開館当時の展示内容
焼物のうつりかわり
焼物は,土器,陶器(とうき),磁器(じき)に大きくわけられ,この順で焼かれはじめた.陶器・磁器を焼く技術は,中国や朝鮮半島から伝えられた.
土器は,低い温度で野焼きされ,やわらかくてもろい.陶器や磁器は,1000℃以上の高温で,窯(かま)を使って焼かれる.陶器には,うわぐすりをかけて焼かれたものと,うわぐすりをかけずに強く焼き締められただけのものとがある.磁器は,陶器よりもさらに高温で焼かれ,胎土(たいど)もきめこまかい.
土器づくりのはじまり
日本では,約1万2000年前に土器づくりがはじまり,丸底やとんがり底の縄文土器が焼かれた.縄文土器は,形や文様を変えながら約1万年の間つくられた.徳島では,古屋岩陰遺跡(ふるやいわかげいせき)や加茂谷川(かもだにがわ)岩陰遺跡の縄文土器が,最も古く,約8000年前のものである.
その後,弥生土器,土師器(はじき)とうつりかわり,文様はしだいに少なくなっていくが,焼き方は変わらず,低い温度による野焼きであった.
■縄文土器
とんがり底や丸底の深鉢はだんだんと平底となり,深鉢のほかにも浅鉢が加わる.文様は縄文を中心に撚糸文(よりいともん),押型文,沈線文などが施文されるが,西日本では後期のすり消し縄文を最後に,縄文は消えてしまう.
■弥生時代前期の土器
弥生土器には,貯蔵の壺,煮たきの甕,盛りつけの鉢,高坏などがある.前期には,ヘラを使ってさまざまな文様が描かれた.弥生土器は北部九州で生まれるが,またたく間に東北地方にまで伝わった.
■弥生時代中期の土器
中期には地方色豊かな土器がつくられ,さまざまなタイプの櫛描文や凹線文などが描かれた.徳島では,前半には大阪湾沿岸地方の影響を受けているが,後半になると形や製作法が瀬戸内地方の土器としだいに似てくる.
■弥生時代後期の土器
後期になると土器には文様が描かれなくなり,平底はだんだんと丸底にかわっていく.溝を刻んだ板で土器をたたきしめる整形法がさかんになる.徳島では,口縁の端をつまみあげる独特の土器が現れる.
■土師器(はじき)
古墳時代から平安時代までの素焼きの土器は士師器と呼ばれる.弥生土器や後の土師質土器との区別ははっきりとせず,庄内式と呼ばれる一群の土器は,弥生時代終末の土器なのか,古墳時代はじめの土器なのか意見が分かれる.
■土器の移動
弥生時代には,地域ごとに特色ある土器がつくられた.土器は産物とともに,各地へと移動した.
鮎喰川(あくいがわ)下流域では,この地域特有のつくりかたをする土器が発達した.この土器は,高知,兵庫南部,大阪,奈良などから数多く発見されている.
いっぽう,吉野川下流域の黒谷川郡頭遺跡(くろたにがわこおずいせき)では,鮎喰川下流域の土器にまじって香川,岡山南部,大阪中部などの土器もみつかっている.
須恵器と瓦
5世紀中ごろ,朝鮮(ちょうせん)半島から,窯(かま)を築いて,1000℃以上の高温で焼物をつくる技術が伝わり,大阪府南部や福岡県周辺などで須恵器(すえき)がつくられはじめた.ねずみ色で硬(かた)い須恵器は,食器や貯蔵容器などに用いられた.
6世紀末になると,日本でも寺が建てられるようになり,須恵器と同じように,窯で焼かれた瓦(かわら)が使われはじめた.
徳島にも,須恵器や瓦の窯跡が残っている.
●徳島市内ノ御田瓦窯
徳島市入田町(にゅうたちょう)にある内ノ御田瓦窯(うちのみたがよう)は,斜面を利用してトンネル状にくりぬいたあな窯(がま)で,長さ11.7m,幅1.4mである.この窯は,たき口,燃焼部,焼成部・煙だしからなっている.焼成部の床には18段の階段があり,この段の上において瓦を焼いた.
