや〕町)で焼かれた染付磁器(そめつけじき).作品はひじょうに少なく,わずかに「祖谷(いや)かずら橋筒花生(つつはないけ)」など3点が残されているにすぎない.
 福井焼は,那賀(なか)郡下福井村(現阿南市福井町)で焼かれた焼物.残された作品は,「青海波浮牡丹文土瓶(せいかいはうきぼたんもんどびん)」のみで,箱書きから幕府の巡検使(じゅんけんし)の接待に使われたことがわかる.

■大谷焼
 江戸中期から,板野(いたの)郡大谷村(現鳴門市大麻〔おおあさ〕町)で焼かれた焼物.そのはじまりについては,九州の陶工文右衛門(ぶんえもん)が,火消し壺などを焼いたのが最初とする説と,納田平次兵衛(のうだへいじべえ)が信楽(しがらき)の技法を学んで甕(かめ)を焼いたのが最初とする説がある.
 大谷焼は,明治から大正にかけて,藍染(あいぞめ)に用いる甕や,水甕,徳利(とくり)などをつくって栄えた.徳島において,江戸時代から現在まで続いているただ一つの焼物である.

 

徳島藩御用絵師

 御用絵師(ごようえし)は,幕府(ばくふ)や藩(はん)に仕えた絵師である.江戸時代のはじめ,狩野探幽(かのうたんゆう)が徳川幕府の御用絵師になると,やがて各地の藩でも絵師を抱(かか)えるようになり,狩野派がその職を独占した.
 徳島藩では,狩野派の佐々木,矢野 河野,森崎の四家が代々この職を継(つ)ぎ,のちには住吉(すみよし)派,南画(なんが)系の絵師も抱えられた.彼らは,江戸の狩野家や住吉家などのもとで絵の修業をし,藩にかかわるさまざまな絵の仕事を勤(つと)めることで,阿波の画壇を発展させる役割をはたした.

 

郷土の先人−守住貫魚

 守住貫魚(もりずみつらな)は,江戸時代後期に徳島で生まれ,16歳の時に住吉(すみよし)派の渡辺広輝(ひろてる)に入門した.そののち,住吉広定(ひろさだ)に弟子入りし,30歳で藩の御用絵師となった.明治維新(いしん)の時にその職を失ったが,1884年(明治17)の第2回内国絵画共進会(ないこくかいがきょうしんかい)に出品して金賞を受け,6年後には,宮内(くない)大臣ょり帝室技芸員(ていしつぎげいいん)に任命された.
 貫魚は,変化のはげしい明治時代の美術界において,伝統的な立場をつらぬいた画家のひとりであった.

 

阿波のいただきさん

 県南海岸部の由岐(ゆき)町阿部(あぶ)・伊座利(いざり)には,昭和はじめまで,籠(かご)を頭の上にのせて各地に海産物を売り歩き,生計をたててきた女性がいた.彼女たちは,「阿波のいただきさん」の名で知られていた.その名は,「いただき」という頭上運搬法にちなむものである.明治期には船を宿として行商していたが,大正期になると各地の宿を基点とした方法も加わり,さらに販路(はんろ)を広げていった.

●いただきさんの姿
 白い脚半にわらじかけ,黒の手甲,木綿の前かけ,着物のすそをちょっとからげたいただきさん.重い籠を頭にのせて,背すじをのばして行商した.頭と籠の間には,ドーナツ型の籠スケをおいてクッションとした.

●ノージ船
 いただき行商の時に使われた船.阿部では出買船という.船には船頭1人と売子5〜6人が乗り込み,生活用品や商品などが積まれていた.いただきさんの里,伊座利の新田八幡神社には,海上安全を祈願して模型が奉納されている.

 
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