徳島水平社創立八〇周年記念展を終えて

 

 一 80年目―2004年12月24日の意味

 街が浮き立つクリスマスイブの12月24日。この日が、徳島の歴史の中では、実に重い意味を持っていることを、意識することがあるでしょうか。そう問うと、とまどう人が多いのではないでしょうか。
 では、この日は何の日でしょうか。1924年12月24日、現在の徳島市内のある地域で、部落解放運動団体である水平社が旗揚げしたのです。徳島では初めての水平社組織でした。
 「水平社」については、被差別部落の人たちの自主的・自立的な解放運動として、部落解放運動の歴史はもちろん、日本における人権の歴史において重要な役割を果たしたことで知られています。とくに、1922年3月、京都の岡崎公会堂で行われた全国水平社の創立大会は、教科書などでもよく触れられています。
 折しも2004年は、徳島における水平社の創立から80年目に当たる年でした。地域史における事実としても重要な意味があったと思いますが、これを取り上げたメディアは、運動団体の機関紙である『解放新聞徳島版』だけでした。特別措置法の失効以後、あたかも部落問題が「終わった」かのようにいわれる昨今、「節目」の年の意味を問い、現在の時点から課題を問うことが大切だと思いますが、そうした動きは事実上なかったといわざるを得ないのです。
 このような状況のもと、徳島県立博物館ではささやかながら、常設展示室の一角で、部門展示「徳島水平社創立80周年記念 部落解放のあゆみ」を開催しました(2004年12月7日〜2005年2月6日)。

 

 二 展示に至るまで

 県立博物館では、1994年に開催した企画展「人間に光あれ―被差別部落に生きた人びと」をはじめとして、人権問題に関わる展示の試みを断続的に行ってきました。
 具体的には、被差別民衆が担った芸能を紹介した「失われた伝統―民衆芸能の世界―」(1997〜98年)、中世の絵巻物をもとに身分と差別をとらえた「描かれた職人たち―絵に見る中世―」(1999年)、山岳信仰の歴史を紹介するなかで女性差別にも触れた「山の祈り―修験道の世界―」(2000年)、強制連行と在日コリアンの鉱山労働について考えた「丹波マンガン鉱山の記録―在日コリアンの労働史」(2002年)、現代のアイヌ民族の文化を紹介した「アイヌ工芸品展 アイヌからのメッセージ―ものづくりと心―」(2003年)といった展示が挙げられます。
 けっして十分ではありませんが、こうした取り組みは、資料、すなわち「もの」を通じて、歴史・文化へのアプローチを行うという博物館固有の役割のなかで、人権問題や歴史の多様性を考えるきっかけづくりになることを願ってのことです。今回の展示もそうした流れの中に位置づけていました。
 それにしても、水平社運動を取り上げたのは、先に挙げた1994年の企画展のときだけでした。それも全体でいえばごくわずかなコーナーで、徳島に関する資料はほとんど得られませんでした。また、水平社博物館(奈良県御所市)が2002年に開催した全国水平社創立80周年記念特別展「全国水平社を支えた人びと」の準備にあたり、徳島の水平社に関する資料の照会がありましたが、あまり協力できないままでした。その特別展の成果が、今は同館の常設展に反映されていますが、徳島県のコーナーには当時の新聞記事だけしか展示されていません。
 こうした経験を踏まえても、徳島の水平社運動について、資料調査の積み上げはもちろん、運動の歴史的な意義について広く理解してもらう機会を持つ必要があることは明らかです。「徳島水平社創立80周年」の年に少しでも前進を図りたいと思い、準備に取りかかりました。とはいえ、特別な予算のない、常設展示の展示替えの一環だったので、大規模なことができるわけではありませんでした。
 また、展示資料についても、館蔵品はあまりありません。そのため、県内外の関係機関や個人に協力をお願いし、とにかく歴史をリアルに伝える「ナマ」の資料の重みを伝えたいと考えました。結果としては、私が当初思っていた以上に、たくさんの資料が集まりました。実に多くの「つながり」に支えられていたことを忘れることはできません。改めて感謝申し上げたいと思います。

 

 三 展示の内容

 では、どのような展示であったか紹介していきましょう。
 徳島における水平社運動の紹介が展示の柱であったことはいうまでもありませんが、そうだからといって、水平社のみを取り上げたのでは、適切ではありません。水平社運動は、忽然と生まれてきたわけではありません。部落問題が成立し、さらに先行する解放への取り組みがあったのです。そうした流れを示すことも必要だと考えました。また、この機会に、徳島出身の歴史学者で、部落史研究の開拓者として知られる喜田貞吉についても紹介してみたいとも思っていました。
 そうしたことから、展示は「部落問題の成立」「部落解放の道程」「喜田貞吉と部落史研究」の3コーナーから構成することにしました。それぞれのコーナーで取り上げた内容は次のようなものです。