この窯で炊かれた瓦は,国分寺,国分尼寺,石井廃寺などで使われた.
■須恵器の器形と用途
須恵器には甕(かめ),壺(つぼ),瓶(へい),器台(きだい),はそう,碗(わん),蓋坏(ふたつき)高坏(たかつき),盤(ばん)・皿(さら),甑(こしき),すり鉢などの器形がある.古墳のまつりの供献(きょうけん)用,副葬品のほか,多くは日常生活で使われ,甕,壺は貯蔵用,小型の壺・瓶.坏,高坏,碗,盤・皿は食器である.
■瓦の種類
古代の瓦には,丸瓦,平瓦,軒丸瓦・軒平瓦,熨斗(のし)瓦・鬼瓦,鴟尾(しび)などがある.軒先を美しく飾る軒丸瓦や軒平瓦には,ハスの花をかたどった蓮華文や弧状の模様を重ねた重弧文,そして唐草文などがつけられる.
中世の焼物
中世には,さまざまな焼物が生産されたが,とくに目立つのは,全国各地で陶器(とうき)が焼かれるようになったことである.
焼物のなかには,商業や交通の発達により,各地に流通するものもあった.阿波にも数多くの焼物が運びこまれており,徳島市中島田遺跡からの出土品を例にとると,常滑(とこなめ)や瀬戸(せと),備前(びぜん)などで生産された陶器や和泉(いずみ)地方産の瓦器(がき),大陸から輸入された磁器(じき)などがあった.
近世の焼物
江戸時代になると,京都の色絵陶器(いろえとうき)や肥前磁器(ひぜんじき)のように,今までにない,はなやかな焼物があらわれた.また,この時代には全国各地であたらしい窯(かま)がひらかれ,高級品から日用品まで,さまざまな焼物がつくられた.
阿波でも,藩主の御庭(おにわ)焼である阿波焼を最初に,大谷焼,庸八(ようはち)焼などが焼かれはじめ,淡路ではみん平(ぺい)焼が焼かれた.これらには,京都や肥前の影響をうけたものが多かった.
■阿波焼
1769年(明和6),10代藩主蜂須賀重喜(はちすかしげよし)の命令で陶工丈七(じょうしち)が焼いた焼物.
重喜は,京都から裏千家(うらせんけ)八世一灯宗室(いっとうそうしつ)と丈七をまねき,勝浦(かつうら)郡大谷村(現徳島市大谷町)にあった藩の大谷屋敷の近くに窯(かま)を築かせ,焼物を焼かせた.その期間はわずか2〜3年であった.作品の種類は,茶碗(ちゃわん)・茶入(ちゃいれ)・水指(みずさし)などの茶器(ちゃき)がおもであった.
丈七は,阿波に滞在のあと,故郷の伊勢国に帰って時中(ときなか)焼を焼いた.
■庸八焼
江戸後期の陶工冨永庸八(ようはち)が焼いた焼物.庸八は,讃岐(さぬき)国(現香川県)の出身であったが,天保(てんぽう)年間(1830〜1844)には,阿波国徳島の金刀比羅(ことひら)神社下に住んでいた.
庸八焼は,讃岐の源内(げんない)焼の流れをくみ,京焼の影響も受けている.讃岐で焼いた作品を讃岐庸八,阿波での作品を阿波庸八とよんで区別するが,阿波庸八に優れたものが多い.作品の種類は茶器(ちゃき)が多く,「梅(うめ)の画水指(えみずさし)」はその代表作である.
■みん平焼
天保(てんぽう)年間(1830〜1844),淡路国三原郡伊賀野(いがの)村(現兵庫県南淡〔なんだん〕町)で,賀集みん平(かしゅうみんぺい)がはじめた焼物.みん平は庄屋の家に生まれたが,京焼の陶工尾形周平(おがたしゅうへい)に出会ったことから焼物に興味をもち,周平を淡路にまねきその技法を学んだ.その後,彼は努力をかさね,藩の御用窯の監督(かんとく)を命じられるまでになった.
