書評 香月洋一郎『海士のむらの夏―素潜り漁の民俗誌―』

書評 香月洋一郎『海士のむらの夏―素潜り漁の民俗誌―』雄山閣、2009年1月10日発行、A5判、290+7頁、定価4,200円(税込み)

 本書は長崎県宇久島の平地区での民俗誌である。著者香月洋一郎氏の、10年あまりにわたる定点観察ともいえるフィールドワークから編み出された、海士(あま)の民俗誌である。
 日本列島で見るならば、女性の海女より男性の海士の方が多い。とくに海流や地形などの環境の厳しい海は海士の海となる。宇久島の海もその1つである。一般論からいうと、海士の集団は古くから漁場を求めて移住を繰り返してきたケースが多い。宇久島平地区の海士も、そうした系譜をなぞることのできる人びとであるという。しかし、著者の視点はそこに向かうものではない。潜水漁を生業とする海士の「技量」と「姿勢」、現在の海士たちの生きざまを照射し、その変化をしるしている。そこには、「いったい民俗とは何なのか、習俗を遡及するとはどのようなことなのかを、変化を記述することで考えていく」というフィールドでの問いがあった。
 海士による漁の特徴は、個人漁という点にある。漁船の単位の経営体で漁をするほかの漁法に対し、個々の技量や姿勢が直接漁獲に影響するのが、海士による素潜り潜水漁である。現在の海士たちの間で語られる伝説の海士、松坂林太郎氏の話がある。数十年にわたり平地区トップの漁獲をあげてきた。優れた山見の技術、「無駄なオヨギ」をしない技術、度胸と安定した精神状態を維持する技術などのトータルが個人の技量となり、漁獲高として数字として現れてくる。数十年にわたる統計データが、ときには生の語りをよりリアルなものにする。同じ生産共同体に属し、同じように漁場を知る海士たちの間でも、漁獲に明確な差が出る。海士の漁が個人の漁であることを示すものとして、次のような興味深い聞き書きがある。「平の海士仲間が一本釣りで海に出る時は、どこでよけいとれよるか、無線でお互いに知らせ合うとですよ。平だけじゃない。他のとこから一本釣りに来とる漁師とも情報交換していくとです。それでお互い海のこと魚のことを学んでいく。けどアワビ採りだけはそげなことはなか。絶対になか。」
 アワビのいるセの「のぞきこみかた」、「探しかた」にも一人一人くせがあるという。個々に探すスタイルを自ずと身につけているからである。しかし、腕利きの海士とそうでない海士のちがいは、結局「勘」ということばで集約される。海士の技量や知識、水中環境とも無関係ではないが、それに海士自身の精神状態の変化が相関する。海士の複合的能力を、漠然と括ることばである。
 さて、著者の立ち位置は常に現在にあり、本書において一貫している。海士の漁場に起こる現在的問題も記述する。磯焼け、密漁、アワビの稚貝放流、公共工事という海士の漁場での問題。波止に陸に向いて並ぶサンダルや、休漁には黄色旗をたてる慣習。アワビの流通と価格変動からローンでつくった新造船と最新機器。それぞれが複雑に絡まりあい、否応なく現代社会に飲み込まれる海士を位置づけ、少しずつその生業や生活、そして生きざままでも変えていく。その正体が何だったのか、著者は「民俗」というフィルターを用いて本質を見極めようとする。その営為こそが、この一流の海の民俗誌を生み出すことになった。ただ願わくば、あえて言及が避けられた本質なるものを、著者のことばで読み解いてほしかったのだが。