 [1]部落問題の成立
 水平社運動は、部落問題の解決を目指しました。そこで、展示の起点として部落問題成立の経緯を取り上げました。
 近代の部落差別には、前近代の身分意識・差別意識を継承した側面がありますが、それだけではありません。近代社会は「平等」を原理とする一方で、近代化の過程においては新たに人間を序列化する価値観が生まれ、差別に対する根拠を与えていきました。その結果として部落問題が成立するのです。
 こうした流れに関して、幕末期における身分差別のあり方や「解放令」(1871年)に関わるものを展示しました。幕末から明治期に活躍した絵師守住貫魚(1809〜92年)の「二行日誌」のような新出資料も紹介しました。

 [2]部落解放の道程
 このコーナーは展示の中心で、部落差別をなくすための歩みを振り返りました。「部落改善運動と融和運動」と「徳島水平社の成立と展開」の2つのテーマに区分しました。

 (ア)部落改善運動と融和運動
 急速な資本主義化により社会矛盾が深刻化した20世紀初頭から、部落差別をなくすための取り組みが各地で見られるようになりました。これらは被差別部落内部の生活改善によって差別をなくそうとするもので、部落改善運動といいます。その流れは、被差別部落内外の融和を図る融和運動へと展開していきました。
 部落改善運動や融和運動は否定的に評価されることが多々ありましたが、一定の成果を積み上げたことや、これらの運動の中から水平社が生まれたことなどを考えると、「解放運動」の歴史のなかでは重要な位置を占めています。そこで、徳島県における部落改善運動と融和運動についての資料を紹介しました。

 (イ)徳島水平社の成立と展開
 全国水平社の創立、そして運動の徳島への波及という流れのもとで構成しました。全国水平社の関係資料としては、創立大会への参加を呼びかけたチラシ、創立大会で採択された宣言(一般に「水平社宣言」といわれています)や綱領のほか、水平社創立メンバーであった西光万吉(1895〜1970年)や阪本清一郎(1892〜1987年)の著書などを展示しました。
 徳島の運動については、水平社組織創立時のリーダーだった井藤正一(1902〜60年)の関係資料が中心でした。井藤の運動史上の位置はきわめて大きく、これまでにも県内の部落史関係出版物等でよく紹介されてきました。終生克明な日記をつけてきたことで知られ、それが運動史の一級資料として評価されています。しかしながら、実物が公開される機会はありませんでした。
 今回は、ご遺族から格別のご配慮をいただき、日記のほか、井藤が強く影響を受けていた栗須七郎(1882〜1950年。大阪府水平社を設立しました)の書簡類、明治期以来の井藤家の歴史に関する資料を多数お借りしました。スペースの都合で、すべてを展示することはできませんでしたが、徳島水平社の創立前後の状況、水平社運動のもっとも高揚した高松地方裁判所差別裁判糾弾闘争(1933年)に関する動向、栗須との交流などについて、実物資料で示すことができました。茶色っぽくなった紙やインクの色など、ひとつひとつの資料が歴史の重みを十分に伝えてくれたと思っています。

 [3]喜田貞吉と部落史研究
 喜田貞吉(1871〜1939年)は、現在の小松島市櫛淵町出身の歴史学者です。部落史研究の先駆者であり、被差別部落の成立の問題はもちろん、さまざまな被差別民衆の存在や社会の中の排除・差別生成のシステムに目を向けました。水平社運動や融和運動とも関わり、部落差別解消に向けて行動した歴史家でもありました。
 そうした喜田の部落史研究における代表的な著作として有名な『民族と歴史』2巻1号(1919年)をはじめ、関連する講演録や著作を展示しました。

 

 四 今後の課題 

 展示期間中には、予想以上にマスコミの取材、県内外からの視察等がありました。例年、もっとも来館者が少なくなる季節ですが、意外に多くの方にご覧いただけたようです。そうはいっても、これでよしというわけではありません。
 すでに述べたように、徳島における水平社運動史の調査研究の立ち後れは明らかです。例えば、井藤正一の関係資料についてはよく言及されるものの、きちんとした調査や分析がなく、彼の主体性や生涯に即した評価はなされていません。そのため、水平社運動に関わった時期だけがとくに強調される傾向がありますが、それは適切ではないでしょう。
 ほかにも課題はあります。徳島の水平社運動の展開を顧みると、初期には現在の徳島市を中心としていましたが、高松方裁判所差別裁判糾弾闘争を経て、県南に中心が移っていきました。その間の事情や、戦後の部落解放運動との関連性なども、ほとんど追究されていません。
 そうしたことを考えると、既知の資料の再検討を含め、今後も調査を続けることが必要なのです。そこには、運動や研究、教育、啓発等に携わる人たちの連携が不可欠となることは間違いありません。
 今回の展示の経験は、やっと出発点に立ったということに過ぎないのかも知れません。

(文中の人名については敬称を省略しました。ご了承ください。)

 

 

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