博物館ニューストップページ博物館ニュース133(2023年12月1日発行)近代徳島市の交通と風景(133号 CultureClub)

近代徳島市の交通と風景【Culture Club】

 歴史担当 小林 篤正

 近代徳島市は、旧来の城下町にもとづくまちなみを色濃く残しつつ、四国随一の大都市に成長していきました。その原動力の一つが、交通網の整備であり、都市の近代化を促進し、まちの風景を変化させました。
 ここでは、今からおよそ100年前、大正末期から昭和初期頃に撮影された当館所蔵の写真資料をもとに、近代徳島市の風景とその変化を眺めていきたいと思います。

陸上交通

 図1は、昭和20年(1945)7月4日の徳島大空襲で焼失する以前の、徳島駅前の風景です。徳島の鉄道は、明治32年(1899)、徳島~鴨島間の営業にはじまりました。その後、阿波池田方面へ延伸され、撫養、小松島など徳島の南北にも延びていきました。写真には、赤ん坊を背負った女性や、自転車に乗った男性たちとともに、乗合バスが写っています。右端のバスの前面には「ムヤ行」という文字が見えます。図2の現在の駅舎は、
平成4年(1992)に完成した4代目の建物になります。

図1 かつての徳島駅前の光景

図1 かつての徳島駅前の光景

図2 現在の徳島駅前の光景

図2 現在の徳島駅前の光景②

 次に図3を見てみましょう。ここに見られる橋は、明治19年(1886)に吉野川に架けられた木造の古川橋といいます。橋の長さは実に818mもありました。昭和3年(1928)に吉野川橋が完成する以前は、吉野川の南北を往来する人々の移動を支えましたが、橋の通行には、料金を支払う必要がありました。また、明治期に強固で長大な橋を建設することは技術的に難しく、ちょうど図3にあるように、川の南岸から30mの橋脚部分は、小船を浮かべただけの簡易な構造で、しばしば増水で流されたといいます。

図3 古川橋の光景(吉野川橋より約100m上流付近)

図3 古川橋の光景(吉野川橋より約100m上流付近)

水上交通

 図4は、新町橋下を通過する巡航船です。かつて、新町川から吉野川の河口付近には、巡航船が存在しました。しかし、昭和10年(1935)、高松~徳島間を結ぶ高徳本線(当時)が全通すると移動手段が鉄道にかわり、この巡航船も姿を消していきました。船には操縦士と思われる男性が、
また橋の上には複数の人々や、乳母車を押す人の姿なども見えます。なお、図5にある現在の新町橋は昭和27年(1952)に架け替えられたものです。

図4 新町橋下を通過する巡航船の光景

図4 新町橋下を通過する巡航船の光景

図5 現在の新町橋付近の光景

図5 現在の新町橋付近の光景

 最後の図6は、中洲港、現在のかちどき橋付近を写したものです。昭和12年(1937)に完成する同橋はまだ写っておらず、左側にはかつての中洲橋が見えます。多くの汽船がひしめき合って停泊している様子がわかります。ここは汽船会社が熾烈な競争を繰り広げた、貨客輸送の一大拠点で
した。中洲橋の道沿いに注目すると、多くの荷物や大八車が見え、この近辺では、多くの人々が働いていたのです。

図66 中洲港の光景(現かちどき橋付近)

図6 中洲港の光景(現かちどき橋付近)

 ここまで紹介してきた写真資料からは、筆者が今後詳しく調べたい点が見えてきました。例えば、多くの人々が利用する鉄道の誘致や橋の建設をめぐり、当時の地議会ではどのような議論が行われたのでしょうか。また、バスや汽船といった会社の経営や、働く人々の生活はいかなるもので
あったのでしょう。これから調査していきたい点への気づきを多く得ました。このように写真資料は、様々な側面から物事を考えるきっかけを与えてくれるものです。みなさまの家には、徳島の風景を撮影した古い写真はありませんか。また、今回掲載した写真の風景などについて情報をお持ちの方は、ぜひご一報ください。

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