みん平焼では,仁清(にんせい)写しの秋草図茶碗と赤絵の海老(えび)図茶碗が有名であるが,黄南京(きなんきん),染付(そめつけ),絵高麗(えこうらい)などさまざまなものを焼いている.
■中山焼・福井焼
中山焼と福井焼は,どちらも天保(てんぽう)(1830〜1844)ごろに焼かれた焼物である.
中山焼は,板野(いたの)郡木津(きづ)村中山(現鳴門市撫養〔むや〕町)で焼かれた染付磁器(そめつけじき).作品はひじょうに少なく,わずかに「祖谷(いや)かずら橋筒花生(つつはないけ)」など3点が残されているにすぎない.
福井焼は,那賀(なか)郡下福井村(現阿南市福井町)で焼かれた焼物.残された作品は,「青海波浮牡丹文土瓶(せいかいはうきぼたんもんどびん)」のみで,箱書きから幕府の巡検使(じゅんけんし)の接待に使われたことがわかる.
■大谷焼
江戸中期から,板野(いたの)郡大谷村(現鳴門市大麻〔おおあさ〕町)で焼かれた焼物.そのはじまりについては,九州の陶工文右衛門(ぶんえもん)が,火消し壺などを焼いたのが最初とする説と,納田平次兵衛(のうだへいじべえ)が信楽(しがらき)の技法を学んで甕(かめ)を焼いたのが最初とする説がある.
大谷焼は,明治から大正にかけて,藍染(あいぞめ)に用いる甕や,水甕,徳利(とくり)などをつくって栄えた.徳島において,江戸時代から現在まで続いているただ一つの焼物である.
徳島藩御用絵師
御用絵師(ごようえし)は,幕府(ばくふ)や藩(はん)に仕えた絵師である.江戸時代のはじめ,狩野探幽(かのうたんゆう)が徳川幕府の御用絵師になると,やがて各地の藩でも絵師を抱(かか)えるようになり,狩野派がその職を独占した.
徳島藩では,狩野派の佐々木,矢野 河野,森崎の四家が代々この職を継(つ)ぎ,のちには住吉(すみよし)派,南画(なんが)系の絵師も抱えられた.彼らは,江戸の狩野家や住吉家などのもとで絵の修業をし,藩にかかわるさまざまな絵の仕事を勤(つと)めることで,阿波の画壇を発展させる役割をはたした.
郷土の先人−守住貫魚
守住貫魚(もりずみつらな)は,江戸時代後期に徳島で生まれ,16歳の時に住吉(すみよし)派の渡辺広輝(ひろてる)に入門した.そののち,住吉広定(ひろさだ)に弟子入りし,30歳で藩の御用絵師となった.明治維新(いしん)の時にその職を失ったが,1884年(明治17)の第2回内国絵画共進会(ないこくかいがきょうしんかい)に出品して金賞を受け,6年後には,宮内(くない)大臣ょり帝室技芸員(ていしつぎげいいん)に任命された.
貫魚は,変化のはげしい明治時代の美術界において,伝統的な立場をつらぬいた画家のひとりであった.
阿波のいただきさん
県南海岸部の由岐(ゆき)町阿部(あぶ)・伊座利(いざり)には,昭和はじめまで,籠(かご)を頭の上にのせて各地に海産物を売り歩き,生計をたててきた女性がいた.彼女たちは,「阿波のいただきさん」の名で知られていた.その名は,「いただき」という頭上運搬法にちなむものである.明治期には船を宿として行商していたが,大正期になると各地の宿を基点とした方法も加わり,さらに販路(はんろ)を広げていった.
●いただきさんの姿
白い脚半にわらじかけ,黒の手甲,木綿の前かけ,着物のすそをちょっとからげたいただきさん.重い籠を頭にのせて,背すじをのばして行商した.頭と籠の間には,ドーナツ型の籠スケをおいてクッションとした.
●ノージ船
いただき行商の時に使われた船.阿部では出買船という.船には船頭1人と売子5〜6人が乗り込み,生活用品や商品などが積まれていた.いただきさんの里,伊座利の新田八幡神社には,海上安全を祈願して模型が奉納されている.
[部門展示(自然)][常設展示ツアーのトップページ]
|